2018/05/27

歴史を歩く194

42アジアの情勢

1日本の動向

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青島要塞を砲撃する四五式二十糎榴弾砲

 日本は、第一次世界大戦が始まると日英同盟に基づき、ドイツに宣戦を布告し(1914年8月)、中国に於けるドイツ租借地膠州湾を攻撃し、ドイツ東洋艦隊の根拠地であった青島を占領(1914年11月)、又太平洋上の赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領します(1914年10月)。

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大戦景気の日本 上野公園観桜之光景 大正7年

 日本は連合国へ物資を供給し、戦争で途絶えたヨーロッパ諸国の商品に換わって日本の商品が、中国・インド・東南アジア等に進出した結果、日本は輸出超過に転じ、鉱業・造船・化学を中心とする工業も発展し、工業生産高は1914~19年の間に約5倍と成り、世界的な船舶不足の中で海運業が莫大な利益をあげて多くの「船成金」が生まれ、日本経済は大戦景気を謳歌しました。

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「二十一カ条の要求」東京朝日新聞(第10350号)

 この間、日本は第一次世界大戦の勃発によって列強が中国を顧みる余裕がないこの時に乗じて大陸での勢力拡大を積極的に進め、1915年(大正4年)1月18日に中国の袁世凱政府に対して「二十一カ条の要求」を突き付けます。

二十一カ条の要求は、5号21カ条から成り、その主な内容は以下の通りです。
 第1号(山東省に関する件) 山東省のドイツの権益を日本に譲渡すること。
 第2号(南満州及び東部内蒙古に関する件) 旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道・安奉鉄道の権益期限をさらに99年延長すること。
 第3号(漢冶萍公司に関する件) 漢冶萍公司(かんやひょうコンス、漢陽鉄廠・大冶鉄山・萍郷炭坑を統合した株式会社)を日中両国の合弁とすること。
 第4号(港湾島嶼不割譲に関する件) 中国沿岸の港湾と島嶼を他国に譲与または貸与しないこと
 第5号(中国一般に関する件) 中央政府の政治・財政・軍事の顧問として日本人を招聘すること、又要地の警察を日中合同とするか警察官庁に日本人を招聘すること。

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中国の21カ条要求の受け入れについて伝えた1915年5月10日の記事

 日本は、要求提出後25回の交渉の後、5月7日に第5号を削除して最後通牒を発し、5月9日終に中華民国政府に受諾させました。
中国では二十一カ条の要求の報せが伝わると各地で反対運動が起こり、中国人の対日感情は急激に悪化し、5月7日と9日を国恥記念日として以後毎年デモ等の反日民族運動が展開される事と成ります。

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帝国陸軍ウラジオストク上陸(救露討独遠征軍画報)

 1917年のロシア革命によってソヴィエト政権が誕生すると、日本は1918年8月にシベリア出兵を強行、対ソ干渉戦争に加わって各地で反革命軍を援助し、米・英・仏が撤退した後も日本だけが駐兵して内外から激しい非難を受け、1922年に撤兵を完了しました。

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南洋諸島

 日本は第一次世界大戦のパリ講和会議では、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を委任統治領として獲得し、更に1920年に発足した国際連盟では常任理事国となって国際的な地位を向上させますが、ワシントン会議(1921年~22年)で九カ国条約・四カ国条約が成立すると、中国における特殊権益と独占的な地位は否定され、山東省の旧ドイツの利権も中国に返還を余儀なくされ、又石井・ランシング協定と日英同盟は破棄されました。

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関東大震災後の東京・日本橋、橋向こうの左側、三越本館。

 国内では、1918年(大正7年)には米騒動が起こり、1920年には戦後恐慌が発生、更に1923年には関東大震災が起こって日本経済は大打撃を受け、不況は更に深刻となって行きます。
又戦後、自由主義・民主主義的風潮が高まり(大正デモクラシー)、労働運動も活発化、社会主義思想も広まる状況の中で、1918年には最初の本格的な政党内閣である原敬内閣(1918年~21年)が成立し、1925年5月には男子普通選挙法が公布され、今迄の納税資格が撤廃されて25歳以上の男子に選挙権が、30歳以上の男子に被選挙権が与えられました。

