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2017/09/27

歴史を歩く173

39アジア諸国の変革と民族運動③

3日露戦争

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閔妃暗殺

 日本が三国干渉に屈服して遼東半島を清に返還すると、閔妃等は大国ロシアに接近して日本を牽制しようとし、親日派を追放しました(1895年7月)。
日本公使の三浦梧楼等は、ソウルの日本守備隊長等と共謀して守備隊・警察・民間人を王宮に乱入させ、閔妃を暗殺します(1895年10月)。

 翌1896年2月、高宗はロシア公使館に逃げ込み、以後約1年間にわたって潜伏先で政務を執った為、朝鮮ではロシアの勢力が急速に増大し、親日派の勢力は弱まります。
1897年10月、高宗は国号を大韓帝国と改称し、自等の称号も国王から皇帝に変え、近代化の為の諸改革に取り組みました。

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アムール河の流血事件

 ロシアは、義和団事件が起こると満州(中国東北地方)に大軍を送り込み、1900年10月頃迄にはほぼ満州全域を占領し、事件後も東清鉄道の保護を口実に満州占領を続け、朝鮮への圧力を強めたので、朝鮮をめぐる日本とロシアの対立が激化していきます。
こうした状況の中で日本は、極東でのロシア進出を脅威とするイギリスと1902年1月に日英同盟を締結します。

 日英同盟は、第一にイギリスが清国に於いて有する利益と日本が清国と韓国に於いて有する利益が、他の国から侵略され若しくは、騒動が起きた場合、両国はその利益を守る為に適当な行動をとることを認める事、第二に其の為に第三国と戦争になった時には、締約国は厳正中立を保つ事、そして第三に他の国が相手国と同盟して戦争する場合には締約国も協同して戦闘に当たる事等が約され、有効期間は5年とされ、その後1905年と1911年に改訂され、1921年に破棄されました。
日英同盟は、それまで「光栄ある孤立」を守ってきたイギリスが初めて結んだ条約でした。

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日露戦争当時の日本軍とロシア軍

 ロシアは、満州からの撤兵を約束しながら撤兵せず、逆に南満州への軍隊を増強し、日露交渉(1903年10月以後)が行きづまる中で、1904年2月に日露戦争が始まりました。
日露戦争は、朝鮮と満州(中国東北地方)の支配を巡る日本とロシアとの極東における戦争でしたが、日本をイギリス・アメリカが、ロシアをフランス・ドイツがそれぞれ支援する、当に列強の利害が絡んだ国際的帝国主義戦争で、ロシアは、同盟国フランス(露仏同盟は1891~94年に成立)の援助を得、バルカン方面への進出を狙っていたドイツもロシアの極東進出を期待してその対日戦を支持しまし、一方日本とイギリスは同盟国であり、中国市場への進出を狙うアメリカはロシアの満州占領を不快として日本に好意的な態度を取っていました。

 日本にとって莫大な戦費が賄えるか否かが深刻な問題で、当時の日本の財政力からみて外債に頼るしかなく、しかもその外債をイギリスとアメリカに頼るしか手段は無く、日本は日露戦争の戦費17億1600万円の内8億円をイギリスとアメリカで募集した外債で賄いました。

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第1回旅順口閉塞作戦

 1904年2月6日、日本はロシアに対して国交断絶を通告し、2月8日~9日に仁川沖と旅順でロシア艦隊を攻撃し、2月10日にロシアに宣戦を布告し、日露戦争(1904年2月~1905年9月)が始まりました。
日本は、戦争遂行に必要な兵員・武器弾薬・食糧等を朝鮮・満州へ運ぶには対馬海峡・日本海・黄海の制海権を握ることが不可欠で、旅順のロシア艦隊を旅順港内へ閉じこめる為に、旅順口閉塞作戦(1904年2月~3月)を行いますが、閉塞には失敗しています。

