2017/12/17

歴史を歩く181

2第一次世界大戦(その1)

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サラエヴォ市内に向かう皇太子夫妻を乗せたベンツ540

 1914年6月28日、陸軍大演習統監の為、ボスニアのサライェヴォを訪れたオーストリア帝位継承者フランツ・フェルディナント(1864年~1914年、オーストリア皇帝フランツ・ヨゼフ1世の甥)夫妻が、大セルビア主義を唱える秘密結社に属していた、セルビア青年プリンチップによって暗殺されました。

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プリンチップによる狙撃を描いた新聞イラスト

 セルビアと対立を深めていたオーストリアは、このサライェヴォ事件はプリンチップの単独犯行でなく背後にセルビア政府が関係しているとして、7月23日にセルビア政府に対して強硬な最後通牒を48時間の制限を付けて突き付けます。
セルビア政府は25日に一部保留の回答を出したが、オーストリアはこれを認めず、1914年7月28日にセルビアに対して宣戦布告を行いました。

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出征するドイツ兵士:貨車に書かれた言葉は「パリへの旅行」

 7月30日、ロシアが全軍に総動員令を発すると、ドイツは8月1日にロシアに宣戦を布告し、翌2日に永世中立国のベルギーに領土通過を要求し、ベルギーがこれを拒否すると3日にはフランスに宣戦を布告し、4日にはベルギー侵入を開始します。

 フランスも8月3日にドイツに宣戦を布告し、イギリスは8月4日にドイツのベルギー侵入を口実としてドイツに宣戦を布告、こうして、オーストリアがセルビアに最後通牒を突き付けてから僅か10日程の間にヨーロッパの主要国が戦争に巻き込まれたのでした。

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アルフレート・フォン・シュリーフェン伯爵(Alfred Graf von Schlieffen, 1833年2月28日 - 1913年1月4日)

 ドイツは、陸軍参謀総長シュリーフェン(1833年~1913年)が既に1905年に立案していたシュリーフェン・プランに基づく作戦を展開します。
シュリーフェン・プランはロシア・フランスとの両面戦争を想定して立案された計画で、ロシアが大攻勢を開始できるまでには動員後6週間の時間を要し、其れまでに西部戦線に兵力の大部分を集中してフランス軍を包囲・壊滅させ、しかる後に主力を東に転じてロシア軍に当たるという計画でした。そしてフランスに攻め込むルートとして、防備の手薄な中立国ベルギーを通過する事も予め決められていました。

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シュリーフェン・プラン・Wlkipediaより

 しかし、ベルギーに侵入したドイツ軍は頑強な抵抗に遭遇し、ドイツ軍が立案した侵攻1日の予定は10日以上も延滞、短期決戦が不可能となった上、ロシア軍の動員はドイツの予想よりも遥かに早く、2週間後にはドイツ国境を越えてドイツ領に侵入しました。

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第8軍参謀長ルーデンドルフ(右)と軍議をする第8軍司令官ヒンデンブルク絵
(フーゴー・フォーゲル画・1928年)


 ドイツは、退役軍人のヒンデンブルク将軍(1847年~1934年、戦後大統領に就任)を起用し、重装備のロシア軍を湿地帯に誘い込み、タンネンベルクの戦い(1914年8月26日~30日)で包囲・壊滅させる大勝利を収めました。

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ドイツ軍に対峙するベルギー軍

 西部戦線では、ベルギーを突破したドイツ軍が、フランス国境を越えてパリを目ざして進撃を続け、パリの東を流れるマルヌ川を越えてパリに迫りますが、其れまで撤退を続けていたフランス軍は、9月5日からイギリス軍と共にマルヌで反撃に転じ、11日にはドイツ軍はエーヌ川迄押し戻す事に成功します。
このマルヌの戦い(1914年9月)によってドイツの短期決戦を期したシュリーフェン・プランは挫折し、以後西部戦線は膠着状態に陥って長期戦となります。