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治安維持法議会通過を告げる新聞記事

 しかし、男子普通選挙法の成立直前には治安維持法(1925年4月公布)が成立しており、治安維持法は、ソ連の承認(1925年)後に社会主義運動が活発化する事、及び男子普通選挙法の実施に対する警戒から、労働運動や社会主義運動の取締りを目的とする法律で、後に罰則に死刑が加えられ、言論・思想弾圧が大東亜戦争終結迄、国民を監視する結果と成りました。

名言集

Happiness is not in happiness, but only at the moment of happiness.

Счастье не в счастье, а только в момент счастья.

幸福は、幸福の中にあるのではなく、幸福を手に入れた瞬間にこそある。

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
(Фёдор Миха́йлович Достое́вский)

続く・・・


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2018/05/19

歴史を歩く193

41ヴェルサイユ体制下の欧米⑧

8ソ連

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ウラジーミル・イリイチ・レーニン
(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日 – 1924年1月21日)


 1922年に成立したソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)では、1924年にレーニンが死去すると後継者と社会主義建設の路線を廻って政争が起こります。

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レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー
(Лев Давидович Троцкий、1879年10月26日 - 1940年8月21日)


 革命後に外務人民委員(外務大臣)・陸海軍人民委員を務めてレーニンの後継者と目されていたトロッキー(1879年~1940年)は、ロシアの様な後進国では社会主義建設は孤立しては不可能であり、先進国の革命が必要であるとする世界革命論(永久革命論)を唱えました。

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ゴールキのダーチャで病気療養中のレーニンを訪れたスターリン

 これに対して革命後に民族人民委員となり、1922年に党中央委員会書記長となったスターリン(1879年~1953年)は、ソ連の様な広大な国家では一国だけでも社会主義建設は可能であるという一国社会主義論を唱え、トロッキーの世界革命論(永久革命論)とスターリンの一国社会主義論を廻る激しい論争が続き、1925年12月に開かれた共産党大会では スターリンの唱える一国社会主義論が採択された結果、党内論争に敗れたトロッキーは1927年に共産党を除名され、1929年には国外追放となります。

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メキシコにてアメリカ人の同志とともに

 トロッキーはトルコ等を経てメキシコに亡命し、ソ連批判・スターリン批判を続けますが、1940年にメキシコで暗殺されました。
 一国社会主義を唱えて論争に勝利したスターリンは、トロッキー・ジノヴィエフ・ブハーリン等反対派を退け、1920年代末迄には党と政府の実権を掌握し、この間、スターリンは、1928年に新経済政策(NEP、ネップ)を改めて、第1次五カ年計画(1928年~32年)に着手、重工業に重点をおく工業化と農業の集団化を推し進めたのでした。

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5カ年計画を4年で終わらせよう!

 資本主義諸国が世界恐慌で工業生産を激減させる中で、ソ連だけは世界恐慌の影響を殆ど受ける事無く、五カ年計画による工業化は当初の計画を上回るテンポで進み、工業生産は5年間で倍増し、ソ連は工業国と成り、又農業の分野でも集団化と機械化が急速に進み、コルホーズ(集団農場、土地・農具等を共有して共同経営を行い、農民は労働量に応じて利益の分配を受ける形態)やソフホーズ(国営農場、土地・農具等は国有で、働く者は労働者として賃金が支給される形態)の建設が推進されます。

