39アジア諸国の変革と民族運動⑤5辛亥革命と中華民国の成立(その1)
孫 文・1866年11月12日(清同治5年10月初6日) - 1925年(民国十四年)3月12日)
洋務運動以後、先進国に多くの留学生が送られますが、特に日本への留学生が多く、こうした留学生や華僑を中心に清朝の支配を打倒して漢民族の国家を創ろうとする革命運動が盛んとなり、その中心となったのが孫文です。
又日清戦争の敗戦を機に、中国では紡績・製粉・製油・マッチ等の軽工業を中心に民族資本による近代工業が起こっていましたが、中国の半植民地化が進む中で外国資本の進出が急増し、外国資本に比べて資力・規模・技術で著しく劣っていた民族資本を圧迫しました。
しかし、列強の意のままになる清朝には外圧から民族資本を保護し、発展させる力は無く、民族資本は革命運動を支持しました。
興中会成立 孫文(1866年~1925年)は広東省中山県の貧農に生まれ、移民として成功していた兄を頼ってハワイに渡り、高校に通ってアメリカ式の教育を受け、帰国後、香港で医学を学び、マカオや広州で開業しましたが、間も無く革命を志し、日清戦争が始まると再びハワイに渡り、ハワイで華僑を中心に興中会と名乗る革命結社を創立しました(1894年11月)。
広州起義烈士像 興中会は、日清戦争後に広州で挙兵しましたが(広州起義、1895年10月)失敗し、孫文は日本・アメリカを経てロンドンに亡命しました。
更に義和団事件による清朝の苦境に乗じて、広東省の恵州で挙兵しましたが(恵州起義、1900年)これにも失敗し、日本・アメリカ・イギリスを転々とした亡命生活を余儀なくされます。
義和団事件で列強に敗れた清朝は、やっと政策の転換を図り、「外国の長所をとり、中国の短所を去って富強を図る」として新政を開始し(1901年1月)、軍隊の近代化を図って新軍(洋式軍隊)を創設し、会社の設立の奨励等実業の奨励、新型の学校設立と大量の留学生の派遣等に取り組み、1905年には科挙の廃止(1905年9月)等の改革を進めました。

中国同盟会(中国革命同盟会)成立 日露戦争に於ける日本の勝利は、中国にも大きな影響を及ぼしました。
孫文等の革命派は、日露戦争に於ける日本の勝利に刺激され、1905年8月(ポーツマス条約調印の半月前)に東京で中国同盟会(中国革命同盟会)を結成します。
中国同盟会は、孫文の興中会・蔡元培(1868年~1940年)等の光復会(1904年に結成)・黄興(1874年~1916年)等の華興会(1903年末に結成)等を中心に組織され、孫文が総理に就任しました。
孫文の三民主義(民族の独立・民権の伸張・民生の安定)に基づく「駆除韃虜(満州人の王朝である清朝打倒)・恢復中華・創立民国(民主共和国の建設)・平均地権(土地所有権を平均にする)」の四大綱領を基本方針としました。
中国同盟会は、1907年~08年にかけて各地で武装蜂起しますが、何れも失敗に終わります。
日露戦争に於ける日本の勝利に刺激された清朝は、やっと立憲準備に踏切り(1905年11月)、1908年9月に憲法大綱を発表し、この憲法大綱は明治憲法をモデルとし、清朝皇帝の万世一系や神聖不可侵等を規定していました。
憲法大綱の宣布と共に、1916年の国会開設を約束し、翌年に各省に諮議局(地方の議政機関)を、1910年には中央に資政院(中央の議政機関)を発足させ、諮議局や資政院で国会の早期開設・即時開設の要求が高まると、1910年には1913年の国会開設を公布しました(1910年11月)。
しかし、既に時遅く1912年に清朝は滅亡します。
鉄道国有化に反対する請願運動 清朝は、1911年5月、軍機処を廃止して責任内閣制を採用しましたが、国務大臣13人の内、8人は満州人(漢人は4人)であり、しかもその内の5人が皇族でした。
又同月、鉄道国有令を公布します(1911年5月)。
この鉄道国有令では、先ず粤漢鉄道(えつかん、広州と漢口を結ぶ鉄道)と川漢鉄道(せんかん、成都と漢口を結ぶ鉄道)が対象とされ、民営の両鉄道を国営に移す為に、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランスの四国借款団(1910年成立)から600万ポンドの借入を行いました。
清朝が鉄道国有化を名目に外国から借金をし、その資金を清朝の政権維持・権力強化に利用しようとしていることは明かであり、又国有化は民間の利益を奪ってそれを外国人に与えるものであったので、国有令に対しては湖広・四川・広東省等で激しい反対運動が起こりました。
呉淞鉄道開通式 特に四川省では、広範な大衆から集めた資金で川漢鉄道会社が組織されており、10万余の会員を擁する保路同志会を中心に大規模な反対運動が展開され、運動は暴動に発展し、其の為清朝は四川の暴動を鎮圧する為に武昌の新軍の一部を四川に派遣します。
武昌起義 しかし、当時湖北の革命派が新軍内に組織を拡大し、武昌の新軍(日清戦争後の中国で創設された洋式軍隊)1万5000中5000人余りが革命派で占められており、1911年10月10日、武昌の新軍と中国同盟会が武装蜂起し(武昌起義)、12日朝迄に武昌・漢口・漢陽のいわゆる武漢三鎮を制圧、湖北軍政府を樹立しました。
武昌蜂起に続いて、湖南・陜西・江西・山西・江蘇・浙江・広東省で革命派が蜂起し、11月下旬迄には24省中14省(中国本土の約3分の2を占める地域)が革命派の支配下に入り、清の支配から離脱して独立します。
中華民国軍政府鄂軍都督府(中華民国湖北軍政府)庁舎・現辛亥革命博物館 これが辛亥革命(1911年10月~1912年2月)で、独立した省の代表が南京に集まり、アメリカで革命の報せを受けて帰国した孫文を臨時大総統に選出し(1911年12月29日)、翌1912年1月1日、南京で中華民国の建国を宣言しました。
その後、清朝の滅亡(1912年2月)によって中国史上最初の共和国が成立しますが、中華民国はアジア最初の民主共和国であり、当時世界でも数少ない共和政の国家でした。
名言集
恐れを抱いた心では、何と小さいことしかできないでしょう。
How very little can be done under the spirit of fear.
フローレンス・ナイチンゲール続く・・・