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ドイツ領南洋諸島

 この間、8月23日には日本が日英同盟を名目にドイツに宣戦を布告し、中国及び太平洋のドイツ領を攻撃し、青島を占領(1914年11月)、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領(1914年10月)、又艦隊を地中海に派遣しますが、陸軍のヨーロッパ戦線への派遣要求は拒否します。

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1915年のヨーロッパ。
緑は連合国、赤は中央同盟国、黄は中立国。Wikipediaより


 1914年11月、トルコは同盟国側に付いて参戦し、翌1915年10月にはブルガリアも同盟国側に付いて参戦し、同盟国側はドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアの4カ国と成りました。
これに対して連合国側は、イギリス・フランス・ロシアを主力にセルビア・日本(1914年に参戦)・イタリア(1915年に参戦)・ルーマニア(1916年に参戦)・アメリカ・中国(1917年に参戦)等計27カ国で構成されていました。

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回復されざるイタリア

 「回復されざるイタリア」を巡ってオーストリアと対立していたイタリアは仏伊協商(1902年)によって当初中立を保ちますが、ロンドン秘密条約(1915年4月)によって連合国側に立って参戦する見返りとして「回復されざるイタリア」・アドリア海沿岸地域を割譲するとの約束を得て、三国同盟を離れて連合国側に立って参戦しました。

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第一次世界大戦時の中東


 戦争が長期化する中でイギリスを中心とする秘密外交が積極的に展開され、ロンドン秘密条約を初めとして戦後の領土の分配に関する多くの秘密条約が締結されます。
1915年10月には、エジプト駐在のイギリス高等弁務官マクマホンがアラブの指導者フセイン(フサイン、ヒジャーズ王国初代国王)に戦争協力を条件にアラブ人居住区の独占と独立を認めると通告しました(フセイン・マクマホン協定)。

フサイン・マクマホン
現在に続く中東問題の発端:フサイン・マクマホン

 その一方で、イギリス・フランス・ロシアは1916年5月にサイクス・ピコ協定(サイクスはイギリスの、ピコはフランスの代表者名)を結んで中近東地域のトルコ領を3国で分割する事を約したのでアラブは猛烈な反感を買い、更に1917年11月には、イギリス外相バルフォア(1848年~1930年)がユダヤ系金融資本の協力を得るためにシオニズム運動を支持し、ユダヤ人のパレスチナに於ける国家建設を約束するバルフォア宣言を発表しました。

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初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォアとバルフォア宣言文書
(Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour、1848年7月25日 - 1930年3月19日)

 フセイン・マクマホン協定、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言の3つの内容は夫々矛盾する内容を含み、戦後パレスチナを巡ってユダヤ人とアラブ人の対立が激化、パレスチナ問題を引き起こす事と成ります。

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ヴェルダンの戦い

 第一次世界大戦は、交戦国の誰もが予想しえなかった長期戦と成り、 長期・消耗戦を心配したドイツは、膠着状態に陥った西部戦線での戦局打開を図る為、1916年2月から12月にかけてヴェルダン要塞に猛攻を加えます。
これに対してフランス軍はペタン将軍の指揮下でこれを死守しますが、ヴェルダンの戦いでの死傷者はドイツ軍約34万、フランス軍約36万を数え、第一次世界大戦中の最大の激戦と成りました。

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ソンムの戦い・イギリス軍MK1戦車

 ヴェルダンの危機を脱した連合国は、北フランスのソンム河畔でドイツ軍に対して西部戦線での最初の大規模な反撃に転じ(ソンムの戦い、1916年6月~16年11月)、連合国はドイツ軍に総攻撃を行いますが勝敗は決せず、連合軍75万、ドイツ軍50万の死傷者を出し、戦況は又対峙状態に戻りました。
又このソンムの戦いで、イギリス軍が史上初の戦車を戦場に投入しました。

