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2018/09/30

歴史を歩く199

42アジアの情勢⑥

5インドの独立運動

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ローラット委員会 (Rowlatt Committee) の長、シドニー・ローラット (Sydney Rowlatt)

 第一次世界大戦が勃発すると、イギリスはインドに戦後の自治を約束し(1917年8月にインド担当相モンタギューが行った)、インドの協力を求め、インドに住む人々はその約束を信じ、120万の兵員を動員し、物資を供給してイギリスに協力しました。
しかし、1919年に公布されたインド統治法では州自治の一部が与えられただけで、人々の期待した自治の約束には程遠いもので在り、その上イギリスは、1919年3月にローラット法を発布し、逮捕令状無しの逮捕・裁判抜きの投獄を行う権限をインド総督に与え、インドの民族運動を弾圧しました。

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アムリットサル虐殺事件

 1919年4月13日、パンジャーブ地方のアムリットサル(アムリツァール)で開かれた自治の約束無視とローラット法発布に対する抗議集会に集まった約1万人の群衆にイギリス軍が発砲し、約400人が死亡し1000人以上が負傷するというアムリットサル虐殺事件が起こり、インドの反英運動は激化して行きますが、この時期にインドの民族運動の指導者として、反英独立運動の先頭に立った人物がガンディーでした。

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モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー:Mohandas Karamchand Gandhi、(1869年10月2日 - 1948年1月30日)

 ガンディー(1869年~1948年、マハトマ・ガンディーのマハトマは「偉大な魂」の意味)は西部インドの下級官吏の家に生まれ、ロンドンに留学して(1888年~91年)弁護士となり、帰国後南アフリカに渡ってサティヤーグラハ(サティヤーは真理、グラハは把握の意味、ガンディーはこの言葉に非暴力抵抗の意味を与えた)の運動を指導し、人種差別政策と闘い(1893年~1914年)、帰国(1915年)後国民会議派に加わって、インドで活動します。

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イギリス商品ボイコット、インド綿を紡ぐガンディー

 ガンディーは、第一次世界大戦では自治の約束に期待して、イギリスに協力しますが、戦後約束が守られないと、「我々はパンを求めて石を与えられた」とイギリスの背信に強く抗議し、ローラット法が施行されると非暴力・不服従(サティヤーグラハ)の運動を指導し(第1次1919年~22年、第2次1930年~34年)、大戦中から反英的になっていた全インド・ムスリム連盟も国民会議と提携した為(1920年)、イギリス商品のボイコット・イギリスの行政機関への非協力・公立学校の生徒の退学・商店の自主的休業・地租支払い拒否等の運動が全インドに広がりました。

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非暴力・不服従を呼びかけるガンディー

 しかし、1922年2月に蜂起した農民が警察署を襲って警官22名を殺害する出来事が起きると、ガンディーは不服従運動の中止を宣言したものの逮捕され、6年の懲役に処せられます。
ガンディーは2年後に釈放されますが、その後数年間は政治から離れ、以後国民会議派内の分裂やヒンドゥー・イスラム両教徒の対立等も在り運動は停滞しました。

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ジャワハルラール・ネルー(ネール) ( 1889年11月14日 - 1964年5月27日)

 この頃、国民会議派内ではネルー(ネール)を指導者とするより急進的なグループ(国民会議派左派)が台頭しており、ネルー(ネール、1889年~1964年)は、アラハバード市で富裕なバラモン階級の弁護士の家庭に生まれ、イギリスに留学してケンブリッジ大学を卒業し、弁護士の資格を得て帰国(1905年~12年)し、弁護士となったネルーはガンディーと出会って国民会議派に入り、民族運動に身を投じ(1920頃)、国民会議派の若手の政治家として活躍、1920年代後半からは国民会議派の指導者と成りました。

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塩の行進

 1929年12月、ネルーの指導のもとで開かれた国民会議派ラホール大会では「プールナ・スワラジ(完全なる自治)」が宣言され、このラホール大会を機に運動は再び激化し、翌年から第2次の非暴力・不服従運動(1930年~34年)が始まりました。
1930年3月、再び運動の先頭に立ったガンディーは製塩禁止法に反対して360kmに及ぶ有名な「塩の行進」を行ない、再び逮捕されます。

