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2018/02/20

歴史を歩く186

41ヴェルサイユ体制下の欧米

1ヴェルサイユ体制の成立

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パリ講和会議に於ける各国要人(鏡の間にて)


 1919年1月18日、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議が、32カ国の参加のもとに開催されました。
パリ講和会議の基礎となった原則は、アメリカ大統領ウィルソンが大戦中に発表した十四カ条(十四カ条の平和原則)であり、この十四カ条はソヴィエト政権の「平和に関する布告」や秘密外交文書の暴露に対処する形で1918年1月に発表されましたが、その主な条項は秘密外交の廃止・海洋の自由・関税障壁の撤廃・軍備縮小・植民地問題の公正な解決・ヨーロッパ諸民族の民族自決・国際平和機構の設立でした。

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第一次世界大戦後のヨーロッパ

 
この内民族自決の原則とは、各民族は夫々の運命を自ら決定する権利を持ち、又自らの国家を建設できるとする原則で、国際協調主義と共にヴェルサイユ体制を支える重要な原則となりましたが、ヴェルサイユ体制はヨーロッパにのみ適用され、その適用が最も必要であったアジア・アフリカには適用されませんでした。
 
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デイヴィッド・ロイド・ジョージ
( David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor, OM, PC、1863年1月17日 - 1945年3月26日)


パリ講和会議で中心的な役割を果たしたのは五大国(アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本)の代表であり、特にアメリカ大統領ウィルソン(在任期間1913年~21年)・イギリス首相ロイド・ジョージ(同1916年~22年)・フランス首相クレマンソー(同1917年~20年)の三巨頭で、日本首席全権は西園寺公望です。

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トーマス・ウッドロウ・ウィルソン
(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)

 ウィルソンは理想主義的な十四カ条を講和の原則とし、ドイツを寛大な条件で許すべきと考えましたが、クレマンソーはドイツに対する厳しい制裁とドイツを徹底的に弱体化することを強く主張し、この様な中、ロイド・ジョージはウィルソンの理想主義とクレマンソーの対独復讐の調停役を果たします。
結局、ウィルソンは最大の目的であった国際連盟規約を条約に盛り込む為に譲歩・妥協し、はじめはドイツに対する和解を説いていたロイド・ジョージもイギリス国民の対独敵意に押されてクレマンソーに同調した結果、クレマンソーの主張する対独強硬策が主流となり、十四カ条の原則は部分的にしか実現しませんでした。

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ヴェルサイユ条約の調印

 1919年6月28日、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間で、連合国とドイツとの間にヴェルサイユ条約が調印され、以後連合国とオーストリア・ハンガリー・ブルガリア・トルコとの間にそれぞれサン・ジェルマン条約(1919年9月)、トリアノン条約(1920年6月)、ヌイイ条約(1919年11月)、セーブル条約(1920年8月)が締結されました。
尚サン・ジェルマン、トリアノン、ヌイイ、セーブルはパリ近郊の都市名・地名です。

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アルザス・ロレーヌの位置
 
ヴェルサイユ条約は15編440条からなり、その第1編は国際連盟規約で、その主な内容は以下の通りです。
1) ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに割譲。
2) ポーランド回廊をポーランドに割譲。
3) ベルギー・チェコスロヴァキア・リトアニア・ポーランドに若干の領土を割譲。
此処でポーランド回廊とはドイツ本土と東プロイセンの中間地帯で、ポーランドに海への出口を与えるためにポーランド領としたもので、ドイツは本土と東プロイセンが分断される事となりました。
4) ダンチヒは国際連盟管理下の自由市とする。
5) ザール地方も国際連盟管理下に置かれ15年後の住民投票で帰属が決定される。

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軍備解体・プロペラを焚付に

 この結果、ドイツは戦前の面積・人口の10%以上を失う事となり、更に海外の全植民地も失い、将来のオーストリアとの合併も禁止され、軍備も大幅に制限されました。
1) 徴兵制は禁止。
2) 陸軍は10万、海軍は兵員1万5000・艦艇36隻に制限され、軍用機・潜水艦の保有も禁止。
3)フランス・ドイツ国境での紛争を防止する為、ライン川の東岸50kmの地帯は非武装地帯とされ、ドイツの軍事施設と駐屯は禁止、西岸は連合国が15年間保障占領する事(ラインラントの非武装化)。