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日本軍の28センチ砲

 陸軍は、5月には第一軍が鴨緑江を渡り、第二軍は遼東半島に上陸し、南満州へ進出しました。
乃木希典(のぎまれすけ、1849年~1911年)の率いる第三軍は難攻不落を誇る旅順要塞を攻撃しますが、ロシア軍の強固な陣地と機関銃の為に第1回の総攻撃(1904年8月)で1万6千人の死傷者を出し、3回にわたる総攻撃では4万人を越える死傷者を出しました。
其の為作戦を203高地攻撃に変更し、12月にこれを占領し、28サンチ砲で旅順港内のロシア艦隊を砲撃し、その大半を撃沈します。

乃木将軍とステッセル将軍の水師営の会見
乃木将軍とステッセル将軍の水師営の会見

 1905年1月、ロシア司令官ステッセルは終に降伏し旅順が陥落、この間、陸軍は遼陽会戦(1904年8月)・沙河会戦(1904年10月)・黒溝台の戦い(1905年1月)でも多くの死傷者を出しながら、奉天(現在の瀋陽)へ迫ったのです。

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榴弾砲を陣地に移動する黒木大将

 1905年3月の奉天会戦では、日本軍約25万とロシア軍約31万が10余日にわたって激闘をくり返し、日本軍は約7万人の死傷者を出し、ロシア軍も10万人以上の死傷者を出して退却し、日本軍は奉天を占領しました。
奉天会戦では日本軍は勝利を納めましたが、砲弾を使い果たし、これ以上ロシア軍を追撃する余力は残っておらず、日本の国力・兵力は限界に達しつつあったのです。

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バルチック艦隊旗艦クニャージ・スヴォーロフ (Князь Суворов) ボロジノ級4番艦

 この間、ロシアは旅順港が封鎖されて制海権が奪われると、バルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)を日本に派遣し、制海権を奪回して日本軍に打撃を与えようと作戦でした。
バルチック艦隊は、1904年10月にリバウ港から1万8000海里の大航海に出発し、各地で石炭の補給をしながら、南アフリカの南端を回り、インド洋を東進し、1905年4月にはフランス領インドシナ(ヴェトナム)のカムラン湾に達し、5月には北上を開始しました。

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「敵艦見ゆ」を最初に打電した日本帝国海軍仮装巡洋艦信濃丸

 バルチック艦隊がウラジヴォストークに入る為に、対馬コースを進むか、太平洋回りのコースを進むかが重大な問題で、東郷平八郎(1847年~1934年)連合艦隊司令官は対馬海峡説をとり、艦隊をここに集結させていました。
1905年5月27日、連合艦隊の旗艦三笠に「皇国の興廃、この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」の信号が掲げられ、午後2時頃から日本海海戦が始まりました。
ロシア艦隊は38隻(戦艦8隻・巡洋艦11隻)からなり、戦艦の数と9インチ以上の巨砲の数では日本艦隊より勝っており、これに対して50隻(戦艦4隻・巡洋艦23隻)からなる日本艦隊は、巡洋艦の数と8インチ以上の速射砲の数で勝っていました。

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日本海海戦

 日本海海戦は、翌28日、砲術能力(命中率)に勝った日本艦隊の圧勝で終わり、ロシア艦隊38隻中、20隻が撃沈され、5隻が捕獲され、逃亡に成功したのは僅か2隻でした。
これに対して日本艦隊は水雷艇3隻を失っただけで、近代海戦に於いて稀に見る大戦果でした。

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セオドア “テディ”・ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt、1858年10月27日 - 1919年1月6日)

 日本は奉天会戦と日本海海戦に勝利を納め、戦局を有利に展開しましたが、軍事的・経済的には限界に近づいており、一方ロシアも、1905年1月に起こった「血の日曜日事件」をきっかけとする第一革命の勃発によって戦争継続が困難となっており、このため両国はアメリカ大統領セオドア・ローズベルトの調停を受け入れ、講和交渉に入りました。