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被弾し炎上するイギリス海軍戦艦HMSライオン

 ドイツは、開戦当初から海軍力に於いてイギリスに対して劣勢であり、その主力艦隊はイギリス艦隊に封鎖されて北海に進出する事が出来ませんでした。
ドイツ海軍はドッガー・バンク沖の海戦(1915年1月)でイギリス海軍によって大打撃を受け、又1916年5月~6月のユトランド沖海戦では、双方ともに決定的な勝敗を決するに至らず、両国艦隊が同様の損害を被った結果、相対的にドイツ海軍は劣勢に転じ、ドイツは海外植民地との連絡も断たれて物資の補給が絶望的となり、食糧をはじめとする国民生活は極度に苦しくなって行きました。

名言集

決して後悔も、人への非難もしてはならない。
それが英知に至る第一歩なのだ。

Never to repent and never to reproach others;these are the first setp of wisdom.

ドゥニ・ディドロ

続く・・・


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2017/12/11

歴史を歩く180

40第一次世界大戦とロシア革命①

1国際対立の激化

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ビスマルク辞職を描いた挿絵「水先案内人の下船」

 1890年、ドイツでビスマルクが引退し、ヴィルヘルム2世(在位1888年~1918年)はロシアとの再保障条約の更新を拒否しました。
其の為、ドイツから離れたロシアは、ビスマルク外交によって孤立していたフランスに接近して露仏同盟(1891年~94年に成立)を締結し、この露仏同盟成立によって、ビスマルクが最も恐れていたドイツが、東西からロシア・フランスに挟まれる状況が現実のものになりました。

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 ドイツは露仏同盟の成立後、ロシアの東アジア進出を支持し、自等はバルカンから西アジアへの進出を図り、3B政策を推進します。
3B政策はベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium)・バグダード(Bagdad)を結び、ドイツの西アジアへの進出を図る帝国主義政策の代名詞で、主要3都市の頭文字をとって呼ばれています。

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イスタンブールのアジア側であるハイダルパシャ駅
バグダード鉄道とヒジャーズ鉄道のターミナル


 ドイツは、1899年にトルコからバグダード鉄道(トルコのコニアからバグダードを経てペルシア湾に至る予定線)の敷設権を獲得し、1903年にはバグダード鉄道会社を設立、3B政策の中心として建設を推進しました。
バグダード鉄道は1918年迄に3分の2が完成し、この間トルコに於けるドイツの勢力が著しく強まります。
尚バグダード鉄道は、広義には19世紀末以来のドイツ資本による近東に於ける鉄道事業の総称としても使われています。

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野党である保守党から支持を受けるチャーチル海相の海軍予算増額案を風刺絵

 ドイツの3B政策はイギリスの3C政策を脅かす事と成り、又両国の激しい建艦競争も相まってイギリスとドイツの対立は強まります。
イギリスは20世紀の初頭迄「光栄ある孤立」を誇ってきましたが、ロシアの東アジア進出に対抗する為に「光栄ある孤立」を捨て、1902年に日英同盟を締結、1904年に日露戦争が勃発すると、日本の同盟国であるイギリスとロシアに同盟国であるフランスは、日露戦争に巻き込まれる事を避け、ドイツに対抗する為に1904年に英仏協商を締結します。

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英仏協商風刺絵

 イギリスとフランスは英仏協商によって、エジプトに於けるイギリスの、モロッコに於けるフランスの優越権を相互に承認して長年にわたる植民地をめぐる対立を調整しました。
尚、協商とは緩い国家間の協力提携の関係を意味しています。

 日露戦争で東アジア於ける南下政策を阻止されたロシアは、再びバルカンへの進出を画策してドイツ・オーストリアとの衝突は不可避になって行きます。
其の為ロシアは、1907年にイギリスと勢力範囲を協定して英露協商を締結し、イランの北半分をロシア、イランの南東部をイギリスの勢力範囲として分割し、ロシアはアフガニスタンに於けるイギリスの優越権を認め、又チベットについては中国の主権を認めて相互内政不干渉を協定しました。

