歴史を歩く173
39アジア諸国の変革と民族運動③
3日露戦争

閔妃暗殺
日本が三国干渉に屈服して遼東半島を清に返還すると、閔妃等は大国ロシアに接近して日本を牽制しようとし、親日派を追放しました(1895年7月)。
日本公使の三浦梧楼等は、ソウルの日本守備隊長等と共謀して守備隊・警察・民間人を王宮に乱入させ、閔妃を暗殺します(1895年10月)。
翌1896年2月、高宗はロシア公使館に逃げ込み、以後約1年間にわたって潜伏先で政務を執った為、朝鮮ではロシアの勢力が急速に増大し、親日派の勢力は弱まります。
1897年10月、高宗は国号を大韓帝国と改称し、自等の称号も国王から皇帝に変え、近代化の為の諸改革に取り組みました。

アムール河の流血事件
ロシアは、義和団事件が起こると満州(中国東北地方)に大軍を送り込み、1900年10月頃迄にはほぼ満州全域を占領し、事件後も東清鉄道の保護を口実に満州占領を続け、朝鮮への圧力を強めたので、朝鮮をめぐる日本とロシアの対立が激化していきます。
こうした状況の中で日本は、極東でのロシア進出を脅威とするイギリスと1902年1月に日英同盟を締結します。
日英同盟は、第一にイギリスが清国に於いて有する利益と日本が清国と韓国に於いて有する利益が、他の国から侵略され若しくは、騒動が起きた場合、両国はその利益を守る為に適当な行動をとることを認める事、第二に其の為に第三国と戦争になった時には、締約国は厳正中立を保つ事、そして第三に他の国が相手国と同盟して戦争する場合には締約国も協同して戦闘に当たる事等が約され、有効期間は5年とされ、その後1905年と1911年に改訂され、1921年に破棄されました。
日英同盟は、それまで「光栄ある孤立」を守ってきたイギリスが初めて結んだ条約でした。

日露戦争当時の日本軍とロシア軍
ロシアは、満州からの撤兵を約束しながら撤兵せず、逆に南満州への軍隊を増強し、日露交渉(1903年10月以後)が行きづまる中で、1904年2月に日露戦争が始まりました。
日露戦争は、朝鮮と満州(中国東北地方)の支配を巡る日本とロシアとの極東における戦争でしたが、日本をイギリス・アメリカが、ロシアをフランス・ドイツがそれぞれ支援する、当に列強の利害が絡んだ国際的帝国主義戦争で、ロシアは、同盟国フランス(露仏同盟は1891~94年に成立)の援助を得、バルカン方面への進出を狙っていたドイツもロシアの極東進出を期待してその対日戦を支持しまし、一方日本とイギリスは同盟国であり、中国市場への進出を狙うアメリカはロシアの満州占領を不快として日本に好意的な態度を取っていました。
日本にとって莫大な戦費が賄えるか否かが深刻な問題で、当時の日本の財政力からみて外債に頼るしかなく、しかもその外債をイギリスとアメリカに頼るしか手段は無く、日本は日露戦争の戦費17億1600万円の内8億円をイギリスとアメリカで募集した外債で賄いました。

第1回旅順口閉塞作戦
1904年2月6日、日本はロシアに対して国交断絶を通告し、2月8日~9日に仁川沖と旅順でロシア艦隊を攻撃し、2月10日にロシアに宣戦を布告し、日露戦争(1904年2月~1905年9月)が始まりました。
日本は、戦争遂行に必要な兵員・武器弾薬・食糧等を朝鮮・満州へ運ぶには対馬海峡・日本海・黄海の制海権を握ることが不可欠で、旅順のロシア艦隊を旅順港内へ閉じこめる為に、旅順口閉塞作戦(1904年2月~3月)を行いますが、閉塞には失敗しています。

日本軍の28センチ砲
陸軍は、5月には第一軍が鴨緑江を渡り、第二軍は遼東半島に上陸し、南満州へ進出しました。
乃木希典(のぎまれすけ、1849年~1911年)の率いる第三軍は難攻不落を誇る旅順要塞を攻撃しますが、ロシア軍の強固な陣地と機関銃の為に第1回の総攻撃(1904年8月)で1万6千人の死傷者を出し、3回にわたる総攻撃では4万人を越える死傷者を出しました。
其の為作戦を203高地攻撃に変更し、12月にこれを占領し、28サンチ砲で旅順港内のロシア艦隊を砲撃し、その大半を撃沈します。

