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2017/11/25

歴史を歩く178

39アジア諸国の変革と民族運動⑧

7東南アジアの民族運動

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右・ファン・ボイ・チャウ、左・阮朝皇族クォン・デ王子

 1883年以来、フランスの保護国とされていたヴェトナムでは、日露戦争に刺激されてファン・ボイ・チャウ(1867年~1940年)等によって反仏独立の秘密結社である維新会を結成されます(1904年)。
ファン・ボイ・チャウは、日本に武器援助を要請する為に来日しますが(1905年4月)、武装蜂起の考え方を批判され、人材育成の重要性を説かれます。

東遊(ドンズー)運動
ファン・ボイ・チャウ記念館の敷地内にある東遊運動と日越友好の記念碑

 ファン・ボイ・チャウはその忠告を受け入れて、ヴェトナムの青年達に日本への留学を呼びかけ、200人以上のヴェトナム青年が日本に留学し、この運動は東遊(ドンズー)運動と呼ばれています。
又ファン・ボイ・チャウ等は、1907年に東京(ドンキン)義塾を設立して新しい思想の普及に努めましたが、反仏の色彩が強くなると弾圧され、東京義塾は1908年に閉鎖されました。

 東遊(ドンズー)運動は、19世紀末からヴェトナムで行われた近代化運動の一つで、科挙に合格した知識人達が、フランスの植民地支配からの脱却を目ざして東方(日本)へ留学し、この東遊運動は日露戦争後特に盛んとなります。

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東遊運動で日本へ渡ったベトナム人留学生

 しかし、留学生達が反仏独立の結社を組織して活動すると、フランスは留学生の父兄を投獄し、送金を妨害して弾圧し、又日本に対して留学生の国外追放を要求しました。
日本が、1907年にフランスと日仏協約を結んで、留学生に国外退去を命じた結果(1909年)、東遊運動は挫折し、日本から追放されたファン・ボイ・チャウは上海に逃れ(1909年)、中国の辛亥革命後、広東で光復会を創設して(1912年)武力によるヴェトナムの解放を目ざします。

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1918年5月18日に開設された植民地議会 (Volksraad)
右手に当時の植民地政府総督スティルムの姿が見える。

 インドネシアでは、1911年にイスラム同盟(サレカット・イスラム)が結成されました。
イスラム同盟は最初、華僑に対抗するための組織でしたが、やがてオランダからの独立を求める政治団体となり、インドネシアの民族運動の中心となります。

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米西戦争でフィリピンに迫るアメリカ(風刺画)

 フィリピンでは、19世紀後半にホセ・リサール(1861年~96年)やアギナルド(1869年~1964年)等を中心とするスペインに対する独立運動が起こりますが、米西戦争(1898年)後アメリカがフィリピンを領有すると、アギナルドはアメリカからの独立を目ざして反米武力闘争展開しますが、1901年にアメリカ軍に捕らえられて引退し、以後独立運動は衰退します。

名言集

何にせよ最上の証明とは経験である。

By far the best proof is experience.

フランシス・ベーコン

続く・・・

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2017/11/18

歴史を歩く177

39アジア諸国の変革と民族運動⑦

6インドの民族運動

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インド帝国の地方行政区画(1909年)

 インド帝国成立(1877年)以後、イギリスはインドで帝国主義的な植民地政策を推進し、茶のプランテーションや鉄道建設へ資本を投下してインドの富を搾取して行きます。

 その頃、インドではイギリスの植民地支配の下で育った官吏・弁護士・医師・教師・ジャーナリスト等の知識人層が増加し、彼等の間に自由主義・民主主義等の近代ヨーロッパ思想が普及するとイギリスの統治に対する政治的な批判も現われる様に成りました。

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インド国民会議創立者の一人、ダーダーバーイー・ナオロージー
(インド人初の英国下院議員)

 そこでイギリスは、インド人の不満を逸らせ、対英協調を図る為に第1回インド国民会議をボンベイで開催し、この国民会議に集まったのはヒンドゥー教徒を中心として、イギリスに協調的な知識人や地主・商人等で、国民会議は、以後毎年、会場を全国各地の都市に移して開催され、当初は穏健な会議でしたが、国民会議は19世紀末迄には多くの政治組織や指導者を吸収し、次第に反英的な性格を強めて行きます。