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 この英露協商の成立によって、従来の露仏同盟・英仏協商と合わせて、イギリス・フランス・ロシアの間に三国協商と呼ばれる協力関係が成立し、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア間の軍事同盟)と対立する事となりました。
イタリアは、統一後北アフリカのチュニス進出を目指しましたが、フランスがチュニスを保護国とすると(188年)、ドイツ・オーストリアへの接近を図り、1882年に三国同盟を締結します。
しかし、イタリアは「未回収のイタリア」(イタリアは1870年以後もオーストリア領に留まったイタリア人居住地域のトリエステ・南チロルを未回収のイタリアと呼んでその併合を要求し続けた)を巡ってオーストリアと対立しました。

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汎ゲルマン主義寓意画フィリップ・ファイト製作『ゲルマニア』

 其の為、イタリアはその後フランスに接近し、トリポリに於けるイタリアの、モロッコに於けるフランスの優越権を相互に認めて1902年に仏伊協商を締結します。
領内に多くのスラヴ系民族を抱えていたオーストリアはパン・スラヴ主義(スラヴ民族の独立・団結を主張する立場)の影響を恐れ、3B政策を推し進めているドイツと結んでパン・ゲルマン主義(ゲルマン民族や国家の団結を主張する立場)を唱えてバルカンへの勢力拡大を画策します。

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アルフォンス・ミュシャ『スラヴ叙事詩』

 1908年にオスマン・トルコで青年トルコの革命が起こると、この混乱に乗じてブルガリア(スラヴ系国家)はトルコからの独立を宣言し(1908年10月)、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しました。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナはスラヴ系住民が多く、パン・スラヴ主義の先頭に立ったセルビアがかねてより併合を主張しており、セルビアはオーストリアに対して激しい敵意を抱き、又再びバルカンへの進出を図るロシアとオーストリアの間にも緊張が高まります。

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ドイツ・オーストリアに立ち向かうブルガリア。それを配合から狙うセルビア

 ロシアは、1912年にセルビア・ギリシア・ブルガリア・モンテネグロの4カ国の間でバルカン同盟を結成させ、これを指導下に置き、バルカン同盟4カ国は、イタリアがトリポリ・キレナイカの奪取を意図してイタリア・トルコ戦争(伊土戦争、1911年~12ね)を起こすと、これに乗じてトルコに宣戦しました(第1次バルカン戦争、1912年10~13年5月)。

 トルコは直ちにイタリアとの戦争を終結させ、バルカン同盟4カ国と交戦するも敗退し、イスタンブルを除くバルカン半島に残されていた、トルコ領の大部分とクレタ島をバルカン同盟4カ国に割譲しました。

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バルカンの火薬庫

 しかし戦後、領土分割問題からブルガリアとセルビアが対立し、ブルガリアがセルビア・ギリシアを攻撃して第2次バルカン戦争(1913年6月~13年8月)が勃発します。
セルビア・ギリシア側にはモンテネグロの他にルーマニア・トルコも参戦した結果、ブルガリアは大敗し、ルーマニア・セルビア・ギリシアそしてトルコにも領土を割譲する結果となりました。

 其の為ブルガリアは、以後ドイツ・オーストリアに接近する様に成り、バルカン戦争によって勢力を伸ばしたセルビアと其れに反発するオーストリアの対立が激化し、パン・スラヴ主義とパン・ゲルマン主義が激しく対立した結果、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる様に成りました。

名言集

フィクションは可能性をもっていなければならないが、真実はそうではない。

Fiction is obliged to stick to possibilities. Truth isn't.