乃木将軍とステッセル将軍の水師営の会見
1905年1月、ロシア司令官ステッセルは終に降伏し旅順が陥落、この間、陸軍は遼陽会戦(1904年8月)・沙河会戦(1904年10月)・黒溝台の戦い(1905年1月)でも多くの死傷者を出しながら、奉天(現在の瀋陽)へ迫ったのです。

榴弾砲を陣地に移動する黒木大将
1905年3月の奉天会戦では、日本軍約25万とロシア軍約31万が10余日にわたって激闘をくり返し、日本軍は約7万人の死傷者を出し、ロシア軍も10万人以上の死傷者を出して退却し、日本軍は奉天を占領しました。
奉天会戦では日本軍は勝利を納めましたが、砲弾を使い果たし、これ以上ロシア軍を追撃する余力は残っておらず、日本の国力・兵力は限界に達しつつあったのです。

バルチック艦隊旗艦クニャージ・スヴォーロフ (Князь Суворов) ボロジノ級4番艦
この間、ロシアは旅順港が封鎖されて制海権が奪われると、バルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)を日本に派遣し、制海権を奪回して日本軍に打撃を与えようと作戦でした。
バルチック艦隊は、1904年10月にリバウ港から1万8000海里の大航海に出発し、各地で石炭の補給をしながら、南アフリカの南端を回り、インド洋を東進し、1905年4月にはフランス領インドシナ(ヴェトナム)のカムラン湾に達し、5月には北上を開始しました。

「敵艦見ゆ」を最初に打電した日本帝国海軍仮装巡洋艦信濃丸
バルチック艦隊がウラジヴォストークに入る為に、対馬コースを進むか、太平洋回りのコースを進むかが重大な問題で、東郷平八郎(1847年~1934年)連合艦隊司令官は対馬海峡説をとり、艦隊をここに集結させていました。
1905年5月27日、連合艦隊の旗艦三笠に「皇国の興廃、この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」の信号が掲げられ、午後2時頃から日本海海戦が始まりました。
ロシア艦隊は38隻(戦艦8隻・巡洋艦11隻)からなり、戦艦の数と9インチ以上の巨砲の数では日本艦隊より勝っており、これに対して50隻(戦艦4隻・巡洋艦23隻)からなる日本艦隊は、巡洋艦の数と8インチ以上の速射砲の数で勝っていました。

日本海海戦
日本海海戦は、翌28日、砲術能力(命中率)に勝った日本艦隊の圧勝で終わり、ロシア艦隊38隻中、20隻が撃沈され、5隻が捕獲され、逃亡に成功したのは僅か2隻でした。
これに対して日本艦隊は水雷艇3隻を失っただけで、近代海戦に於いて稀に見る大戦果でした。

セオドア “テディ”・ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt、1858年10月27日 - 1919年1月6日)
日本は奉天会戦と日本海海戦に勝利を納め、戦局を有利に展開しましたが、軍事的・経済的には限界に近づいており、一方ロシアも、1905年1月に起こった「血の日曜日事件」をきっかけとする第一革命の勃発によって戦争継続が困難となっており、このため両国はアメリカ大統領セオドア・ローズベルトの調停を受け入れ、講和交渉に入りました。

日露講和会議
1905年8月、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、日本全権の小村寿太郎(1855年~1911年)とロシア全権ヴィッテが交渉に入りましたが、ロシアが威信にかけて領土の割譲と賠償金の支払いを拒否したので会議は難航し、決裂寸前の状況でしたが、日本が賠償金の支払い要求を撤回したので、ロシアも南樺太を割譲することで決着し、1905年9月ポーツマス条約が成立しました。
ポーツマス条約では、
1)、ロシアは日本の朝鮮における優越権を認める。
2)、ロシアは日本に遼東半島の租借権と東清鉄道支線(南満州鉄道)の利権を割譲する。
3)、ロシアは日本に北緯50度以南の樺太(南樺太)を割譲し、沿海州の漁業権を認める事などが約されました。