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日露講和会議

 1905年8月、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、日本全権の小村寿太郎(1855年~1911年)とロシア全権ヴィッテが交渉に入りましたが、ロシアが威信にかけて領土の割譲と賠償金の支払いを拒否したので会議は難航し、決裂寸前の状況でしたが、日本が賠償金の支払い要求を撤回したので、ロシアも南樺太を割譲することで決着し、1905年9月ポーツマス条約が成立しました。

 ポーツマス条約では、
1)、ロシアは日本の朝鮮における優越権を認める。
2)、ロシアは日本に遼東半島の租借権と東清鉄道支線(南満州鉄道)の利権を割譲する。
3)、ロシアは日本に北緯50度以南の樺太(南樺太)を割譲し、沿海州の漁業権を認める事などが約されました。

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日比谷焼き討ち事件で演説する河野広中

 しかし、日本国内ではポーツマス条約を屈辱的とする声が強く、日比谷焼打ち事件(1905年9月)等が起こりましたが、国際的帝国主義戦争であった日露戦争の結果は、以後の世界の歴史に大きな影響を及ぼしたのです。
ポーツマス条約でロシアに朝鮮に於ける優越権を認めさせた日本は、以後韓国への干渉を強め、1910年には韓国を併合します。

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日露戦争後(1910年)の中国大陸列強勢力圏

 日露戦争に敗れたロシアは、極東での南下政策を断念し、再びバルカンへの進出を強めてドイツ・オーストリアと衝突するようになりました。
そのためロシアは、1907年に日露協約を結び、両国が中国から得た利権の相互尊重を約し、秘密条項で日本の朝鮮に於ける、ロシアの外モンゴルに於ける特殊権益の尊重・勢力範囲等を協定しました。

 又ロシアは、ドイツに対抗する為に、同年イギリスと英露協商を結び、イラン・アフガニスタン・チベットに於ける両国の勢力範囲を協定しますが、アメリカは、日露協約・英露協商の成立によって極東での孤立化が進み、満州の権益を巡って日本との対立が強まると、国内では日本移民排斥が激化していったのです。

 アジアの一国である日本がヨーロッパの大国ロシアに対して勝利したことは、欧米列強の支配下で苦しんでいたアジアの総ての国々に大きな影響を及ぼした。
又有色人種の国家である日本が、白人の大国ロシアに勝利したことは、アジアの人々に大きな励ましとなり、アジアの人々の民族的自覚を高め、中国・ヴェトナム・インド・イラン・トルコ等の民族運動に大きな影響を与えたのでした。

名言集

明日、死ぬかの様に生きろ。 永遠に生きるかのようにして学べ。

Live as if you were to dit tomorrow. Learn as if you were to die forever.

マハトマ・ガンジー


続く・・・

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2017/09/16

歴史を歩く172

39アジア諸国の変革と民族運動②

2変法運動と義和団事件

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下関条約(日本名)馬関条約(中国名)

 日清戦争の敗北は中国の知識人(士大夫)層に深刻な衝撃を与えました。
下関条約調印の報が伝わると、折から会試(科挙の第2段階)のために北京に集まっていた挙人(郷試に合格して会試を受ける資格の出来た者)1200余人が康有為の呼びかけに応じて連名で「条約を拒否し、政治制度の改革を行って屈辱から抜けだそう」という上書を清朝に提出しました(1895年4月)。

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康有為

 この出来事の中心人物であった康有為(1858年~1927年)は、広東省の名門に生まれ、初め儒学や仏教学を学ぶ一方で欧米思想にも接して西洋に関する書物を広く読み、後に公羊学(くようがく、孔子を革命主義者としてとらえ、政治的実践を尊ぶ学説)に転じて変法運動を提唱し、1888年には光緒帝に上書し、科挙合格後(1895年)もしばしば上書しています。

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変法運動(欧米式兵器の導入)