マーク・トウェイン

続く・・・

2017/12/04

歴史を歩く179

39アジア諸国の変革と民族運動⑨

8西アジアの民族運動と立憲運動

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アブデュル・ハミト2世(II. Abdülhamid, 1842年9月21日 - 1918年2月10日)

 オスマン・トルコでは、1876年に最初の憲法であるミドハト憲法が制定されましたが、アブデュル・ハミト2世(在位1876年~1909年)は露土戦争(1877年~78年)の勃発を口実に、1878年にミドハト憲法を停止して専制政治を復活させます。

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青年トルコ(党)の示威行動

 これを不満とする人々は、専制の打倒とミドハト憲法の復活を求めて青年トルコ(党)(正式名称:統一と進歩委員会)を結成(1889年頃)、アブデュル・ハミト2世の執拗な弾圧にも関わらず、次第に勢力を固めて成長し、ロシア第一革命(1905年)や日露戦争に於ける日本の勝利に刺激され、1908年にサロニカ(現ギリシア)で、マケドニア軍団の青年将校を先頭に反乱を起こし、スルタンにミドハト憲法の復活を宣言させました(1908年7月)。
この反乱が青年トルコ革命(サロニカ革命)と後も呼ばれる様になりました。

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青年トルコ政権

 翌年、保守派による反革命が起こると、青年トルコはイスタンブルに進撃して首都を制圧し(1909年4月)、アブデュル・ハミト2世を退位させて政権を掌握します。
青年トルコ政権(第一次世界大戦末迄存続)は、トルコの近代化を促進する一方でパン・トルコ主義を唱え、国内の非トルコ系及び非ムスリム諸民族を抑圧する様になります。

 ヨーロッパ列強への従属を深めつつあったカジャール朝(1796年~1925年)のイランでも民族的自覚が高まり、アフガーニーの影響を受けてタバコ・ボイコット運動が勃発します。

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ジャマールッディーン・アフガーニー
(جمال الدين الحسيني الأفغاني、記でSayyid Jamāl al-Dīn al-Afghānī、1839年-1897年5月9日)


 アフガーニー(1838/39年~97年)はアフガニスタン(又はイラン)生まれのイスラム思想家でパン・イスラム主義(イスラム世界の団結・統一を目ざす思想や運動)を唱えて西アジア各地を歴遊し、エジプトのアラービー・パシャの運動やイランのタバコ・ボイコット運動、又トルコのアブデュル・ハミト2世のパン・イスラム主義に大きな影響を及ぼしました。
アフガーニーがイランを追放された(1890年)事を発端としてタバコ・ボイコット運動が起こったのでした。

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タバコ・ボイコット運動の発端となったナーセロッディーン・シャー(1831年7月16日 - 1896年5月1日)

 カジャール朝政府が、イギリス商人にイラン全土でのタバコの原料の買い付け・加工・販売に関する独占的な利権を譲渡すると、商人やウラマー(イスラム教の神学・法学に精通している人物)が中心となって激しい反対運動を展開し、翌年利権を破棄させますが、このタバコ・ボイコット運動はイラン民族運動の出発点となり、20世紀初頭の立憲運動へと発展して行きました。

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イラン立憲革命

 イランでは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、国民の間に専制政治とイギリス・ロシアの軍事的・経済的侵略に対する不満が高まり、20世紀初頭にイラン立憲革命(1905年~11年)が起こります。
1906年にはウラマーに指導された民衆の蜂起が起こり、国王はこの圧力に屈して議会と憲法を認めますが、翌1907年にイギリスとロシアは英露協商を結び、イギリスがイランの東南部を、ロシアがイランの北半分をそれぞれ勢力範囲とすることを協定し、1911年、イギリスとロシアによる軍事干渉によって議会は閉鎖に追い込まれ、イラン立憲革命は挫折します。

名言集

あえて大きな失敗のできる人だけが偉大なことをなしとげられるものだ。

Only those who dare to fail greatly can ever achieve greatly.

ロバート・ケネディ


続く・・・