日比谷焼き討ち事件で演説する河野広中
しかし、日本国内ではポーツマス条約を屈辱的とする声が強く、日比谷焼打ち事件(1905年9月)等が起こりましたが、国際的帝国主義戦争であった日露戦争の結果は、以後の世界の歴史に大きな影響を及ぼしたのです。
ポーツマス条約でロシアに朝鮮に於ける優越権を認めさせた日本は、以後韓国への干渉を強め、1910年には韓国を併合します。

日露戦争後(1910年)の中国大陸列強勢力圏
日露戦争に敗れたロシアは、極東での南下政策を断念し、再びバルカンへの進出を強めてドイツ・オーストリアと衝突するようになりました。
そのためロシアは、1907年に日露協約を結び、両国が中国から得た利権の相互尊重を約し、秘密条項で日本の朝鮮に於ける、ロシアの外モンゴルに於ける特殊権益の尊重・勢力範囲等を協定しました。
又ロシアは、ドイツに対抗する為に、同年イギリスと英露協商を結び、イラン・アフガニスタン・チベットに於ける両国の勢力範囲を協定しますが、アメリカは、日露協約・英露協商の成立によって極東での孤立化が進み、満州の権益を巡って日本との対立が強まると、国内では日本移民排斥が激化していったのです。
アジアの一国である日本がヨーロッパの大国ロシアに対して勝利したことは、欧米列強の支配下で苦しんでいたアジアの総ての国々に大きな影響を及ぼした。
又有色人種の国家である日本が、白人の大国ロシアに勝利したことは、アジアの人々に大きな励ましとなり、アジアの人々の民族的自覚を高め、中国・ヴェトナム・インド・イラン・トルコ等の民族運動に大きな影響を与えたのでした。
名言集
明日、死ぬかの様に生きろ。 永遠に生きるかのようにして学べ。
Live as if you were to dit tomorrow. Learn as if you were to die forever.
マハトマ・ガンジー
続く・・・
3日露戦争

閔妃暗殺
日本が三国干渉に屈服して遼東半島を清に返還すると、閔妃等は大国ロシアに接近して日本を牽制しようとし、親日派を追放しました(1895年7月)。
日本公使の三浦梧楼等は、ソウルの日本守備隊長等と共謀して守備隊・警察・民間人を王宮に乱入させ、閔妃を暗殺します(1895年10月)。
翌1896年2月、高宗はロシア公使館に逃げ込み、以後約1年間にわたって潜伏先で政務を執った為、朝鮮ではロシアの勢力が急速に増大し、親日派の勢力は弱まります。
1897年10月、高宗は国号を大韓帝国と改称し、自等の称号も国王から皇帝に変え、近代化の為の諸改革に取り組みました。

アムール河の流血事件
ロシアは、義和団事件が起こると満州(中国東北地方)に大軍を送り込み、1900年10月頃迄にはほぼ満州全域を占領し、事件後も東清鉄道の保護を口実に満州占領を続け、朝鮮への圧力を強めたので、朝鮮をめぐる日本とロシアの対立が激化していきます。
こうした状況の中で日本は、極東でのロシア進出を脅威とするイギリスと1902年1月に日英同盟を締結します。
日英同盟は、第一にイギリスが清国に於いて有する利益と日本が清国と韓国に於いて有する利益が、他の国から侵略され若しくは、騒動が起きた場合、両国はその利益を守る為に適当な行動をとることを認める事、第二に其の為に第三国と戦争になった時には、締約国は厳正中立を保つ事、そして第三に他の国が相手国と同盟して戦争する場合には締約国も協同して戦闘に当たる事等が約され、有効期間は5年とされ、その後1905年と1911年に改訂され、1921年に破棄されました。
日英同盟は、それまで「光栄ある孤立」を守ってきたイギリスが初めて結んだ条約でした。