チャップリンとガンディー
第2回英印円卓会議出席の際、喜劇王チャップリンと会談するガンディー

 翌年釈放されたガンディーは、ロンドンで開かれた第2回英印円卓会議(イギリスがインドの独立運動の高まりを抑えるために指導者をロンドンに招いて開いた会議)に出席しますが、何ら成果のない会議に絶望して帰国し、3度目の逮捕を経験します(1932年1月)。
1934年に国民会議派を引退したガンディーは、その後不可触賤民の地位向上運動に従事し、彼等をハリジャン(神の子)と呼びました。

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ガンディーとネルー

 イギリスは指導者を逮捕・投獄する一方で英印円卓会議(1930年~32年)を開く等、弾圧と懐柔をくり返す中で、1935年には新インド統治法(改正インド統治法)を制定します。
新インド統治法では連邦制と各州の責任自治制が導入されますが、インド人の完全独立の要求は無視され、かえってその導入をめぐってヒンドゥー教徒の国民会議派とイスラム教徒の全インド・ムスリム連盟の対立が深まっていきました。

名言集

Because there is bondage,
I can fly.
Because there is sorrow,
I can fly high.
Because there is adversity,
I can run.
Because there is tears,
I will move forward.

束縛があるからこそ、
私は飛べるのだ。
悲しみがあるからこそ、
私は高く舞い上がれるのだ。
逆境があるからこそ、
私は走れるのだ。
涙があるからこそ、
私は前に進めるのだ。


続く・・・


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2018/09/11

散歩道の思い出

散歩道の四季

城野町から引越しをして1ヶ月が過ぎました。
荷解きも8割程は、終わりましたが、未だに発掘出来ない品物も在り、こちらは気長に探していきます。
前回の「さようなら城野町」で紹介した、ジロくんと歩いた散歩道の季節を変えてご紹介します。

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写真①

午後の陽に照らされる足立山です。
小学生、中学生時代の下校時に毎日眺めた、記憶に一番残っている風景です。
この風景を見ると、「今日も終わったな」と思ったものです。
この風景を片隅に置きながら、友人達と家路を急ぎました。

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写真②

雪の日の自宅前。
写真には、轍の後と足跡が写っていますが、この轍を残した自動車は、この先で立ち往生していました。
緩い坂なのですが、この緩やかなSカーブが災いしている様です。
この様な時は、遠自宅から大きく遠回り。
例えれば、3角形の1辺で行ける道を2辺通って行くしか、仕方が在りません。
北九州市では、滅多に雪が積もる事はありませんが、昨年、今年と2月に1日だけですが、積雪を見ました。

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写真③

秋、紅葉が始まった頃の上城野公園です。
この時期、ジロくんが落ち葉を踏むと、カサカサと乾いた音が連続して聞こえます。
その音が不思議なのか、盛んに地面の匂いを嗅Iいだり、首を傾げるジロくんの仕草が、印象に残っています。
木の葉が全て散ると、空の空間が広くなり、冬枯れの寂しい姿に変わり、北風が寒さを誘います。

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写真④
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写真⑤

さようなら、城野町で紹介しなかった、重留遺跡です。
平成12年の発掘作業中に銅剣が出土し、福岡県の重要文化財に指定されました。
重留遺跡第1号竪穴住居跡出土品 一括として、北九州市のホームページにも紹介されています。
http://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/02100196.html
この場所は、以前国鉄官舎が有った場所で、銅剣が出土した付近は公園でした。
ジロくんの散歩の時は、何時も踏んでいた地面の下に銅剣が埋まっていたわけですが、この付近は可也広い弥生期の遺構が多数発見されているので、遥かな昔、一つの大きな集落が存在していた様です。

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写真⑥

写真⑤の重留遺跡から約500mの位置に存在する城野遺跡です。
写真では判りずらいですが、この雑草に覆われた箇所を中心に、可也の広さの遺構群が発掘され、その中には貝塚や囲炉裏の跡、埋葬された人骨も出土しています。
近くには川も流れていた痕跡もあり、可也の人口を抱えた集落であったと考えられています。
現在、城野遺跡保存と遺跡公園整備の運動が、行われています。
私もジロくんと発掘作業を見学しましたが、当時の囲炉裏跡等は、大変興味深いものでした。
紀元前10世紀前後の弥生期に当たり、先の重留遺跡と一体となる遺跡と考えられています。
当時の風景を想像して、ちょっとタイムトリップした気分です。

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写真⑦

氏神様若宮神社の近所に住んでいる、ジロくんの2歳年上のお友達、シロちゃんです。
現在のジロくんが初めて挨拶したワンさんが、シロちゃんでした。
ジロくんにとってはお姉さんになります。
シロちