歴史を歩く181
2第一次世界大戦(その1)

サラエヴォ市内に向かう皇太子夫妻を乗せたベンツ540
1914年6月28日、陸軍大演習統監の為、ボスニアのサライェヴォを訪れたオーストリア帝位継承者フランツ・フェルディナント(1864年~1914年、オーストリア皇帝フランツ・ヨゼフ1世の甥)夫妻が、大セルビア主義を唱える秘密結社に属していた、セルビア青年プリンチップによって暗殺されました。

プリンチップによる狙撃を描いた新聞イラスト
セルビアと対立を深めていたオーストリアは、このサライェヴォ事件はプリンチップの単独犯行でなく背後にセルビア政府が関係しているとして、7月23日にセルビア政府に対して強硬な最後通牒を48時間の制限を付けて突き付けます。
セルビア政府は25日に一部保留の回答を出したが、オーストリアはこれを認めず、1914年7月28日にセルビアに対して宣戦布告を行いました。

出征するドイツ兵士:貨車に書かれた言葉は「パリへの旅行」
7月30日、ロシアが全軍に総動員令を発すると、ドイツは8月1日にロシアに宣戦を布告し、翌2日に永世中立国のベルギーに領土通過を要求し、ベルギーがこれを拒否すると3日にはフランスに宣戦を布告し、4日にはベルギー侵入を開始します。
フランスも8月3日にドイツに宣戦を布告し、イギリスは8月4日にドイツのベルギー侵入を口実としてドイツに宣戦を布告、こうして、オーストリアがセルビアに最後通牒を突き付けてから僅か10日程の間にヨーロッパの主要国が戦争に巻き込まれたのでした。

アルフレート・フォン・シュリーフェン伯爵(Alfred Graf von Schlieffen, 1833年2月28日 - 1913年1月4日)
ドイツは、陸軍参謀総長シュリーフェン(1833年~1913年)が既に1905年に立案していたシュリーフェン・プランに基づく作戦を展開します。
シュリーフェン・プランはロシア・フランスとの両面戦争を想定して立案された計画で、ロシアが大攻勢を開始できるまでには動員後6週間の時間を要し、其れまでに西部戦線に兵力の大部分を集中してフランス軍を包囲・壊滅させ、しかる後に主力を東に転じてロシア軍に当たるという計画でした。そしてフランスに攻め込むルートとして、防備の手薄な中立国ベルギーを通過する事も予め決められていました。

シュリーフェン・プラン・Wlkipediaより
しかし、ベルギーに侵入したドイツ軍は頑強な抵抗に遭遇し、ドイツ軍が立案した侵攻1日の予定は10日以上も延滞、短期決戦が不可能となった上、ロシア軍の動員はドイツの予想よりも遥かに早く、2週間後にはドイツ国境を越えてドイツ領に侵入しました。

第8軍参謀長ルーデンドルフ(右)と軍議をする第8軍司令官ヒンデンブルク絵
(フーゴー・フォーゲル画・1928年)
ドイツは、退役軍人のヒンデンブルク将軍(1847年~1934年、戦後大統領に就任)を起用し、重装備のロシア軍を湿地帯に誘い込み、タンネンベルクの戦い(1914年8月26日~30日)で包囲・壊滅させる大勝利を収めました。

ドイツ軍に対峙するベルギー軍
西部戦線では、ベルギーを突破したドイツ軍が、フランス国境を越えてパリを目ざして進撃を続け、パリの東を流れるマルヌ川を越えてパリに迫りますが、其れまで撤退を続けていたフランス軍は、9月5日からイギリス軍と共にマルヌで反撃に転じ、11日にはドイツ軍はエーヌ川迄押し戻す事に成功します。
このマルヌの戦い(1914年9月)によってドイツの短期決戦を期したシュリーフェン・プランは挫折し、以後西部戦線は膠着状態に陥って長期戦となります。

ドイツ領南洋諸島
この間、8月23日には日本が日英同盟を名目にドイツに宣戦を布告し、中国及び太平洋のドイツ領を攻撃し、青島を占領(1914年11月)、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領(1914年10月)、又艦隊を地中海に派遣しますが、陸軍のヨーロッパ戦線への派遣要求は拒否します。