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国民会議派(党旗)

 20世紀初頭、日露戦争に於ける日本の勝利に刺激され、国民会議派(国民会議に召集された人々の政治結社、独立以後インド連邦の与党として長期にわたって政権の座にありましたが、1996年の総選挙で大敗北して政権を失った)を中心としたインドの民族運動は急進化し、特にベンガル地方の知識人や民衆がその先頭に立ち、こうした状況の中で、インド総督のカーゾン(1859年~1925年)は、1905年にベンガル分割令を発布しました。

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ベンガル地方

 ベンガル分割令は、ベンガル州の面積・人口が極めて大きく、行政上不便であることを理由に、ベンガル州をヒンドゥー教徒の多い西と、イスラム教徒が多い東の2州に分割する法令でした。
しかし、この法令はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を利用してベンガルの民族運動を分断し、その発展を阻止する狙いが明かであったので、反英闘争が更に激化する原因となり、ティラク等民族運動の指導者は国民会議派を通して幅広い反対運動を展開します。

ティラク
バール・ガンガーダル・ティラク
(:बाळ गंगाधर िटळक、Bal Gangadhar Tilak、1856年7月23日 - 1920年8月1日)


 ティラク(1856年~1920年)は、大学卒業後、新聞を創刊して反帝国・反英の思想を鼓吹すると共に、彼はベンガル分割令が発布されると、国民会議派内の急進派の指導者としてベンガル分割令反対闘争(1905年~08年)を指導します。
1906年、ティラク等を中心としてカルカッタで開かれた国民会議派の大会では、英貨排斥(イギリス商品のボイコット)・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治獲得)・民族教育の4大綱領が採択され、スワデーシ・スワラージは以後のインド民族運動のスローガンとなります。

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英貨排斥:イギリス商品のボイコットのシ-ル

 これに対してイギリスは、1906年に親英的な全インド・ムスリム連盟の結成を支援し、ヒンドゥー教徒の国民会議派との分断を図り、更には国民会議派の中の急進派に弾圧を強める一方で、穏健派には譲歩を見せて民族運動の分裂を図りました。
そのため国民会議派は1907年の大会で急進派と穏健派に分裂し、急進派のティラクは逮捕・投獄されます(1908年~14年)。

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ジョージ5世(George V, George Frederick Ernest Albert, 1865年6月3日 – 1936年1月20日)

 イギリスはインドの民族運動に弾圧を加える一方で、インド人の懐柔を図り、ヨーロッパでバルカン情勢が緊迫すると、1911年に王位に就いたばかりのジョージ5世(在位1910年~1936年)が、インド皇帝としては初めてインドを訪れ、ベンガル分割令の取り消しを宣言します。

名言集

教育とは炎をもえあがらせることであって、入れ物をみたすことではない。

Education is teh kindling of a flame, not the filling of a vessel.

ソクラテス

続く・・・


2017/11/12

歴史を歩く176

39アジア諸国の変革と民族運動⑥

5辛亥革命と中華民国の成立(その2)

袁世凱
袁世凱(清国内閣総理大臣時代)

 武昌で革命が起こると(1911年10月、清朝はこれを鎮圧するために、当時隠退していた袁世凱を登用しようと考えます。
袁世凱(1859年~1916年)は河南省出身で、科挙試験に失敗、呉長慶(李鴻章系の重要人物)の幕僚となり、呉長慶が朝鮮に派遣されると彼も朝鮮に同行し、壬午の変(1882年)・甲申の変(1884年)で軍功をあげ李鴻章の信任を得、日清戦争後、新軍(洋式軍隊)の建設に従事し実力者にのし上がって行きました。

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義和団事件(八カ国連合軍)

 戊戌の変法(1898年)で変法派を裏切り、西太后の信任を得て山東巡撫と成り、義和団事件が起こるとこれを弾圧する一方で、自己軍隊の温存に努め、李鴻章が没すると、その後を継いで直隷総督兼北洋大臣に就任(1901年)、更に軍機大臣に迄台頭しますが(1907年)、その翌年満州貴族に警戒されて罷免されます。