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コルフォーズ、プロパガンダポスター

 農業の集団化に対しては特にクラーク(富農)の抵抗が強く、政府はクラークを投獄・流刑に処して集団化を強行し、1932年~33年には飢饉が猛威をふるい、約500万人の餓死者を出したと云われています。
 第1次五カ年計画の成功によって権力を強化したスターリンは、更に1933年には引き続いて第2次五カ年計画(1933年~37年)に取り組み、重工業、特に軍需工業に重点が置かれると共に消費財の生産増大による国民生活の向上が図られました。
 そして1938年に始まった第3次五カ年計画(1938年~42年)では、ナチスの台頭に備えて工業地帯をウラル・シベリアに移設し、軍備の増強を目ざしましたが、ヒトラーが独ソ不可侵条約を破棄して独ソ戦(バルバロッサ作戦)の開始(1941年6月)によって中断されました。

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スターリン時代のシベリア抑留地(ラーゲリ)

 この間、スターリンは1930年代の大粛清(1934年~37年)で反対派を大量に処刑・流刑(強制収容所に収容)に処して独裁権を掌握し、1936年にはソヴィエト社会主義共和国連邦憲法、所謂スターリン憲法を制定しました。
 スターリン憲法は「各人からその能力に応じて、各人へその労働に応じて」とする社会主義の原則を成文化したもので、生産手段の公有・生存権の保障・民族の平等・18歳以上の男女普通選挙等が規定された典型的な社会主義憲法として1977年迄存続しますが、候補者推薦制や共産党一党独裁は変わらず、民族平等や信教の自由等は憲法の規定されているにも係わらず、保障されていませんでした。

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コミンテルン第7回大会

 対外的には、ソ連は1933年にはアメリカに承認され、翌1934年に国際連盟に加入して常任理事国と成り、又ソ連共産党を中心とするコミンテルン(第3インターナショナル)は、1935年にモスクワで開かれたコミンテルン第7回大会でファシズムの台頭に対抗する為に人民戦線戦術へ転換し、ファシズムと戦争に反対する全勢力と組織を結集した、ファシズム人民戦線の結成を各国共産党に呼びかけます。

名言集

”I will not let you restore forever.
Bring it back for a while and push the knife gently against the back when appropriate.”

Я не позволю тебе восстановить навсегда.
Верните его на некоторое время и осторожно нажмите на нож против спины.

いつまでも復位させることはない。
しばらく連れ戻しておいて、適当なときに背中にそっとナイフを突き立てればよいのさ。

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン
( Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин,)


続く・・・

2018/05/02

歴史を歩く192

41ヴェルサイユ体制下の欧米⑦

7東・南欧諸国の情勢

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1924年時のヨーロッパ

 第一次世界大戦後、東・南欧には民族自決の原則に従ってポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国と多くの新興国が誕生しました。

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ユゼフ・ピウスツキ(Józef Klemens Piłsudski、 1867年12月5日 - 1935年5月12日)

 ポーランドは、1918年11月にポーランド共和国として独立を宣言し、それまで独立のために戦ってきたピウスツキ(1867年~1935年、在任1918年~22年)が初代大統領に就任し、ピウスツキは憲法制定に着手すると共に、ソヴィエト・ポーランド戦争(1920年~21年)ではフランスの援助を得てソヴィエト軍を撃破、ウクライナ・白ロシアの一部を獲得しています。

 ピウスツキは1922年の政争で辞任しましたが、1926年には軍部のクーデターで再び政権を掌握、首相・陸相を兼任して1935年に死去するまで独裁的な権力を握ります。

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トマーシュ・ガリッグ・マサリク(Tomáš Garrigue Masaryk, 1850年3月7日 - 1937年9月14日)

 チェコスロヴァキアでは、1918年10月にチェコスロヴァキア共和国が成立するとマサリクが初代大統領に選ばれ、「チェコ建国の父」と呼ばれるマサリク(1850年~1937年、在任1918年~35年)は、プラハ大学教授として哲学の教鞭を取る一方でチェコの民族独立運動に加わり、チェコ進歩党を組織しますが、第一次世界大戦が起こると亡命し、ベネシュ等と「チェコ国民会議」を設立、英・仏等連合国の支持によるチェコの独立を説きました。