1915年のヨーロッパ。
緑は連合国、赤は中央同盟国、黄は中立国。Wikipediaより
1914年11月、トルコは同盟国側に付いて参戦し、翌1915年10月にはブルガリアも同盟国側に付いて参戦し、同盟国側はドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアの4カ国と成りました。
これに対して連合国側は、イギリス・フランス・ロシアを主力にセルビア・日本(1914年に参戦)・イタリア(1915年に参戦)・ルーマニア(1916年に参戦)・アメリカ・中国(1917年に参戦)等計27カ国で構成されていました。

回復されざるイタリア
「回復されざるイタリア」を巡ってオーストリアと対立していたイタリアは仏伊協商(1902年)によって当初中立を保ちますが、ロンドン秘密条約(1915年4月)によって連合国側に立って参戦する見返りとして「回復されざるイタリア」・アドリア海沿岸地域を割譲するとの約束を得て、三国同盟を離れて連合国側に立って参戦しました。

第一次世界大戦時の中東
戦争が長期化する中でイギリスを中心とする秘密外交が積極的に展開され、ロンドン秘密条約を初めとして戦後の領土の分配に関する多くの秘密条約が締結されます。
1915年10月には、エジプト駐在のイギリス高等弁務官マクマホンがアラブの指導者フセイン(フサイン、ヒジャーズ王国初代国王)に戦争協力を条件にアラブ人居住区の独占と独立を認めると通告しました(フセイン・マクマホン協定)。

現在に続く中東問題の発端:フサイン・マクマホン
その一方で、イギリス・フランス・ロシアは1916年5月にサイクス・ピコ協定(サイクスはイギリスの、ピコはフランスの代表者名)を結んで中近東地域のトルコ領を3国で分割する事を約したのでアラブは猛烈な反感を買い、更に1917年11月には、イギリス外相バルフォア(1848年~1930年)がユダヤ系金融資本の協力を得るためにシオニズム運動を支持し、ユダヤ人のパレスチナに於ける国家建設を約束するバルフォア宣言を発表しました。

初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォアとバルフォア宣言文書
(Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour、1848年7月25日 - 1930年3月19日)
フセイン・マクマホン協定、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言の3つの内容は夫々矛盾する内容を含み、戦後パレスチナを巡ってユダヤ人とアラブ人の対立が激化、パレスチナ問題を引き起こす事と成ります。

ヴェルダンの戦い
第一次世界大戦は、交戦国の誰もが予想しえなかった長期戦と成り、 長期・消耗戦を心配したドイツは、膠着状態に陥った西部戦線での戦局打開を図る為、1916年2月から12月にかけてヴェルダン要塞に猛攻を加えます。
これに対してフランス軍はペタン将軍の指揮下でこれを死守しますが、ヴェルダンの戦いでの死傷者はドイツ軍約34万、フランス軍約36万を数え、第一次世界大戦中の最大の激戦と成りました。

ソンムの戦い・イギリス軍MK1戦車
ヴェルダンの危機を脱した連合国は、北フランスのソンム河畔でドイツ軍に対して西部戦線での最初の大規模な反撃に転じ(ソンムの戦い、1916年6月~16年11月)、連合国はドイツ軍に総攻撃を行いますが勝敗は決せず、連合軍75万、ドイツ軍50万の死傷者を出し、戦況は又対峙状態に戻りました。
又このソンムの戦いで、イギリス軍が史上初の戦車を戦場に投入しました。

被弾し炎上するイギリス海軍戦艦HMSライオン
ドイツは、開戦当初から海軍力に於いてイギリスに対して劣勢であり、その主力艦隊はイギリス艦隊に封鎖されて北海に進出する事が出来ませんでした。
ドイツ海軍はドッガー・バンク沖の海戦(1915年1月)でイギリス海軍によって大打撃を受け、又1916年5月~6月のユトランド沖海戦では、双方ともに決定的な勝敗を決するに至らず、両国艦隊が同様の損害を被った結果、相対的にドイツ海軍は劣勢に転じ、ドイツは海外植民地との連絡も断たれて物資の補給が絶望的となり、食糧をはじめとする国民生活は極度に苦しくなって行きました。
名言集
決して後悔も、人への非難もしてはならない。
それが英知に至る第一歩なのだ。
Never to repent and never to reproach others;these are the first setp of wisdom.
ドゥニ・ディドロ
続く・・・

