歴史を歩く186
41ヴェルサイユ体制下の欧米
1ヴェルサイユ体制の成立

パリ講和会議に於ける各国要人(鏡の間にて)
1919年1月18日、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議が、32カ国の参加のもとに開催されました。
パリ講和会議の基礎となった原則は、アメリカ大統領ウィルソンが大戦中に発表した十四カ条(十四カ条の平和原則)であり、この十四カ条はソヴィエト政権の「平和に関する布告」や秘密外交文書の暴露に対処する形で1918年1月に発表されましたが、その主な条項は秘密外交の廃止・海洋の自由・関税障壁の撤廃・軍備縮小・植民地問題の公正な解決・ヨーロッパ諸民族の民族自決・国際平和機構の設立でした。

第一次世界大戦後のヨーロッパ
この内民族自決の原則とは、各民族は夫々の運命を自ら決定する権利を持ち、又自らの国家を建設できるとする原則で、国際協調主義と共にヴェルサイユ体制を支える重要な原則となりましたが、ヴェルサイユ体制はヨーロッパにのみ適用され、その適用が最も必要であったアジア・アフリカには適用されませんでした。

デイヴィッド・ロイド・ジョージ
( David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor, OM, PC、1863年1月17日 - 1945年3月26日)
パリ講和会議で中心的な役割を果たしたのは五大国(アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本)の代表であり、特にアメリカ大統領ウィルソン(在任期間1913年~21年)・イギリス首相ロイド・ジョージ(同1916年~22年)・フランス首相クレマンソー(同1917年~20年)の三巨頭で、日本首席全権は西園寺公望です。
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トーマス・ウッドロウ・ウィルソン
(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)
ウィルソンは理想主義的な十四カ条を講和の原則とし、ドイツを寛大な条件で許すべきと考えましたが、クレマンソーはドイツに対する厳しい制裁とドイツを徹底的に弱体化することを強く主張し、この様な中、ロイド・ジョージはウィルソンの理想主義とクレマンソーの対独復讐の調停役を果たします。
結局、ウィルソンは最大の目的であった国際連盟規約を条約に盛り込む為に譲歩・妥協し、はじめはドイツに対する和解を説いていたロイド・ジョージもイギリス国民の対独敵意に押されてクレマンソーに同調した結果、クレマンソーの主張する対独強硬策が主流となり、十四カ条の原則は部分的にしか実現しませんでした。

ヴェルサイユ条約の調印
1919年6月28日、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間で、連合国とドイツとの間にヴェルサイユ条約が調印され、以後連合国とオーストリア・ハンガリー・ブルガリア・トルコとの間にそれぞれサン・ジェルマン条約(1919年9月)、トリアノン条約(1920年6月)、ヌイイ条約(1919年11月)、セーブル条約(1920年8月)が締結されました。
尚サン・ジェルマン、トリアノン、ヌイイ、セーブルはパリ近郊の都市名・地名です。

アルザス・ロレーヌの位置
ヴェルサイユ条約は15編440条からなり、その第1編は国際連盟規約で、その主な内容は以下の通りです。
1) ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに割譲。
2) ポーランド回廊をポーランドに割譲。
3) ベルギー・チェコスロヴァキア・リトアニア・ポーランドに若干の領土を割譲。
此処でポーランド回廊とはドイツ本土と東プロイセンの中間地帯で、ポーランドに海への出口を与えるためにポーランド領としたもので、ドイツは本土と東プロイセンが分断される事となりました。
4) ダンチヒは国際連盟管理下の自由市とする。
5) ザール地方も国際連盟管理下に置かれ15年後の住民投票で帰属が決定される。

軍備解体・プロペラを焚付に
この結果、ドイツは戦前の面積・人口の10%以上を失う事となり、更に海外の全植民地も失い、将来のオーストリアとの合併も禁止され、軍備も大幅に制限されました。
1) 徴兵制は禁止。
2) 陸軍は10万、海軍は兵員1万5000・艦艇36隻に制限され、軍用機・潜水艦の保有も禁止。
3)フランス・ドイツ国境での紛争を防止する為、ライン川の東岸50kmの地帯は非武装地帯とされ、ドイツの軍事施設と駐屯は禁止、西岸は連合国が15年間保障占領する事(ラインラントの非武装化)。