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敗戦国ドイツのハイパーインフレーション

 更にドイツは巨額の賠償金を課せられますが、ヴェルサイユ条約では総額や支払い方式は決定されず、1921年4月のロンドン会議で総額が1320億金マルク(当時天文学的数字と揶揄される)に決定されます。

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1918年当時のチロル。
濃灰色の部分がサン=ジェルマン条約によってイタリア王国へ割譲された南チロル


 オーストリアはサン・ジェルマン条約によってドイツとの合併を禁止され、旧帝国内のポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ(後のユーゴスラヴィア)の独立を承認し、又「未回収のイタリア」をイタリアに割譲した結果、嘗ての大帝国は一挙にその面積・人口が戦前の約4分の1に減少しました。

 ハンガリーはトリアノン条約によってルーマニア、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ、チェコスロヴァキアに領土を割譲して面積は3分の1、人口は5分の2に減少します。

 ブルガリアもヌイイ条約によってセルブ・クロアート・スロヴェーヌ、ギリシア、ルーマニアに領土を割譲します。

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西アジアの分割 

 トルコは、イラク、ヨルダン、パレスチナをイギリスの、そしてシリア、レバノンをフランスの委任統治領とする事、ボスフォラス、ダーダネルス両海峡の開放、国際管理、非武装、極端な軍備制限、治外法権の承認等を規定した屈辱的なセーブル条約を承認しました。

 この結果、ヨーロッパでは民族自決の原則に従って、旧オーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の領内からフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(1929年にユーゴスラヴィアと改称)が独立を果たしますが、民族自決の原則はヨーロッパ以外には適用されず、アジア・アフリカの人々を失望させました。

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バルフォア宣言

 トルコに属していた中東地域に関しては、大戦中にアラブ人に独立を約束したフセイン・マクマホン協定(1915年)とユダヤ人に独立を約束したバルフォア宣言(1917年)は共に無視され、イラク、ヨルダン、パレスチナはイギリスの、シリア、レバノンはフランスの委任統治領とされました。
委任統治とは、第一次世界大戦後の敗戦国ドイツ・トルコの領土処分の一形式で、国際連盟から統治を委任される形を取りますが、事実上は領土の再分割で、第一次世界大戦中に日本が占領した南洋諸島も戦後日本の委任統治領となっています(1920年)。

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国際連盟本部

 パリ講和会議でつくられた戦後の新しい国際秩序はその中心となったドイツとのヴェルサイユ条約からヴェルサイユ体制と呼ばれ、ウィルソンの14カ条に基づいて創設された国際連盟は世界史上最初の本格的国際平和機構で、ヴェルサイユ条約によって規定され、1920年1月10日に正式に発足し、設立時の加盟国数は42カ国でしたが1934年時点では最多の58カ国が加盟していました。本部はスイスのジュネーヴに置かれ、総会・理事会・連盟事務局を中心に運営されました。

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国際連盟総会(写真は1933年リットン調査団報告を否定する松岡全権)

 総会は国際連盟の最高決議機関で、全加盟国1国1票で構成し、全会一致が原則とされました。
理事会は国際連盟の最高機関の一つで、イギリス、フランス、イタリア、日本の4常任理事国と4非常任理事国(22年から6カ国、26年から9カ国となる)で構成されました。
又国際連盟には国際労働機関(ILO)と国際司法裁判所が設置され、ここでILOは各国内の労働問題の調整機関として勧告や調停を行い、国際司法裁判所はオランダのハーグに常設され、国際紛争の裁判を行ない、その判決には拘束力はありましたが実効性には問題が残っていました。

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国際連盟の設立を提言・ウィルソン大統領

 国際連盟には多くの問題点・欠点が存在した為、小紛争の調停等には一定の成果を上げますが、大国の関わる紛争解決には非力で在り、最大の問題点はアメリカ・ドイツ・ソヴィエト政権(後のソ連)の大国が不参加又は排除されたことに在り、提唱国のアメリカでは戦後、孤立主義が台頭し、上院でヴェルサイユ条約批准が否決された(1919年11月)為に参加できず、敗戦国のドイツと社会主義のソヴィエト政権は排除され、又武力制裁がなく、経済制裁(経済封鎖)のみであった事、総会の議決が全会一致で意思統一が困難であった事等の問題を抱えていた為、国際連盟は第二次世界大戦を防止することが出来ませんでした。

名言集

If you keep up with the following guidance,
Everyone succeeds.
Be confident.
And do your best to work.

次の心得を守れば十中八九、誰でも成功する。
自信を持つこと。
そして仕事に全力を尽くすことだ。

トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson


続く・・・


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2018/02/10

歴史を歩く185

40 第一次世界大戦とロシア革命⑥

6戦時共産主義と新経済政策

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農民と語るレーニン

 ソヴィエト政権は、革命後土地を無償で没収して国有地として農民に分配し、労働者の工場管理と大工業の国有化を進め、銀行・外国貿易を国営としました。
更にソヴィエト政権は、対ソ干渉戦争と反革命軍との内戦の危機に対処する為に、1918年11月には「全てを戦場に」のスローガンの下で、中小工場を国有化し、商業も国営化して個人売買を総て禁止し、更にこれまでの公定価格による穀物の買い上げを廃止して、穀物を強制的に徴発し、食料を配給制としました。
労働義務制によって旧資本家や知識人にも肉体労働が課せられます。

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革命期のソヴィエト500ルーブル切手

 この様な経済政策は戦時共産主義(1918年~21年)と呼ばれ、この戦時共産主義は非常事態への対応としては役立ち、赤軍への武器・弾薬や食料の補給等は増加しますが、7年間にわたる戦争・内乱でロシア経済は荒廃し、1920年の工業生産は戦前の約14%・穀物生産も約2分の1に減少していました。
そのため都市では食料・燃料が欠乏し、農村では農具・衣料が欠乏していたのです。

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パンの強制挑発

 特に穀物の強制徴発に対する農民の反発は強く、農民は生産意欲を失って穀物生産は減少し、1920年と21年には広範囲にわたる干ばつも重なり飢饉状態が進行、数100万人の餓死者が出ています。
こうした状況を打開する為、対ソ干渉戦争で日本軍を除く各国軍が撤兵し、国内の反革命軍もほぼ鎮圧されると、レーニンは政策の転換を図り、1921年3月の第10回党大会で新経済政策(ネップ)に関する提案を行って採択されました。

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労働でパンができる!

 新経済政策(New Economic Policyの頭文字を取ってNEP、ネップと呼ばれる)は、戦時共産主義によって極度に低下した生産を回復させる為に採られた経済政策で、穀物強制徴発制が廃止されて農民には余剰生産物の自由販売が認められ、又中小企業(小商店や小工場)の個人経営も認められましたが、土地はもちろん、銀行・大工業・外国貿易等の国家管理の原則は変わりませんでした。

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富農アシェフニェフの家(保存建築物)

 ネップは、一定の範囲内で資本主義的な営業を認めて人々の生産意欲を高めようとした政策で、社会主義を放棄した政策ではありません。
ネップの採用によって人々の生産意欲が高まり、生産は回復に向かったので、1927年迄には各部門でほぼ戦前の水準を回復しますが、その一方でネップマン(ネップ期に主に投機で富を蓄積した小所有者階級)やクラーク(富農)の出現等新しい問題が発生しました。

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条約締結に立ち会った独ソ首脳 左から2人目がヴィルト独首相、その右へ順にクラーシン・チチェーリン・ヨッフェ

 ネップの発展の為に先進資本主義国の技術援助を必要としたソヴィエト政権は、資本主義国へ接近し、又ヨーロッパ諸国もネップを資本主義への方向を目ざす政策と判断し、1922年に先ずドイツがラパロ条約でソヴィエト政権を承認し、1924年にはイギリス・イタリア・フランスが、そして1925年には日本がソ連を承認します。
ラパロ条約は1922年4月にドイツとソヴィエト政権が結んだ条約で、両国は相互に賠償・債務を放棄し、外交関係の回復と経済関係の促進を約し、ドイツはソヴィエト政権を承認しました。
ヴェルサイユ体制に苦しむドイツと国際的に孤立していたソヴィエト政権が接近した事が背景に存在しています。

名言集

He who does not work, do not eat it

働かざる者、食うべからず。

ウラジーミル・イリイチ・レーニン

続く・・・




2018/02/06

誕生日

今日で、ジロくんは12歳に成りました。

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病気も無く、元気に今日を迎えました。
これからも、宜しく。