サラエヴォ市内に向かう皇太子夫妻を乗せたベンツ540
1914年6月28日、陸軍大演習統監の為、ボスニアのサライェヴォを訪れたオーストリア帝位継承者フランツ・フェルディナント(1864年~1914年、オーストリア皇帝フランツ・ヨゼフ1世の甥)夫妻が、大セルビア主義を唱える秘密結社に属していた、セルビア青年プリンチップによって暗殺されました。

プリンチップによる狙撃を描いた新聞イラスト
セルビアと対立を深めていたオーストリアは、このサライェヴォ事件はプリンチップの単独犯行でなく背後にセルビア政府が関係しているとして、7月23日にセルビア政府に対して強硬な最後通牒を48時間の制限を付けて突き付けます。
セルビア政府は25日に一部保留の回答を出したが、オーストリアはこれを認めず、1914年7月28日にセルビアに対して宣戦布告を行いました。

出征するドイツ兵士:貨車に書かれた言葉は「パリへの旅行」
7月30日、ロシアが全軍に総動員令を発すると、ドイツは8月1日にロシアに宣戦を布告し、翌2日に永世中立国のベルギーに領土通過を要求し、ベルギーがこれを拒否すると3日にはフランスに宣戦を布告し、4日にはベルギー侵入を開始します。
フランスも8月3日にドイツに宣戦を布告し、イギリスは8月4日にドイツのベルギー侵入を口実としてドイツに宣戦を布告、こうして、オーストリアがセルビアに最後通牒を突き付けてから僅か10日程の間にヨーロッパの主要国が戦争に巻き込まれたのでした。

アルフレート・フォン・シュリーフェン伯爵(Alfred Graf von Schlieffen, 1833年2月28日 - 1913年1月4日)
ドイツは、陸軍参謀総長シュリーフェン(1833年~1913年)が既に1905年に立案していたシュリーフェン・プランに基づく作戦を展開します。
シュリーフェン・プランはロシア・フランスとの両面戦争を想定して立案された計画で、ロシアが大攻勢を開始できるまでには動員後6週間の時間を要し、其れまでに西部戦線に兵力の大部分を集中してフランス軍を包囲・壊滅させ、しかる後に主力を東に転じてロシア軍に当たるという計画でした。そしてフランスに攻め込むルートとして、防備の手薄な中立国ベルギーを通過する事も予め決められていました。

シュリーフェン・プラン・Wlkipediaより
しかし、ベルギーに侵入したドイツ軍は頑強な抵抗に遭遇し、ドイツ軍が立案した侵攻1日の予定は10日以上も延滞、短期決戦が不可能となった上、ロシア軍の動員はドイツの予想よりも遥かに早く、2週間後にはドイツ国境を越えてドイツ領に侵入しました。

第8軍参謀長ルーデンドルフ(右)と軍議をする第8軍司令官ヒンデンブルク絵
(フーゴー・フォーゲル画・1928年)
ドイツは、退役軍人のヒンデンブルク将軍(1847年~1934年、戦後大統領に就任)を起用し、重装備のロシア軍を湿地帯に誘い込み、タンネンベルクの戦い(1914年8月26日~30日)で包囲・壊滅させる大勝利を収めました。

ドイツ軍に対峙するベルギー軍
西部戦線では、ベルギーを突破したドイツ軍が、フランス国境を越えてパリを目ざして進撃を続け、パリの東を流れるマルヌ川を越えてパリに迫りますが、其れまで撤退を続けていたフランス軍は、9月5日からイギリス軍と共にマルヌで反撃に転じ、11日にはドイツ軍はエーヌ川迄押し戻す事に成功します。
このマルヌの戦い(1914年9月)によってドイツの短期決戦を期したシュリーフェン・プランは挫折し、以後西部戦線は膠着状態に陥って長期戦となります。

ドイツ領南洋諸島
この間、8月23日には日本が日英同盟を名目にドイツに宣戦を布告し、中国及び太平洋のドイツ領を攻撃し、青島を占領(1914年11月)、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領(1914年10月)、又艦隊を地中海に派遣しますが、陸軍のヨーロッパ戦線への派遣要求は拒否します。