敗戦国ドイツのハイパーインフレーション
更にドイツは巨額の賠償金を課せられますが、ヴェルサイユ条約では総額や支払い方式は決定されず、1921年4月のロンドン会議で総額が1320億金マルク(当時天文学的数字と揶揄される)に決定されます。

1918年当時のチロル。
濃灰色の部分がサン=ジェルマン条約によってイタリア王国へ割譲された南チロル
オーストリアはサン・ジェルマン条約によってドイツとの合併を禁止され、旧帝国内のポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ(後のユーゴスラヴィア)の独立を承認し、又「未回収のイタリア」をイタリアに割譲した結果、嘗ての大帝国は一挙にその面積・人口が戦前の約4分の1に減少しました。
ハンガリーはトリアノン条約によってルーマニア、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ、チェコスロヴァキアに領土を割譲して面積は3分の1、人口は5分の2に減少します。
ブルガリアもヌイイ条約によってセルブ・クロアート・スロヴェーヌ、ギリシア、ルーマニアに領土を割譲します。

西アジアの分割
トルコは、イラク、ヨルダン、パレスチナをイギリスの、そしてシリア、レバノンをフランスの委任統治領とする事、ボスフォラス、ダーダネルス両海峡の開放、国際管理、非武装、極端な軍備制限、治外法権の承認等を規定した屈辱的なセーブル条約を承認しました。
この結果、ヨーロッパでは民族自決の原則に従って、旧オーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の領内からフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(1929年にユーゴスラヴィアと改称)が独立を果たしますが、民族自決の原則はヨーロッパ以外には適用されず、アジア・アフリカの人々を失望させました。

バルフォア宣言
トルコに属していた中東地域に関しては、大戦中にアラブ人に独立を約束したフセイン・マクマホン協定(1915年)とユダヤ人に独立を約束したバルフォア宣言(1917年)は共に無視され、イラク、ヨルダン、パレスチナはイギリスの、シリア、レバノンはフランスの委任統治領とされました。
委任統治とは、第一次世界大戦後の敗戦国ドイツ・トルコの領土処分の一形式で、国際連盟から統治を委任される形を取りますが、事実上は領土の再分割で、第一次世界大戦中に日本が占領した南洋諸島も戦後日本の委任統治領となっています(1920年)。

国際連盟本部
パリ講和会議でつくられた戦後の新しい国際秩序はその中心となったドイツとのヴェルサイユ条約からヴェルサイユ体制と呼ばれ、ウィルソンの14カ条に基づいて創設された国際連盟は世界史上最初の本格的国際平和機構で、ヴェルサイユ条約によって規定され、1920年1月10日に正式に発足し、設立時の加盟国数は42カ国でしたが1934年時点では最多の58カ国が加盟していました。本部はスイスのジュネーヴに置かれ、総会・理事会・連盟事務局を中心に運営されました。

国際連盟総会(写真は1933年リットン調査団報告を否定する松岡全権)
総会は国際連盟の最高決議機関で、全加盟国1国1票で構成し、全会一致が原則とされました。
理事会は国際連盟の最高機関の一つで、イギリス、フランス、イタリア、日本の4常任理事国と4非常任理事国(22年から6カ国、26年から9カ国となる)で構成されました。
又国際連盟には国際労働機関(ILO)と国際司法裁判所が設置され、ここでILOは各国内の労働問題の調整機関として勧告や調停を行い、国際司法裁判所はオランダのハーグに常設され、国際紛争の裁判を行ない、その判決には拘束力はありましたが実効性には問題が残っていました。

国際連盟の設立を提言・ウィルソン大統領
国際連盟には多くの問題点・欠点が存在した為、小紛争の調停等には一定の成果を上げますが、大国の関わる紛争解決には非力で在り、最大の問題点はアメリカ・ドイツ・ソヴィエト政権(後のソ連)の大国が不参加又は排除されたことに在り、提唱国のアメリカでは戦後、孤立主義が台頭し、上院でヴェルサイユ条約批准が否決された(1919年11月)為に参加できず、敗戦国のドイツと社会主義のソヴィエト政権は排除され、又武力制裁がなく、経済制裁(経済封鎖)のみであった事、総会の議決が全会一致で意思統一が困難であった事等の問題を抱えていた為、国際連盟は第二次世界大戦を防止することが出来ませんでした。
名言集
If you keep up with the following guidance,
Everyone succeeds.
Be confident.
And do your best to work.
次の心得を守れば十中八九、誰でも成功する。
自信を持つこと。
そして仕事に全力を尽くすことだ。
トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson
続く・・・
1ヴェルサイユ体制の成立

パリ講和会議に於ける各国要人(鏡の間にて)
1919年1月18日、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議が、32カ国の参加のもとに開催されました。
パリ講和会議の基礎となった原則は、アメリカ大統領ウィルソンが大戦中に発表した十四カ条(十四カ条の平和原則)であり、この十四カ条はソヴィエト政権の「平和に関する布告」や秘密外交文書の暴露に対処する形で1918年1月に発表されましたが、その主な条項は秘密外交の廃止・海洋の自由・関税障壁の撤廃・軍備縮小・植民地問題の公正な解決・ヨーロッパ諸民族の民族自決・国際平和機構の設立でした。

第一次世界大戦後のヨーロッパ
この内民族自決の原則とは、各民族は夫々の運命を自ら決定する権利を持ち、又自らの国家を建設できるとする原則で、国際協調主義と共にヴェルサイユ体制を支える重要な原則となりましたが、ヴェルサイユ体制はヨーロッパにのみ適用され、その適用が最も必要であったアジア・アフリカには適用されませんでした。

デイヴィッド・ロイド・ジョージ
( David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor, OM, PC、1863年1月17日 - 1945年3月26日)
パリ講和会議で中心的な役割を果たしたのは五大国(アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本)の代表であり、特にアメリカ大統領ウィルソン(在任期間1913年~21年)・イギリス首相ロイド・ジョージ(同1916年~22年)・フランス首相クレマンソー(同1917年~20年)の三巨頭で、日本首席全権は西園寺公望です。
.jpg)
トーマス・ウッドロウ・ウィルソン
(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)
ウィルソンは理想主義的な十四カ条を講和の原則とし、ドイツを寛大な条件で許すべきと考えましたが、クレマンソーはドイツに対する厳しい制裁とドイツを徹底的に弱体化することを強く主張し、この様な中、ロイド・ジョージはウィルソンの理想主義とクレマンソーの対独復讐の調停役を果たします。
結局、ウィルソンは最大の目的であった国際連盟規約を条約に盛り込む為に譲歩・妥協し、はじめはドイツに対する和解を説いていたロイド・ジョージもイギリス国民の対独敵意に押されてクレマンソーに同調した結果、クレマンソーの主張する対独強硬策が主流となり、十四カ条の原則は部分的にしか実現しませんでした。

ヴェルサイユ条約の調印
1919年6月28日、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間で、連合国とドイツとの間にヴェルサイユ条約が調印され、以後連合国とオーストリア・ハンガリー・ブルガリア・トルコとの間にそれぞれサン・ジェルマン条約(1919年9月)、トリアノン条約(1920年6月)、ヌイイ条約(1919年11月)、セーブル条約(1920年8月)が締結されました。
尚サン・ジェルマン、トリアノン、ヌイイ、セーブルはパリ近郊の都市名・地名です。

アルザス・ロレーヌの位置
ヴェルサイユ条約は15編440条からなり、その第1編は国際連盟規約で、その主な内容は以下の通りです。
1) ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに割譲。
2) ポーランド回廊をポーランドに割譲。
3) ベルギー・チェコスロヴァキア・リトアニア・ポーランドに若干の領土を割譲。
此処でポーランド回廊とはドイツ本土と東プロイセンの中間地帯で、ポーランドに海への出口を与えるためにポーランド領としたもので、ドイツは本土と東プロイセンが分断される事となりました。
4) ダンチヒは国際連盟管理下の自由市とする。
5) ザール地方も国際連盟管理下に置かれ15年後の住民投票で帰属が決定される。

軍備解体・プロペラを焚付に
この結果、ドイツは戦前の面積・人口の10%以上を失う事となり、更に海外の全植民地も失い、将来のオーストリアとの合併も禁止され、軍備も大幅に制限されました。
1) 徴兵制は禁止。
2) 陸軍は10万、海軍は兵員1万5000・艦艇36隻に制限され、軍用機・潜水艦の保有も禁止。
3)フランス・ドイツ国境での紛争を防止する為、ライン川の東岸50kmの地帯は非武装地帯とされ、ドイツの軍事施設と駐屯は禁止、西岸は連合国が15年間保障占領する事(ラインラントの非武装化)。

敗戦国ドイツのハイパーインフレーション
更にドイツは巨額の賠償金を課せられますが、ヴェルサイユ条約では総額や支払い方式は決定されず、1921年4月のロンドン会議で総額が1320億金マルク(当時天文学的数字と揶揄される)に決定されます。