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袁世凱、中華民国臨時大総統に就任

 しかし、辛亥革命が起こると清朝は袁世凱を再び起用し、彼を総理大臣に任命して軍・政の全権を与えました。
袁世凱は、革命派に戦争継続が無力であることを見抜き、革命派と取引きにより清の皇帝を退位させることを条件に臨時大総統に就任することを承諾させます。

 孫文等革命派も、中華民国を建国したものの、武力も財力も乏しく、袁世凱の軍に勝つ力も持ち合わせておらず、民主共和国を守る為に袁世凱の取引に応じ、清の皇帝を退位させることを条件に、袁世凱に臨時大総統の地位を譲ることを密約します(孫袁密約)。
袁世凱は密約に従って、あくまで帝政を主張する満州人貴族を威圧し、皇帝の称号を廃さず紫禁城に住むことを条件に宣統帝溥儀を退位させました。

宣統帝溥儀
宣統帝溥儀 3歳

 1912年2月12日、宣統帝溥儀(在位1908年~12年、醇親王(光緒帝の弟)長子、2歳で即位し、後に満州国皇帝)は退位し、太祖ヌルハチ以来12代297年間続いた清(1616年~1912年)は終に滅亡します。

 同年3月、袁世凱は臨時大総統に就任し、アジアで最も民主的と云われた臨時約法(仮憲法)を公布し、袁世凱が臨時大総統に就任、御用政党である共和党を結成すると(1912年5月)、中国同盟会は共和党に対抗するために、他の4党と合併して国民党と改称しました。

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宋教仁

 国民党は宋教仁(1882年~1913年)を事実上の党首として、1913年2月の総選挙で圧勝した結果、袁世凱の弾圧を受け、宋教仁は暗殺されます(1913年3月)。
袁世凱の専制と国民党弾圧に対して、江西の李烈鈞(1882年~1946年)等が討袁の兵を挙げますが袁世凱に鎮圧されます(第二革命、1913年7月)。

 1913年10月、袁世凱は正式大総統に就任、11月には国民党を解散させ、翌1914年には国会を停止し、大総統の権限を大幅に強化した新約法を公布します(1914年5月)。

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二十一カ条の要求に対する抗議集会

 この頃、孫文は東京で中華革命党を結成し、第二革命失敗後の革命勢力の再建を目ざし(1914年7月)ますが、1914年に始まった第一次世界大戦は、中国をめぐる国際関係を一変させ、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアの各国はヨーロッパ戦線に全力を注いだ結果、アジアを顧みる余裕は無く、この間に中国への独占的進出を図った日本は、1915年1月に二十一カ条の要求を突きつけ、袁世凱は初めこそこの要求を拒否しますが、結局日本の武力に屈して5月には要求の大部分を受け入れてしまいます。
その一方で、国内では独裁権を更に強化した袁世凱は、1915年8月頃から帝政運動を展開し、12月には国会に工作して皇帝推薦を決議させ、即位を受諾して翌1916年1月1日皇帝即位式を予定します。

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天壇で皇帝となる儀式を行う袁世凱

 しかし、この帝政計画に対しては内外から激しい反対が起こり、雲南の唐継堯等は帝政に反対して雲南の独立を宣言して討袁軍を起こしますが、この第三革命(1915年12月)は各地に波及し、又日本をはじめとする列強も帝政に反対しました。

 内外から激しい反発を受けた袁世凱は、1916年3月に帝政計画を取り消し、間もなく失意の内に病死します(1916年6月)。
袁世凱の死後、地方では列強の援助を受けた軍閥(軍人の私的集団で、私兵を擁して特定地域を支配した)諸勢力が北京をはじめ各地に分立して、相互に抗争を続けた結果、以後10数年に渡って不安定な軍閥抗争時代が続くことになります。

名言集

自由はひとたび根付きはじめると、急速に成長する植物である。

Liberty,when it begins to take root, is a plant of rapid growth.

ジョージ・ワシントン


続く・・・