日露戦争当時の日本軍とロシア軍
ロシアは、満州からの撤兵を約束しながら撤兵せず、逆に南満州への軍隊を増強し、日露交渉(1903年10月以後)が行きづまる中で、1904年2月に日露戦争が始まりました。
日露戦争は、朝鮮と満州(中国東北地方)の支配を巡る日本とロシアとの極東における戦争でしたが、日本をイギリス・アメリカが、ロシアをフランス・ドイツがそれぞれ支援する、当に列強の利害が絡んだ国際的帝国主義戦争で、ロシアは、同盟国フランス(露仏同盟は1891~94年に成立)の援助を得、バルカン方面への進出を狙っていたドイツもロシアの極東進出を期待してその対日戦を支持しまし、一方日本とイギリスは同盟国であり、中国市場への進出を狙うアメリカはロシアの満州占領を不快として日本に好意的な態度を取っていました。
日本にとって莫大な戦費が賄えるか否かが深刻な問題で、当時の日本の財政力からみて外債に頼るしかなく、しかもその外債をイギリスとアメリカに頼るしか手段は無く、日本は日露戦争の戦費17億1600万円の内8億円をイギリスとアメリカで募集した外債で賄いました。

第1回旅順口閉塞作戦
1904年2月6日、日本はロシアに対して国交断絶を通告し、2月8日~9日に仁川沖と旅順でロシア艦隊を攻撃し、2月10日にロシアに宣戦を布告し、日露戦争(1904年2月~1905年9月)が始まりました。
日本は、戦争遂行に必要な兵員・武器弾薬・食糧等を朝鮮・満州へ運ぶには対馬海峡・日本海・黄海の制海権を握ることが不可欠で、旅順のロシア艦隊を旅順港内へ閉じこめる為に、旅順口閉塞作戦(1904年2月~3月)を行いますが、閉塞には失敗しています。

日本軍の28センチ砲
陸軍は、5月には第一軍が鴨緑江を渡り、第二軍は遼東半島に上陸し、南満州へ進出しました。
乃木希典(のぎまれすけ、1849年~1911年)の率いる第三軍は難攻不落を誇る旅順要塞を攻撃しますが、ロシア軍の強固な陣地と機関銃の為に第1回の総攻撃(1904年8月)で1万6千人の死傷者を出し、3回にわたる総攻撃では4万人を越える死傷者を出しました。
其の為作戦を203高地攻撃に変更し、12月にこれを占領し、28サンチ砲で旅順港内のロシア艦隊を砲撃し、その大半を撃沈します。

乃木将軍とステッセル将軍の水師営の会見
1905年1月、ロシア司令官ステッセルは終に降伏し旅順が陥落、この間、陸軍は遼陽会戦(1904年8月)・沙河会戦(1904年10月)・黒溝台の戦い(1905年1月)でも多くの死傷者を出しながら、奉天(現在の瀋陽)へ迫ったのです。

榴弾砲を陣地に移動する黒木大将
1905年3月の奉天会戦では、日本軍約25万とロシア軍約31万が10余日にわたって激闘をくり返し、日本軍は約7万人の死傷者を出し、ロシア軍も10万人以上の死傷者を出して退却し、日本軍は奉天を占領しました。
奉天会戦では日本軍は勝利を納めましたが、砲弾を使い果たし、これ以上ロシア軍を追撃する余力は残っておらず、日本の国力・兵力は限界に達しつつあったのです。

バルチック艦隊旗艦クニャージ・スヴォーロフ (Князь Суворов) ボロジノ級4番艦
この間、ロシアは旅順港が封鎖されて制海権が奪われると、バルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)を日本に派遣し、制海権を奪回して日本軍に打撃を与えようと作戦でした。
バルチック艦隊は、1904年10月にリバウ港から1万8000海里の大航海に出発し、各地で石炭の補給をしながら、南アフリカの南端を回り、インド洋を東進し、1905年4月にはフランス領インドシナ(ヴェトナム)のカムラン湾に達し、5月には北上を開始しました。