1915年のヨーロッパ。
緑は連合国、赤は中央同盟国、黄は中立国。Wikipediaより
1914年11月、トルコは同盟国側に付いて参戦し、翌1915年10月にはブルガリアも同盟国側に付いて参戦し、同盟国側はドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアの4カ国と成りました。
これに対して連合国側は、イギリス・フランス・ロシアを主力にセルビア・日本(1914年に参戦)・イタリア(1915年に参戦)・ルーマニア(1916年に参戦)・アメリカ・中国(1917年に参戦)等計27カ国で構成されていました。

回復されざるイタリア
「回復されざるイタリア」を巡ってオーストリアと対立していたイタリアは仏伊協商(1902年)によって当初中立を保ちますが、ロンドン秘密条約(1915年4月)によって連合国側に立って参戦する見返りとして「回復されざるイタリア」・アドリア海沿岸地域を割譲するとの約束を得て、三国同盟を離れて連合国側に立って参戦しました。

第一次世界大戦時の中東
戦争が長期化する中でイギリスを中心とする秘密外交が積極的に展開され、ロンドン秘密条約を初めとして戦後の領土の分配に関する多くの秘密条約が締結されます。
1915年10月には、エジプト駐在のイギリス高等弁務官マクマホンがアラブの指導者フセイン(フサイン、ヒジャーズ王国初代国王)に戦争協力を条件にアラブ人居住区の独占と独立を認めると通告しました(フセイン・マクマホン協定)。

現在に続く中東問題の発端:フサイン・マクマホン
その一方で、イギリス・フランス・ロシアは1916年5月にサイクス・ピコ協定(サイクスはイギリスの、ピコはフランスの代表者名)を結んで中近東地域のトルコ領を3国で分割する事を約したのでアラブは猛烈な反感を買い、更に1917年11月には、イギリス外相バルフォア(1848年~1930年)がユダヤ系金融資本の協力を得るためにシオニズム運動を支持し、ユダヤ人のパレスチナに於ける国家建設を約束するバルフォア宣言を発表しました。

初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォアとバルフォア宣言文書
(Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour、1848年7月25日 - 1930年3月19日)
フセイン・マクマホン協定、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言の3つの内容は夫々矛盾する内容を含み、戦後パレスチナを巡ってユダヤ人とアラブ人の対立が激化、パレスチナ問題を引き起こす事と成ります。

ヴェルダンの戦い
第一次世界大戦は、交戦国の誰もが予想しえなかった長期戦と成り、 長期・消耗戦を心配したドイツは、膠着状態に陥った西部戦線での戦局打開を図る為、1916年2月から12月にかけてヴェルダン要塞に猛攻を加えます。
これに対してフランス軍はペタン将軍の指揮下でこれを死守しますが、ヴェルダンの戦いでの死傷者はドイツ軍約34万、フランス軍約36万を数え、第一次世界大戦中の最大の激戦と成りました。

ソンムの戦い・イギリス軍MK1戦車
ヴェルダンの危機を脱した連合国は、北フランスのソンム河畔でドイツ軍に対して西部戦線での最初の大規模な反撃に転じ(ソンムの戦い、1916年6月~16年11月)、連合国はドイツ軍に総攻撃を行いますが勝敗は決せず、連合軍75万、ドイツ軍50万の死傷者を出し、戦況は又対峙状態に戻りました。
又このソンムの戦いで、イギリス軍が史上初の戦車を戦場に投入しました。

被弾し炎上するイギリス海軍戦艦HMSライオン
ドイツは、開戦当初から海軍力に於いてイギリスに対して劣勢であり、その主力艦隊はイギリス艦隊に封鎖されて北海に進出する事が出来ませんでした。
ドイツ海軍はドッガー・バンク沖の海戦(1915年1月)でイギリス海軍によって大打撃を受け、又1916年5月~6月のユトランド沖海戦では、双方ともに決定的な勝敗を決するに至らず、両国艦隊が同様の損害を被った結果、相対的にドイツ海軍は劣勢に転じ、ドイツは海外植民地との連絡も断たれて物資の補給が絶望的となり、食糧をはじめとする国民生活は極度に苦しくなって行きました。
名言集
決して後悔も、人への非難もしてはならない。
それが英知に至る第一歩なのだ。
Never to repent and never to reproach others;these are the first setp of wisdom.
ドゥニ・ディドロ
続く・・・
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