チェコスロヴァキア共和国が成立すると初代大統領に選ばれ(1918年10月)、以後連続4期17年間その地位に在りました。

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エドヴァルド・ベネシュ(Edvard Beneš, 1884年5月28日 - 1948年9月3日)

 マサリクと共にチェコの独立運動に努めたベネシュ(1884年~1948年)は、1918年に外相に就任、1935年には大統領の地位に就きますが、1938年ミュンヘン協定の成立で亡命し、第二次世界大戦後の1946年に再び大統領と成ります。

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チェコスロバキア(ベーメン(ボヘミア))の位置

 チェコスロヴァキアは、ベーメン(ボヘミア)を中心に工業が発達していた為、独立後も工業が発展し、殆どが農業国である東・南欧の中にあって唯一の工業国として高い生活水準と社会的安定を維持することが出来、又チェコスロヴァキアは他の多くの東・南欧諸国が独裁体制下に入る中で議会政治を守り通した唯一の国でも在りました。

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クン・ベーラ(Kun Béla, 1886年2月20日 - 1939年11月29日)

 ハンガリーでは、1918年11月に共和国宣言がなされますが、敗戦直後から連合国の厳しい領土割譲要求に苦しむ中で、一時ソヴィエト政権が成立しました。
クン・ベーラ(1886年~1937年)は第一次世界大戦中にロシア軍の捕虜となり、共産主義者となって帰国し、ハンガリー共産党・社会党を指導して1919年3月にハンガリー・ソヴィエト共和国の樹立を宣言して首相に就任しまが、クン・ベーラ政権は5ヶ月も持たず、フランスの支援するルーマニア軍の軍事干渉によって打倒されました(1919年8月)。

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ブダペスト市内のルーマニア騎兵

 ルーマニア軍が撤退すると(1920年2月)、ホルティ(1869年~1959年、ハンガリーの軍人・政治家)が王政を復活させ、ハンガリー王国摂政となって(1920年)独裁権力を掌握します。
ホルティは後にナチスに協力し、1944年に失脚して亡命する結果と成ります。

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セルブ=クロアート=スロヴェーン王国

 南スラヴ族のセルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人が大同団結したセルブ=クロアート=スロヴェーン王国は、1918年12月にオーストリアからの独立を宣言し、サン・ジェルマン条約(1919年)で正式に承認されますが、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国ではセルビア人を中心とする集権的国家に対してクロアティア人・スロヴェニア人が連邦制を主張した為に内紛が絶えず、1929年には国王が独裁制を宣言して憲法を停止し、議会を解散、同年10月には国名をユーゴスラヴィアと改称します。

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トランシルヴァニアを占領するルーマニア軍

 この時イギリスとフランスは東欧を共産主義ソヴィエトへの防壁とする為、戦後の復興に対して経済援助を行うとともに軍事援助を行い、特にフランスは、ハンガリー・ソヴィエト政権に対するルーマニアの軍事干渉(1919年)を支援し、又ソヴィエト・ポーランド戦争(1920年~21年)ではポーランドを援助し、フランス・ポーランド同盟条約(1921年)を締結、更に1924年にはチェコスロヴァキアと相互援助条約を結び、1927年にはユーゴスラヴィアとも同盟条約を締結します。

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小協商

 チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィア・ルーマニアの三国は、直接的にはハンガリーの領土回復に備えて、相互に同盟条約を締結し(チェコ・ユーゴ同盟条約(1920年)、ルーマニア・チェコ同盟条約(1921年)、ルーマニア・ユーゴ同盟条約(1921年))、この三国の同盟関係は小協商(1920年~39年)と呼ばれていますが、フランスは小協商と結んでドイツの復興を警戒すると共に東欧に足場を築く事を画策しますが、小協商はナチスの台頭によって解体します。

名言集

”Looking at the state of elderly people in that country, we can understand the culture situation of that country.”

その国の高齢者の状態を見ると、その国の文化の状況がわかる。

ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル
( Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)


続く・・・