 変法運動(変法自強)は、洋務運動が西洋の軍事技術の導入を中心として政治の改革に至らなかったことを批判し、その反省から日本の明治維新を手本にして国会を開き憲法を制定して立憲君主制を樹立するという政治改革(変法)を主張する運動でした。
変法運動が広まっていく中で、革新的な若い知識人達は各地に結社(学会)をつくり、新聞や学校を通じて啓蒙運動を行い、特に梁啓超(1873年~1929年)は科挙に失敗した後、康有為に師事し、上海で新聞を発行して変法自強の論を広め(1896年)、又翻訳を通じてヨーロッパの学芸紹介に努めました。

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光緒帝

 康有為の度々の上書は若い光緒帝(在位1874年~1908年)の心をつかみ、光緒帝を動かしました。1898年6月、光緒帝は変法の詔書を発布し、康有為・梁啓超・譚嗣同(たんしどう、1865年~98年)ら変法派を登用し、戊戌(ぼじゅつ)の変法(1898年6月~98年9月)を開始しました。

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西太后(道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))

 科挙の改革、近代的な学校の建設、農工商業の振興、新式陸軍の建設、官庁の整理等の詔勅が次々に発布されますが、中央・地方の守旧派官僚の非協力等の為に改革はほとんど実現されませんでした。
改革に反対する保守派は西太后を動かして変法派の弾圧を画策します。
西太后(1835年~1908年)は、清朝末期の咸豊帝(かんぽうてい、在位1850年~61年)の妃で同治帝(在位1861年~74年)の生母であり、満州旗人(八旗に所属し、各種の特権と土地を与えられた満州人貴族)の出身で、18歳で咸豊帝の側室となり、同治帝を生み、同治帝が5歳で即位すると咸豊帝の皇后(東太后)とともに摂政となり、西太后と呼ばれるようになった人物です。

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同治帝(在位1861年 - 1875年)

 西太后は、嗣子のない同治帝が没すると(死因は天然痘とされているが西太后によって毒殺されたとも云われている)自分の妹の子で僅か3歳の光緒帝を強引に擁立して自ら摂政となり、東太后の急死(1881年、西太后が関係していると云われている)以後は独裁権を振るいました。

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頤和園

 西太后は、光緒帝が親政を開始すると(1887年)離宮の頤和園に退きますが、依然として政治に干渉し、実権を握り続け、これに反発する光緒帝が康有為等を起用して戊戌の変法を行うと保守派と結んでこれを弾圧しました。
1898年9月、西太后は光緒帝を幽閉し、変法派を逮捕・処刑し、康有為や梁啓超は日本に亡命しますが、譚嗣同は処刑され、新政は僅か3ヶ月で終わり(百日維新)、この出来事を戊戌の政変(1898年9月)と云います。
光緒帝は以後紫禁城内に幽閉され、1908年11月に急死し、その翌日に西太后も崩御しました。
戊戌の政変後、西太后は三度摂政となり、保守・排外派が政治を動かすように成りますが、その頃、中国では民衆による排外運動が激化していました。

 1860年の北京条約でキリスト教の布教が認められ、内地への伝道が開始されると、各地で仇教運動と呼ばれるキリスト教排斥運動が起こり、まず地方の役人や郷紳が教会を敵視し、彼等の指導する軍隊や民衆による教会の襲撃や宣教師の殺害・信者への迫害事件が各地で起こります。
仇教運動は外国の中国侵略に対する抵抗運動であったので排外運動と結びつきました。

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山東半島の地図、右上は膠州湾租借地の拡大図。

 山東に於けるドイツ人宣教師殺害事件(1897年)を口実にドイツが山東半島に進出すると、義和団を中心とする排外運動が起こります。
義和団は義和拳という武術を修練した排外的な宗教結社で白蓮教の一派とも云われ、彼等の間では義和拳を修練すれば不死身の身体となり、更に練術すれば天を飛翔する魔力を得ることが出来ると信じられていた様です。

