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2018/06/26

歴史を歩く197

42アジアの情勢④

4国共の合作と分離(その1)

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レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン(Лев Михайлович Карахан、1889年1月20日 - 1937年9月20日)

 五・四運動を出発点として反日・反帝国主義運動が広まる中、ソヴィエト政府は外務人民委員代理カラハン(1889年~1937年)の名で、帝政ロシア時代の対中国不平等条約を破棄するというカラハン宣言を発し(1919年7月)、同宣言は中国国民から熱狂的な歓迎を受け、各界に大きな反響を呼び起こしました。

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陳独秀、1879年10月8日-1942年5月27日

 1921年7月には、上海で陳独秀を委員長として中国共産党が結成され、1924年6月、中国はソ連との国交を回復し、この間、アメリカの主導の下で開かれたワシントン会議(1921年~22年)で中国に関する九カ国条約が結ばれ、又この会議と並行して行われた日中間の直接交渉によって山東懸案に関する条約が調印されて(1922年2月)山東の旧ドイツの利権が中国に返還された結果、日本の中国進出は二十一カ条の要求以前の状態に後退します。

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段祺瑞(左)と馮国璋

 その頃、中国では軍閥戦争が激化し、安直戦争(1920年)では、米英をバックにした曹錕・呉佩孚等の直隷派が奉天派の張作霖と結んで、日本の支援を受けた段祺瑞(だんきずい、1865年~1936年)等の安徽派に勝利し、北京には奉直連合政権が成立しますが、その後直隷派と奉天派の抗争が激化して奉直戦争が勃発、第1次奉直戦争(1922年)では呉佩孚の率いる直隷派が圧勝しますが、第2次奉直戦争(1924年)では奉天派・安徽派を中心とする反直隷派が直隷派を破り、北京には段祺瑞を執政とする安徽派・奉天派・国民軍の連立政権が成立します(1924年11月)。

国共合作
国共合作

 一方、広州を中心に北京の軍閥政府に対抗していた孫文は、ロシア革命の成功に感銘を受け、ソ連に接近しました。
孫文は1923年1月にソ連の外交官ヨッフェ(1883年~1927年)と会談し、中国の統一と独立の為に国共合作(国民党と共産党の協力体制)を進めるとの共同宣言を発表し、1924年1月、広州で開かれた中国国民党第1回全国代表大会(一全大会)で「連ソ・容共・扶助工農」(ソ連と提携し、共産主義を受け容れ、労働者と農民を支援するの意味)の三大政策を発表します。

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黄埔軍官学校

 孫文はこの方針に従って国民党を改組し、共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認め、これによって第1次国共合作(1924年1月~27年7月)が成立しました。
更に大会では国民革命軍の育成が決定され、黄埔軍官学校が設立され(1924年6月)、校長にはソ連留学から帰ったばかりの蒋介石が任じられます。

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中山紀念堂の孫文像

 反帝国主義・打倒軍閥・反封建主義の国民革命を目ざした孫文は、第2次奉直戦争後の時局収拾の為に北京に赴きますが(1924年12月)、1925年3月に「革命未だ成らず」の遺言を残して北京で客死しました。
尚、この北京への途上で神戸に立ち寄った孫文は、有名な「大アジア主義」と題する講演を行い、中国のみならず全アジアの被圧迫民族の解放に力を貸すことが日本の進むべき道であると訴えて大きな感銘を与えたのでした。

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1925年5月30日、南京路に集った学生市民労働者たち

 孫文の死から2ヶ月後、上海で五・三〇事件と呼ばれる反帝国主義運動が勃発、その発端となったのは、5月15日に日本人が経営する上海の紡績工場で中国人労働者が射殺された事件でした。
1925年5月30日、約2000人の学生が上海の租界で労働者の射殺に抗議するデモを行い、それに対してイギリス警官隊は多くの学生を逮捕すると共に、抗議に集まった1万人以上の学生・労働者に発砲し、多数の死傷者を出します。
この事件が五・三〇事件です。

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五・三〇事件を風刺した当時の プロパガンダポスター

 この五・三〇事件に抗議して、6月1日から上海全市の労働者・学生・商人がゼネストに入ると、反帝国主義運動は忽ち全国の主要都市に広まり、各地で衝突が起こり、流血事件が頻発します。
五・三〇運動は、9月に入ると大部分の地方では収まりますが、この運動では五・四運動の時の学生に代わって労働者階級が先鋒を務めました。
このことは以後の中国の民族運動に大きな影響を及ぼし、反帝国主義運動が全国に広まる中で、国民党は1925年7月に広州で中華民国国民政府(国民政府、広東政府)の樹立を宣言し、国民革命軍も組織されが、国民党内部ではこの頃既に左右の対立が深まって行く事になります。

名言集

革命至今不成

革命いまだ成らず。

孫文


続く・・・


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2018/06/11

歴史を歩く196

42アジアの情勢③

3朝鮮の三・一運動

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朝鮮総督府

 日本は朝鮮を併合(1910年8月)した後、京城(現ソウル)に朝鮮総督府を置いて武断政治を行い、憲兵警察制度の下で朝鮮を厳しい監視・統制の下に置きました。
朝鮮人は武断政治の下で次々に政治的・経済的権利を奪われ、 朝鮮人には参政権は勿論、集会・結社・言論の自由も認められず、併合直後から進められた土地調査事業によって多くの農民が土地を奪われ、小作人になるか、日本や満州へ流亡を余儀なくされました。

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孫秉煕像

 又併合直後に公布された会社令によって会社の設立は認可制とされ、民族産業の発展も抑えられ、
こうした日本の武断政治に対する朝鮮人の不満・反発が高まり、反日の気運は社会各層に広まり、特に第一次世界大戦末期にロシア革命が起こり、パリ講和会議で民族自決の原則が唱えられると、日本への朝鮮人留学生をはじめとする在外朝鮮人の間に独立運動が広まり、朝鮮国内でも天道教(東学をもとにして発展した民族宗教)・キリスト教・仏教等宗教界の指導者達が天道教主の孫秉煕(そんへいき)を中心として独立運動を進めていました。

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高宗李太王

 1919年1月に高宗李太王(李朝第26代の王、在位1863年~1907年、李太王は併合後に日本が付けた名称)が急逝し、日本人による毒殺であるとの噂が広まり、孫秉煕等は、当初、高宗の国葬の日である3月3日に独立宣言書発表を画策しますが、日本の官憲の警戒が厳しくなる事を恐れて3月1日に変更します。

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タプコル(パゴダ)公園・三一独立運動レリーフ

 1919年3月1日、孫秉煕等民族代表者29名は独立宣言書を発表した後に自首して憲兵隊に逮捕された、その頃京城(現ソウル)のパゴダ公園に集まっていた約5000人の学生・市民達を前に学生代表が独立宣言書を読み上げると、人々は「独立万歳」を叫んでデモ行進を行い、これに多くの市民が次々と加わり、数十万人が「独立万歳」を叫んでデモ行進を行います。

三・一運動
三・一運動(万歳事件)

 この運動はたちまち朝鮮全土に広まり、各地で「独立万歳」を叫ぶデモや集会が行われ、日本の厳しい弾圧にも係わらず約1年間継続し、200万人以上が参加したと云われており、後に三・一運動(万歳事件)と呼ばれる事件です。

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報知新聞 1919.4.7 (大正8)

 三・一運動は日本の軍隊と警察によって徹底的に弾圧され、1年間で7千数百名の死者と約5万人の逮捕者を出して終結しますが、三・一運動はその後の朝鮮民族運動の出発点となり、三・一運動後、日本は武断政治をある程度ゆるめて「文化政治」に改め、朝鮮語による新聞や雑誌の発刊を許可する等、限られた範囲内での自由を認める政策を行いますが、同化政策や日本の経済支配は一層推し進められたのでした。

名言集

무 실력 행

務実力行(空理・空論を排除し、誠に誠実を尽くすことを説いた思想)

안창호/安昌浩(アン・チャンホ、안창호、1878年11月9日 - 1938年3月10日)

続く・・・

2018/06/02

歴史を歩く195

42アジアの情勢

2文学革命と五・四運動、モンゴルの独立

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孫文大元帥


 中国では、袁世凱の死後(1916年6月)、軍閥が政権をめぐって抗争を続け、軍閥政権(1916年~28年)が続き、これに対して南の広州には孫文を中心とする広東軍政府が設立されました(1917年)。

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資料・近世資本主義発展史

 第一次世界大戦によってヨーロッパ列強が中国から一時手を引いたことから、中国では民族資本が成長し、紡績・製粉・マッチ等の軽工業の分野で中国人の経営する工場が次々に建てられ、多くの労働者が生み出され、又中国人の出資・経営する銀行も現われ、こうした民族資本の成長は中国を列強の半植民地的状態から解放しようとする気運を高めたのです。

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陳独秀

 その頃、文学・思想界では、文学革命と呼ばれる新文化建設の為の啓蒙運動が始まっていました。
その中心となった陳独秀(1879年~1942年)は、1915年9月に上海で『青年雑誌』(翌年に『新青年』と改称)を創刊し、その中で陳独秀は欧米の近代的な思想(デモクラシーとサイエンス)を紹介すると共に中国の思想の根幹である儒教と儒教道徳に基づく家族制度を厳しく批判し、新中国の建設を念願する青年達の心を捉えていきました。