1918年当時のチロル。
濃灰色の部分がサン=ジェルマン条約によってイタリア王国へ割譲された南チロル
オーストリアはサン・ジェルマン条約によってドイツとの合併を禁止され、旧帝国内のポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ(後のユーゴスラヴィア)の独立を承認し、又「未回収のイタリア」をイタリアに割譲した結果、嘗ての大帝国は一挙にその面積・人口が戦前の約4分の1に減少しました。
ハンガリーはトリアノン条約によってルーマニア、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ、チェコスロヴァキアに領土を割譲して面積は3分の1、人口は5分の2に減少します。
ブルガリアもヌイイ条約によってセルブ・クロアート・スロヴェーヌ、ギリシア、ルーマニアに領土を割譲します。

西アジアの分割
トルコは、イラク、ヨルダン、パレスチナをイギリスの、そしてシリア、レバノンをフランスの委任統治領とする事、ボスフォラス、ダーダネルス両海峡の開放、国際管理、非武装、極端な軍備制限、治外法権の承認等を規定した屈辱的なセーブル条約を承認しました。
この結果、ヨーロッパでは民族自決の原則に従って、旧オーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の領内からフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(1929年にユーゴスラヴィアと改称)が独立を果たしますが、民族自決の原則はヨーロッパ以外には適用されず、アジア・アフリカの人々を失望させました。

バルフォア宣言
トルコに属していた中東地域に関しては、大戦中にアラブ人に独立を約束したフセイン・マクマホン協定(1915年)とユダヤ人に独立を約束したバルフォア宣言(1917年)は共に無視され、イラク、ヨルダン、パレスチナはイギリスの、シリア、レバノンはフランスの委任統治領とされました。
委任統治とは、第一次世界大戦後の敗戦国ドイツ・トルコの領土処分の一形式で、国際連盟から統治を委任される形を取りますが、事実上は領土の再分割で、第一次世界大戦中に日本が占領した南洋諸島も戦後日本の委任統治領となっています(1920年)。

国際連盟本部
パリ講和会議でつくられた戦後の新しい国際秩序はその中心となったドイツとのヴェルサイユ条約からヴェルサイユ体制と呼ばれ、ウィルソンの14カ条に基づいて創設された国際連盟は世界史上最初の本格的国際平和機構で、ヴェルサイユ条約によって規定され、1920年1月10日に正式に発足し、設立時の加盟国数は42カ国でしたが1934年時点では最多の58カ国が加盟していました。本部はスイスのジュネーヴに置かれ、総会・理事会・連盟事務局を中心に運営されました。

国際連盟総会(写真は1933年リットン調査団報告を否定する松岡全権)
総会は国際連盟の最高決議機関で、全加盟国1国1票で構成し、全会一致が原則とされました。
理事会は国際連盟の最高機関の一つで、イギリス、フランス、イタリア、日本の4常任理事国と4非常任理事国(22年から6カ国、26年から9カ国となる)で構成されました。
又国際連盟には国際労働機関(ILO)と国際司法裁判所が設置され、ここでILOは各国内の労働問題の調整機関として勧告や調停を行い、国際司法裁判所はオランダのハーグに常設され、国際紛争の裁判を行ない、その判決には拘束力はありましたが実効性には問題が残っていました。

国際連盟の設立を提言・ウィルソン大統領
国際連盟には多くの問題点・欠点が存在した為、小紛争の調停等には一定の成果を上げますが、大国の関わる紛争解決には非力で在り、最大の問題点はアメリカ・ドイツ・ソヴィエト政権(後のソ連)の大国が不参加又は排除されたことに在り、提唱国のアメリカでは戦後、孤立主義が台頭し、上院でヴェルサイユ条約批准が否決された(1919年11月)為に参加できず、敗戦国のドイツと社会主義のソヴィエト政権は排除され、又武力制裁がなく、経済制裁(経済封鎖)のみであった事、総会の議決が全会一致で意思統一が困難であった事等の問題を抱えていた為、国際連盟は第二次世界大戦を防止することが出来ませんでした。
名言集
If you keep up with the following guidance,
Everyone succeeds.
Be confident.
And do your best to work.
次の心得を守れば十中八九、誰でも成功する。
自信を持つこと。
そして仕事に全力を尽くすことだ。
トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson
続く・・・
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