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義和団

 義和団は、1897年以降、華北一帯の災害の為に窮乏した農民・流民・下層労働者が加わって急速に勢力を拡大し、山東半島へのドイツの進出とキリスト教会に対する反感から武装蜂起し、義和団は、1899年末には山東省から河北省に入り、「扶清滅洋」(清を扶(たす)けて、西洋を討ち滅ぼすの意味)をスローガンに掲げ、各地の教会を襲撃し、宣教師やキリスト教徒を殺害し、鉄道や電線を破壊し、1900年6月には20万人の勢力となって北京に入り、日本及びドイツ人の外交官を殺害しました。

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8カ国連合軍

 6月21日、清朝の保守・排外派は義和団を利用して外国人を一掃しようとして列強に宣戦を布告し、清軍による北京の外国公使館に対して攻撃が始まり、又華北一帯にわたって教会・外国人に対する大規模な攻撃・殺戮が始まります。
列強はこれを機に在留外国人の保護を名目に8カ国(日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア)が共同出兵に踏み切り、当時、イギリスは南ア戦争、アメリカはフィリピンのアギナルド軍と戦争中で兵力に余裕が無く、地理的に近い日本(最大の約1万2000人)と極東進出を画策するロシア(約6000人)を主力とする8カ国連合軍が組織され(1900年7月)、天津を占領し、8月には北京に入城し、公使館区域に籠城していた外国人を救出しました。

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北京義和団鎮圧

 連合軍の北京入城の翌日、西太后は光緒帝を伴って北京を脱出して西安に逃れ、李鴻章を直隷総督に復帰させて講和の交渉に当たらせます。

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略奪破壊される円明園


 尚この時、北京・天津等では連合軍によって前代未聞の掠奪・暴行が行われ、多くの貴重な文化財が海外に持ち去られましたが、こうした中での日本軍の勇敢さと規律の正しさは列強を驚かせました。
1901年9月、敗れた清は11カ国(出兵した8カ国とベルギー・オランダ・スペイン)との間で北京議定書(辛丑(しんちゅう)和約)を結びます。
内容は以下、

1)清は責任者の処罰・賠償金4億5000万両の39カ年賦払い。
2)日本とドイツへの謝罪使の派遣。
3)外国軍隊の北京駐屯。
4)北京周辺地域の防備の撤廃。
5)排外団体への加入や運動の厳禁。
6)武器弾薬及び製造材料の輸入の2年間禁止。

以上を認めた結果、中国に対する外国の干渉は更に強まり、中国の半植民地化が決定的となりました。

名言集

天才とは、山の頂上まで蝶を追う幼い少年である。

Genius is a little boy chasing a butterfly up a mountain.

ジョン・スタインベック


続く・・・


2017/09/11

歴史を歩く171

39アジア諸国の変革と民族運動①

1中国利権の争奪


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小国日本と中国を表す当時の風刺画

 「眠れる獅子」と呼ばれていた清朝が日清戦争(1894年~95年)に敗北し、その弱体が暴露されると列強は争って中国へ進出し、利権獲得に乗りだしました。
其れまでヨーロッパ列強は、中国を商品市場・原料供給地として見なしていましたが、以後は資本の投下先として注目し、鉄道敷設権や鉱山採掘権等の利権獲得に狂奔すると共に、自国の勢力範囲の拡張に乗りだしたのでした。

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清国分断勢力図

 日本が下関条約で遼東半島を獲得すると、条約調印から6日後に、ロシアはフランス・ドイツを伴い、三国が共同で日本に対して遼東半島を清国に返還するように勧告し(三国干渉、1895年4月)、日本はやむなくこれを受け入れ、11月に遼東半島を清に返還し、その代償として3000万両を受け取りました。

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長春停車場にの日露列車連絡
写真上、長春ヤマトホテル。写真下、右満州鉄道、左ロシア時代の東清鉄道


