歴史を歩く191
41ヴェルサイユ体制下の欧米⑥
6ドイツ共和国

民衆を前に演説するローザ・ルクセンブルク
帝政が崩壊して共和国となったドイツでは、社会民主党を中心とする臨時政府が政権を掌握しますが、社会主義革命を目ざす独立社会民主党やスパルタクス団との対立が激しくなっており、独立社会民主党は1917年に社会民主党内の反戦派が結成した革命政党で、スパルタクス団は社会民主党最左派のカール・リープクネヒト(1871年~1919年)、ローザ・ルクセンブルク(1870年~1919年、ドイツの女性革命家)らが結成した急進的革命組織で、1918年末から1919年初めに他のグループとドイツ共産党を結成しました。

ベルリンで武装抵抗する革命派
1919年1月初め、スパルタクス団が武装蜂起しますが(ドイツ革命、1918年11月3日~1919年1月)、社会民主党を中心とする臨時政府は軍部と結んでこれを鎮圧すると共に、この蜂起に参加したカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは共に殺害され、同年1月に行われた国民議会選挙では社会民主党が第一党となり、翌2月にヴァイマル(ワイマール)で国民議会が開かれました。

ワイマール共和国誕生の地、国民劇場
ヴァイマル国民議会はヴェルサイユ条約を承認し、ドイツ共和国憲法(通称ヴァイマル憲法)を採択・公布します(1919年8月公布)。
ヴァイマル憲法は、主権在民・男女平等の普通選挙・労働者の団結権と団体交渉権の保障・7年任期の大統領制等が規定され、当時の世界で最も民主的な憲法であり、社会権(生存権)を初めて取り入れた憲法として有名です。
又ヴァイマル国民議会では、社会民主党のエーベルト(1871年~1925年、在任1919年~25年)が臨時大統領に選出され(1922年に正式の初代大統領となる)、ドイツ共和国の基礎が定まり、ヴァイマル憲法の制定からナチスの政権獲得迄のドイツ共和国はヴァイマル共和国(1919年~1933年)と呼ばれています。

占領下の街頭
こうして発足したヴァイマル共和国は、巨額な賠償金の支払いや左右両派からの攻撃に苦しみ、政局は安定せず、特に敗戦国ドイツの能力を遥かに超える賠償金の支払いは、国民生活を極度に圧迫し、その為ドイツは連合国に賠償金支払いの猶予を要請しますが、フランスは強硬に反対し、1923年1月ベルギーと共にルール占領を行いますが、これに対してドイツはストライキで抵抗したため(消極的抵抗)、生産が低下して激しいインフレに陥ります。

ハイパーインフレーション. 1000パピエルマルク紙幣。赤字で10億マルクの額面が加刷されている(Wikipediaより)
1914年7月には1ドル=4.2マルク、1922年7月には1ドル=493.2マルクになっていましたが、ルール占領が始まった1923年1月には1ドル=17972マルクとなり、9月には98860000マルクとなり、1923年11月にはついに1ドル=4200000000000マルク迄ハイパーインフレーションは進行します。
この破局的なインフレによってマルクの価値は1兆分の1に下落し、マルクは紙くず同然となり、給料生活者の生活は破滅状態となりました。
こうした状況の中でヒトラーによるミュンヘン一揆(1923年11月、ナチスによるクーデター)も発生しますが鎮圧されています。

グスタフ・シュトレーゼマン(Gustav Stresemann、1878年5月10日 - 1929年10月3日)
このドイツの危機の中で首相となったシュトレーゼマン(1878年~1929年、在任1923年)は通貨の安定・経済の再建に努め、彼はレンテンマルク(不動産を担保とする不換紙幣)を発行し、1兆マルクを1レンテンマルクと交換し、奇跡的にインフレを克服することに成功しました。
同年首相を辞任したシュトレーゼマンは、その後歴代内閣の外相を務め、英・仏との協調外交を推進し、ドーズ案の成立(1924年)・ロカルノ条約の調印(1925年)・ドイツの国際連盟加入(1926年)等に尽力し、ノーベル平和賞を受賞しています(1926年)。

チャールズ・ゲーツ・ドーズ (Charles Gates Dawes, 1865年8月27日 - 1951年4月23日)
未曾有のインフレによってドイツ経済が破綻する中で、アメリカの実業家・財政家ドーズ(1865年~1951年)を長とする専門委員会がドイツの賠償金問題に関するドーズ案を作成し(1924年4月)、ドイツの賠償金支払いの負担を当面軽減し、ドイツに巨額の外資(主にアメリカ資本)を貸与してドイツ経済を復興することを決定し、ドーズ案の成立によってフランスはルールから撤兵しました(1925年)。

