歴史を歩く197
42アジアの情勢④
4国共の合作と分離(その1)

レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン(Лев Михайлович Карахан、1889年1月20日 - 1937年9月20日)
五・四運動を出発点として反日・反帝国主義運動が広まる中、ソヴィエト政府は外務人民委員代理カラハン(1889年~1937年)の名で、帝政ロシア時代の対中国不平等条約を破棄するというカラハン宣言を発し(1919年7月)、同宣言は中国国民から熱狂的な歓迎を受け、各界に大きな反響を呼び起こしました。

陳独秀、1879年10月8日-1942年5月27日
1921年7月には、上海で陳独秀を委員長として中国共産党が結成され、1924年6月、中国はソ連との国交を回復し、この間、アメリカの主導の下で開かれたワシントン会議(1921年~22年)で中国に関する九カ国条約が結ばれ、又この会議と並行して行われた日中間の直接交渉によって山東懸案に関する条約が調印されて(1922年2月)山東の旧ドイツの利権が中国に返還された結果、日本の中国進出は二十一カ条の要求以前の状態に後退します。

段祺瑞(左)と馮国璋
その頃、中国では軍閥戦争が激化し、安直戦争(1920年)では、米英をバックにした曹錕・呉佩孚等の直隷派が奉天派の張作霖と結んで、日本の支援を受けた段祺瑞(だんきずい、1865年~1936年)等の安徽派に勝利し、北京には奉直連合政権が成立しますが、その後直隷派と奉天派の抗争が激化して奉直戦争が勃発、第1次奉直戦争(1922年)では呉佩孚の率いる直隷派が圧勝しますが、第2次奉直戦争(1924年)では奉天派・安徽派を中心とする反直隷派が直隷派を破り、北京には段祺瑞を執政とする安徽派・奉天派・国民軍の連立政権が成立します(1924年11月)。

国共合作
一方、広州を中心に北京の軍閥政府に対抗していた孫文は、ロシア革命の成功に感銘を受け、ソ連に接近しました。
孫文は1923年1月にソ連の外交官ヨッフェ(1883年~1927年)と会談し、中国の統一と独立の為に国共合作(国民党と共産党の協力体制)を進めるとの共同宣言を発表し、1924年1月、広州で開かれた中国国民党第1回全国代表大会(一全大会)で「連ソ・容共・扶助工農」(ソ連と提携し、共産主義を受け容れ、労働者と農民を支援するの意味)の三大政策を発表します。

黄埔軍官学校
孫文はこの方針に従って国民党を改組し、共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認め、これによって第1次国共合作(1924年1月~27年7月)が成立しました。
更に大会では国民革命軍の育成が決定され、黄埔軍官学校が設立され(1924年6月)、校長にはソ連留学から帰ったばかりの蒋介石が任じられます。

中山紀念堂の孫文像
反帝国主義・打倒軍閥・反封建主義の国民革命を目ざした孫文は、第2次奉直戦争後の時局収拾の為に北京に赴きますが(1924年12月)、1925年3月に「革命未だ成らず」の遺言を残して北京で客死しました。
尚、この北京への途上で神戸に立ち寄った孫文は、有名な「大アジア主義」と題する講演を行い、中国のみならず全アジアの被圧迫民族の解放に力を貸すことが日本の進むべき道であると訴えて大きな感銘を与えたのでした。

1925年5月30日、南京路に集った学生市民労働者たち
孫文の死から2ヶ月後、上海で五・三〇事件と呼ばれる反帝国主義運動が勃発、その発端となったのは、5月15日に日本人が経営する上海の紡績工場で中国人労働者が射殺された事件でした。
1925年5月30日、約2000人の学生が上海の租界で労働者の射殺に抗議するデモを行い、それに対してイギリス警官隊は多くの学生を逮捕すると共に、抗議に集まった1万人以上の学生・労働者に発砲し、多数の死傷者を出します。
この事件が五・三〇事件です。

五・三〇事件を風刺した当時の プロパガンダポスター
この五・三〇事件に抗議して、6月1日から上海全市の労働者・学生・商人がゼネストに入ると、反帝国主義運動は忽ち全国の主要都市に広まり、各地で衝突が起こり、流血事件が頻発します。
五・三〇運動は、9月に入ると大部分の地方では収まりますが、この運動では五・四運動の時の学生に代わって労働者階級が先鋒を務めました。
このことは以後の中国の民族運動に大きな影響を及ぼし、反帝国主義運動が全国に広まる中で、国民党は1925年7月に広州で中華民国国民政府(国民政府、広東政府)の樹立を宣言し、国民革命軍も組織されが、国民党内部ではこの頃既に左右の対立が深まって行く事になります。
名言集
革命至今不成
革命いまだ成らず。
孫文
続く・・・
4国共の合作と分離(その1)

レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン(Лев Михайлович Карахан、1889年1月20日 - 1937年9月20日)
五・四運動を出発点として反日・反帝国主義運動が広まる中、ソヴィエト政府は外務人民委員代理カラハン(1889年~1937年)の名で、帝政ロシア時代の対中国不平等条約を破棄するというカラハン宣言を発し(1919年7月)、同宣言は中国国民から熱狂的な歓迎を受け、各界に大きな反響を呼び起こしました。

陳独秀、1879年10月8日-1942年5月27日
1921年7月には、上海で陳独秀を委員長として中国共産党が結成され、1924年6月、中国はソ連との国交を回復し、この間、アメリカの主導の下で開かれたワシントン会議(1921年~22年)で中国に関する九カ国条約が結ばれ、又この会議と並行して行われた日中間の直接交渉によって山東懸案に関する条約が調印されて(1922年2月)山東の旧ドイツの利権が中国に返還された結果、日本の中国進出は二十一カ条の要求以前の状態に後退します。

段祺瑞(左)と馮国璋
その頃、中国では軍閥戦争が激化し、安直戦争(1920年)では、米英をバックにした曹錕・呉佩孚等の直隷派が奉天派の張作霖と結んで、日本の支援を受けた段祺瑞(だんきずい、1865年~1936年)等の安徽派に勝利し、北京には奉直連合政権が成立しますが、その後直隷派と奉天派の抗争が激化して奉直戦争が勃発、第1次奉直戦争(1922年)では呉佩孚の率いる直隷派が圧勝しますが、第2次奉直戦争(1924年)では奉天派・安徽派を中心とする反直隷派が直隷派を破り、北京には段祺瑞を執政とする安徽派・奉天派・国民軍の連立政権が成立します(1924年11月)。

国共合作
一方、広州を中心に北京の軍閥政府に対抗していた孫文は、ロシア革命の成功に感銘を受け、ソ連に接近しました。
孫文は1923年1月にソ連の外交官ヨッフェ(1883年~1927年)と会談し、中国の統一と独立の為に国共合作(国民党と共産党の協力体制)を進めるとの共同宣言を発表し、1924年1月、広州で開かれた中国国民党第1回全国代表大会(一全大会)で「連ソ・容共・扶助工農」(ソ連と提携し、共産主義を受け容れ、労働者と農民を支援するの意味)の三大政策を発表します。

黄埔軍官学校
孫文はこの方針に従って国民党を改組し、共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認め、これによって第1次国共合作(1924年1月~27年7月)が成立しました。
更に大会では国民革命軍の育成が決定され、黄埔軍官学校が設立され(1924年6月)、校長にはソ連留学から帰ったばかりの蒋介石が任じられます。

中山紀念堂の孫文像
反帝国主義・打倒軍閥・反封建主義の国民革命を目ざした孫文は、第2次奉直戦争後の時局収拾の為に北京に赴きますが(1924年12月)、1925年3月に「革命未だ成らず」の遺言を残して北京で客死しました。
尚、この北京への途上で神戸に立ち寄った孫文は、有名な「大アジア主義」と題する講演を行い、中国のみならず全アジアの被圧迫民族の解放に力を貸すことが日本の進むべき道であると訴えて大きな感銘を与えたのでした。

1925年5月30日、南京路に集った学生市民労働者たち
孫文の死から2ヶ月後、上海で五・三〇事件と呼ばれる反帝国主義運動が勃発、その発端となったのは、5月15日に日本人が経営する上海の紡績工場で中国人労働者が射殺された事件でした。
1925年5月30日、約2000人の学生が上海の租界で労働者の射殺に抗議するデモを行い、それに対してイギリス警官隊は多くの学生を逮捕すると共に、抗議に集まった1万人以上の学生・労働者に発砲し、多数の死傷者を出します。
この事件が五・三〇事件です。

五・三〇事件を風刺した当時の プロパガンダポスター
この五・三〇事件に抗議して、6月1日から上海全市の労働者・学生・商人がゼネストに入ると、反帝国主義運動は忽ち全国の主要都市に広まり、各地で衝突が起こり、流血事件が頻発します。
五・三〇運動は、9月に入ると大部分の地方では収まりますが、この運動では五・四運動の時の学生に代わって労働者階級が先鋒を務めました。
このことは以後の中国の民族運動に大きな影響を及ぼし、反帝国主義運動が全国に広まる中で、国民党は1925年7月に広州で中華民国国民政府(国民政府、広東政府)の樹立を宣言し、国民革命軍も組織されが、国民党内部ではこの頃既に左右の対立が深まって行く事になります。
名言集
革命至今不成
革命いまだ成らず。
孫文
続く・・・
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