当時シベリア鉄道建設を進め、極東への進出を強めていたロシアは、三国干渉の代償として、1896年に清から東清鉄道の敷設権を獲得します。
東清鉄道は、満州里と綏芬河(すいふんが)間の幹線とハルビンから大連に至る支線から構成され、ロシアは1896年に幹線の敷設権を獲得し、支線については1898年に敷設権を獲得して行きます。
ロシアは東清鉄道の敷設権を獲得する事によって、チタからウラジヴォストークを最短距離で結ぶことが可能になり、1905年迄に東清鉄道を結ぶシベリア鉄道が完成しました(北方領内線の完成は1916年)。

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ドイツ海軍の装甲艦 「ドイッチュラント(SMS Deutschland)」と防護巡洋艦「ゲフィオン(SMS Gefion)」の膠州湾への到着

 中国分割に野心を持つドイツは、2人のドイツ人宣教師が殺害された事件を口実に艦隊を派遣して膠州湾を占領し(1897年11月)、翌1898年3月に膠州湾を租借し(期限は99カ年)、青島(チンタオ)市を建設し、東洋艦隊の根拠地としました。

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上海大英帝国租界

 租借とは、他国の領土の一部を条約によって国が借りる事を意味しますが、租借期間中の租借地における行政・立法・司法権は租借国が持つ為、事実上領土割譲の性格を持つことに成ります。
ドイツが膠州湾を租借すると、ロシアは遼東半島南部(旅順・大連)を租借し(期限は25カ年)、旅順に要塞と軍港を、大連には商港を建設しました(1898年3月)。

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九龍半島

 イギリスは、ロシアの旅順・大連租借に対抗して、清の北洋艦隊の根拠地であった山東半島北岸の威海衛を租借して東洋艦隊の基地とし(期限は25カ年)、又九龍半島(九龍半島と付属の33島を含み、新界といった)を租借します(期限は99カ年、1898年6月)。

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広州湾

 フランスも、翌1899年に広州湾を租借します(期限は99カ年)。
列強は租借地を軍事基地化し、そこから内地に通じる鉄道の敷設権や鉱山採掘権をも併せて獲得し、自国の権益地帯の独占を図る為に、特定の地域を他国に割譲しないことを清朝に約束させる不割譲条約を結び、その地域を自国の勢力範囲と定めました。

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 ロシアは中国東北地方を、ドイツは山東省を勢力範囲とし、イギリスは長江流域と広東省東部を、そしてフランスは広東省西部と広西省・雲南省・海南島を勢力範囲としました。
又日本は、台湾対岸の福建省を勢力範囲と定めた結果、中国は事実上列強によって分割されたに等しい状態になりました。

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門戸開放宣言

 米西戦争(1898年)でフィリピン・グァム島を獲得して中国市場への関心を強めたアメリカが中国へ進出を図ろうとした頃には既に列強による中国の分割が完了しており、その為、出遅れたアメリカは、1899年に国務長官ジョン・ヘイの名で門戸開放宣言(ジョン・ヘイの三原則、Open Door Doctrine)を行い、1899年には門戸開放・機会均等を、1900年には領土保全を提唱しました。

 アメリカの意図は中国分割への割り込みに有り、中国全域に対する自由な経済進出を対中国政策の原則にする事を列強に認めさせることに在りました。
各国とも原則的にはこの案に同意した為、中国分割は一時的に弱まりました。

名言集

歴史を学ぶと、我々が歴史から学んでいないことが分かる。

We learn from history that we do not learn from history.

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル


続く・・・


2017/09/05

おきてがみの事

おきてがみが、復活しました。
ご連絡を頂戴した皆様には、お礼申し上げます。
これからも応援よろしくお願いします。

尚、おきてがみは、今回の事もあるので、バックアップも含めて、訪問が出来る様にしたいと思っています。
2017/09/03

ご連絡

置き手紙が完全に使用不能になりました。
新しい手段を検討中です。
ご訪問頂いている皆様とは、コミニュケーションを維持できるよう考慮します。