賠償金支払と戦時債権償還の概念
ドーズ案は、ドイツ経済を復興して賠償金支払いを可能にし、ドイツから賠償金を受け取ったフランス・イギリス(フランスは52%を、イギリスは23%を受け取る)にそれを対米債務の返済に充てさせ、国際経済を回復させようとするものでした。
ドーズ案によってドイツ経済は復興し、1925~26年頃には戦前の水準を回復しました。

パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク
(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg、1847年10月2日 - 1934年8月2日)
1925年に大統領のエーベルトが急死し、保守派と軍部に推されたヒンデンブルク(1847年~1934年、在任1925年~34年、第一次世界大戦中のタンネンベルクの戦いの勝利によって国民的英雄となった将軍)が大統領選に圧勝して大統領に就任しました。
ヒンデンブルクは、当初シュトレーゼマンの協調外交を支持しますが、世界恐慌に対処できず、1932年に再選されましたが、翌1933年にヒトラーに組閣を許す結果となります。

オーウェン・D・ヤング(Owen D. Young、1874年10月27日 - 1962年7月11日)
この間、賠償金問題については、アメリカの財政家ヤング(1874年~1962年)を長とする第2回専門委員会が1929年6月にヤング案を作成し、賠償総額を約358億金マルクに削減し、支払期間は59年間に緩和されましたが、このヤング案は世界恐慌の激化と共に実施不可能となり、1932年にローザンヌ会議で修正されて賠償総額は30億金マルクに迄引き下げられましたが、翌1933年に成立したヒトラー内閣はこれを破棄します。
名言集
"Power is something to give, if one robs you not to take away it will be burned down"(英語)
"Macht ist etwas zu geben, wenn man dich beraubt, es nicht wegzunehmen, wird es niedergebrannt"’(ドイツ語)
「権力は授かるもの、奪うものではない無理に奪いとればその者は焼き尽くされる」
パウル・フォン・ヒンデンブルク
続く・・・
6ドイツ共和国

民衆を前に演説するローザ・ルクセンブルク
帝政が崩壊して共和国となったドイツでは、社会民主党を中心とする臨時政府が政権を掌握しますが、社会主義革命を目ざす独立社会民主党やスパルタクス団との対立が激しくなっており、独立社会民主党は1917年に社会民主党内の反戦派が結成した革命政党で、スパルタクス団は社会民主党最左派のカール・リープクネヒト(1871年~1919年)、ローザ・ルクセンブルク(1870年~1919年、ドイツの女性革命家)らが結成した急進的革命組織で、1918年末から1919年初めに他のグループとドイツ共産党を結成しました。

ベルリンで武装抵抗する革命派
1919年1月初め、スパルタクス団が武装蜂起しますが(ドイツ革命、1918年11月3日~1919年1月)、社会民主党を中心とする臨時政府は軍部と結んでこれを鎮圧すると共に、この蜂起に参加したカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは共に殺害され、同年1月に行われた国民議会選挙では社会民主党が第一党となり、翌2月にヴァイマル(ワイマール)で国民議会が開かれました。

ワイマール共和国誕生の地、国民劇場
ヴァイマル国民議会はヴェルサイユ条約を承認し、ドイツ共和国憲法(通称ヴァイマル憲法)を採択・公布します(1919年8月公布)。
ヴァイマル憲法は、主権在民・男女平等の普通選挙・労働者の団結権と団体交渉権の保障・7年任期の大統領制等が規定され、当時の世界で最も民主的な憲法であり、社会権(生存権)を初めて取り入れた憲法として有名です。
又ヴァイマル国民議会では、社会民主党のエーベルト(1871年~1925年、在任1919年~25年)が臨時大統領に選出され(1922年に正式の初代大統領となる)、ドイツ共和国の基礎が定まり、ヴァイマル憲法の制定からナチスの政権獲得迄のドイツ共和国はヴァイマル共和国(1919年~1933年)と呼ばれています。