「敵艦見ゆ」を最初に打電した日本帝国海軍仮装巡洋艦信濃丸
バルチック艦隊がウラジヴォストークに入る為に、対馬コースを進むか、太平洋回りのコースを進むかが重大な問題で、東郷平八郎(1847年~1934年)連合艦隊司令官は対馬海峡説をとり、艦隊をここに集結させていました。
1905年5月27日、連合艦隊の旗艦三笠に「皇国の興廃、この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」の信号が掲げられ、午後2時頃から日本海海戦が始まりました。
ロシア艦隊は38隻(戦艦8隻・巡洋艦11隻)からなり、戦艦の数と9インチ以上の巨砲の数では日本艦隊より勝っており、これに対して50隻(戦艦4隻・巡洋艦23隻)からなる日本艦隊は、巡洋艦の数と8インチ以上の速射砲の数で勝っていました。

日本海海戦
日本海海戦は、翌28日、砲術能力(命中率)に勝った日本艦隊の圧勝で終わり、ロシア艦隊38隻中、20隻が撃沈され、5隻が捕獲され、逃亡に成功したのは僅か2隻でした。
これに対して日本艦隊は水雷艇3隻を失っただけで、近代海戦に於いて稀に見る大戦果でした。

セオドア “テディ”・ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt、1858年10月27日 - 1919年1月6日)
日本は奉天会戦と日本海海戦に勝利を納め、戦局を有利に展開しましたが、軍事的・経済的には限界に近づいており、一方ロシアも、1905年1月に起こった「血の日曜日事件」をきっかけとする第一革命の勃発によって戦争継続が困難となっており、このため両国はアメリカ大統領セオドア・ローズベルトの調停を受け入れ、講和交渉に入りました。

日露講和会議
1905年8月、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、日本全権の小村寿太郎(1855年~1911年)とロシア全権ヴィッテが交渉に入りましたが、ロシアが威信にかけて領土の割譲と賠償金の支払いを拒否したので会議は難航し、決裂寸前の状況でしたが、日本が賠償金の支払い要求を撤回したので、ロシアも南樺太を割譲することで決着し、1905年9月ポーツマス条約が成立しました。
ポーツマス条約では、
1)、ロシアは日本の朝鮮における優越権を認める。
2)、ロシアは日本に遼東半島の租借権と東清鉄道支線(南満州鉄道)の利権を割譲する。
3)、ロシアは日本に北緯50度以南の樺太(南樺太)を割譲し、沿海州の漁業権を認める事などが約されました。

日比谷焼き討ち事件で演説する河野広中
しかし、日本国内ではポーツマス条約を屈辱的とする声が強く、日比谷焼打ち事件(1905年9月)等が起こりましたが、国際的帝国主義戦争であった日露戦争の結果は、以後の世界の歴史に大きな影響を及ぼしたのです。
ポーツマス条約でロシアに朝鮮に於ける優越権を認めさせた日本は、以後韓国への干渉を強め、1910年には韓国を併合します。

日露戦争後(1910年)の中国大陸列強勢力圏
日露戦争に敗れたロシアは、極東での南下政策を断念し、再びバルカンへの進出を強めてドイツ・オーストリアと衝突するようになりました。
そのためロシアは、1907年に日露協約を結び、両国が中国から得た利権の相互尊重を約し、秘密条項で日本の朝鮮に於ける、ロシアの外モンゴルに於ける特殊権益の尊重・勢力範囲等を協定しました。
又ロシアは、ドイツに対抗する為に、同年イギリスと英露協商を結び、イラン・アフガニスタン・チベットに於ける両国の勢力範囲を協定しますが、アメリカは、日露協約・英露協商の成立によって極東での孤立化が進み、満州の権益を巡って日本との対立が強まると、国内では日本移民排斥が激化していったのです。
アジアの一国である日本がヨーロッパの大国ロシアに対して勝利したことは、欧米列強の支配下で苦しんでいたアジアの総ての国々に大きな影響を及ぼした。
又有色人種の国家である日本が、白人の大国ロシアに勝利したことは、アジアの人々に大きな励ましとなり、アジアの人々の民族的自覚を高め、中国・ヴェトナム・インド・イラン・トルコ等の民族運動に大きな影響を与えたのでした。
名言集
明日、死ぬかの様に生きろ。 永遠に生きるかのようにして学べ。
Live as if you were to dit tomorrow. Learn as if you were to die forever.
マハトマ・ガンジー
続く・・・
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