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胡適

 陳独秀と共に文学革命で中心的な役割を果たした胡適(1891年~1962年)は『新青年』に『文学改良芻議』を発表し(1917年)、白話文学を提唱し、その中で胡適は、旧来の難解な文語文を廃して、白話すなわち口語文を用いることを提唱しました。

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魯迅

 魯迅(1881年~1936年)は『阿Q正伝』(1921年)・『狂人日記』(1918年)等を発表して白話文学運動を発展さて行きます。

 胡適の提唱した白話文学運動を中心として展開された文学革命は中国の青年達に大きな影響を及ぼし、後の五・四運動を思想面から準備を整え、その五・四運動の中心となったのは北京大学であり、1916年に北京大学学長となった蔡 元培(1868年~1940年)は、陳独秀(1917年に北京大学文科科長に就任)・胡適(1917年に北京大学教授に就任)・李大釗(1889年~1927年、1918年に北京大学教授(史学)兼図書館長に就任)ら進歩派知識人を教授に任用して学風を一新しました。

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李大釗

 李大釗はロシア革命の影響を受けて北京大学にマルクス主義研究会を組織し(1918年)、後の五・四運動の理論的指導者となりました。
中国は、1919年1月に開かれたパリ講和会議で二十一カ条の要求の取消しや山東省に於けるドイツ権益の返還を要求しましたが、中国の要求は列強によって退けられ、4月末に山東省のドイツ利権を日本が継承するとする情報が入り、北京大学の学生達は、5月7日(日本が二十一カ条の要求を通告した日で国恥記念日とされていた)に決起することを呼びかけますが、政府が5月7日のデモを武力で鎮圧するとの情報が入った為、デモを急遽5月4日に繰り上げます。

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五・四運動

 1919年5月4日、北京の学生約3000人が「二十一カ条を取消せ」・「青島を返せ」・「売国奴曹汝霖(二十一カ条の要求の交渉にたずさわった人物)等を罷免せよ」等と書いた小旗を振りながら市内をデモ行進し、亡国の危機を訴えるビラを配り、曹汝霖の邸宅を襲って放火し、軍隊と衝突して学生32名が逮捕されました。
これが後に五・四運動と呼ばれる行動の発端でした。

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五・四運動風刺画

 五・四運動は各地に波及し、全国の至る所で集会・デモ・労働者のストライキ・日本製品のボイコット等の大衆運動が展開され、更に全国的な学生・市民・労働者の反帝国主義・反封建主義の新しい愛国運動へと発展して行きますが、こうした状況の中で、北京政府は6月に入って学生を釈放し、曹汝霖らを罷免し、6月28日にはヴェルサイユ条約の調印を拒否しました。

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上海市の一大会歴史博物館・左から2番目の扉が会場の旧李漢俊宅・Wikipediaより

 五・四運動を上海で目撃した孫文はその影響の下で、1919年10月に秘密結社であった中華革命党を中国国民党と改称して公開政党とし、又1921年7月には、上海でコミンテルンの支援によって陳独秀を委員長として、約50名の党員からなる中国共産党が結成されます。

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外モンゴルと内モンゴルの位置

 モンゴル高原では、1911年に辛亥革命が起こると外モンゴルは独立を宣言し(1911年11月)、ラマ教の活仏を皇帝とする君主国と成りますが、1919年末には再び中国の支配下に置かれ、1920年にはシベリアで赤軍に敗れたウンゲルン・ステルンベルグの率いる白軍がモンゴルに侵入し、中国軍を破って再び活仏を皇帝として実権を握り、暴政を行いました。

チョイバルサン
シュテルン方面軍司令官、チョイバルサン元帥、ジューコフ集団軍司令官
ノモンハン事件時撮影


 こうした状況の中で、1920年にはロシアで革命思想の影響を受けて帰国したチョイバルサン(1895年~1952年)やロシア革命の成功で社会主義思想を学んだスフバートル(1894年~1923年)等によってモンゴル人民革命党が結成されました。

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ダムディン・スフバートル(Дамдины Сүхбаатар、1894年2月2日 - 1923年2月22日)

 チョイバルサン等は、単独でステルンベルグの白軍と戦う力は無く、ソヴィエト赤軍の援助を要請し、1921年7月にモンゴルの革命軍とソヴィエト赤軍はクーロン(現ウランバートル)を占領して革命政府を樹立、革命政府は当初活仏を元首としましたが、活仏の死後、チョイバルサン等は1924年11月に社会主義に基づくモンゴル人民共和国の成立を宣言し、モンゴルはソ連に続く2番目の社会主義国と成り、以後チョイバルサン(首相、在任1938年~52年)の下で社会主義の建設が進められました。

名言集

沒有必要轉回/返回。
因為在你面前有很多方法。

うしろをふり向く必要はない。
あなたの前には、いくらでも道があるのだから。

原本地上沒有道路。
隨著更多人走路,就是這樣。

もともと地上に道はない。
歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

魯迅


続く・・・