占領下の街頭
こうして発足したヴァイマル共和国は、巨額な賠償金の支払いや左右両派からの攻撃に苦しみ、政局は安定せず、特に敗戦国ドイツの能力を遥かに超える賠償金の支払いは、国民生活を極度に圧迫し、その為ドイツは連合国に賠償金支払いの猶予を要請しますが、フランスは強硬に反対し、1923年1月ベルギーと共にルール占領を行いますが、これに対してドイツはストライキで抵抗したため(消極的抵抗)、生産が低下して激しいインフレに陥ります。

ハイパーインフレーション. 1000パピエルマルク紙幣。赤字で10億マルクの額面が加刷されている(Wikipediaより)
1914年7月には1ドル=4.2マルク、1922年7月には1ドル=493.2マルクになっていましたが、ルール占領が始まった1923年1月には1ドル=17972マルクとなり、9月には98860000マルクとなり、1923年11月にはついに1ドル=4200000000000マルク迄ハイパーインフレーションは進行します。
この破局的なインフレによってマルクの価値は1兆分の1に下落し、マルクは紙くず同然となり、給料生活者の生活は破滅状態となりました。
こうした状況の中でヒトラーによるミュンヘン一揆(1923年11月、ナチスによるクーデター)も発生しますが鎮圧されています。

グスタフ・シュトレーゼマン(Gustav Stresemann、1878年5月10日 - 1929年10月3日)
このドイツの危機の中で首相となったシュトレーゼマン(1878年~1929年、在任1923年)は通貨の安定・経済の再建に努め、彼はレンテンマルク(不動産を担保とする不換紙幣)を発行し、1兆マルクを1レンテンマルクと交換し、奇跡的にインフレを克服することに成功しました。
同年首相を辞任したシュトレーゼマンは、その後歴代内閣の外相を務め、英・仏との協調外交を推進し、ドーズ案の成立(1924年)・ロカルノ条約の調印(1925年)・ドイツの国際連盟加入(1926年)等に尽力し、ノーベル平和賞を受賞しています(1926年)。

チャールズ・ゲーツ・ドーズ (Charles Gates Dawes, 1865年8月27日 - 1951年4月23日)
未曾有のインフレによってドイツ経済が破綻する中で、アメリカの実業家・財政家ドーズ(1865年~1951年)を長とする専門委員会がドイツの賠償金問題に関するドーズ案を作成し(1924年4月)、ドイツの賠償金支払いの負担を当面軽減し、ドイツに巨額の外資(主にアメリカ資本)を貸与してドイツ経済を復興することを決定し、ドーズ案の成立によってフランスはルールから撤兵しました(1925年)。

賠償金支払と戦時債権償還の概念
ドーズ案は、ドイツ経済を復興して賠償金支払いを可能にし、ドイツから賠償金を受け取ったフランス・イギリス(フランスは52%を、イギリスは23%を受け取る)にそれを対米債務の返済に充てさせ、国際経済を回復させようとするものでした。
ドーズ案によってドイツ経済は復興し、1925~26年頃には戦前の水準を回復しました。

パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク
(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg、1847年10月2日 - 1934年8月2日)
1925年に大統領のエーベルトが急死し、保守派と軍部に推されたヒンデンブルク(1847年~1934年、在任1925年~34年、第一次世界大戦中のタンネンベルクの戦いの勝利によって国民的英雄となった将軍)が大統領選に圧勝して大統領に就任しました。
ヒンデンブルクは、当初シュトレーゼマンの協調外交を支持しますが、世界恐慌に対処できず、1932年に再選されましたが、翌1933年にヒトラーに組閣を許す結果となります。

オーウェン・D・ヤング(Owen D. Young、1874年10月27日 - 1962年7月11日)
この間、賠償金問題については、アメリカの財政家ヤング(1874年~1962年)を長とする第2回専門委員会が1929年6月にヤング案を作成し、賠償総額を約358億金マルクに削減し、支払期間は59年間に緩和されましたが、このヤング案は世界恐慌の激化と共に実施不可能となり、1932年にローザンヌ会議で修正されて賠償総額は30億金マルクに迄引き下げられましたが、翌1933年に成立したヒトラー内閣はこれを破棄します。
名言集
"Power is something to give, if one robs you not to take away it will be burned down"(英語)
"Macht ist etwas zu geben, wenn man dich beraubt, es nicht wegzunehmen, wird es niedergebrannt"’(ドイツ語)
「権力は授かるもの、奪うものではない無理に奪いとればその者は焼き尽くされる」
パウル・フォン・ヒンデンブルク
続く・・・
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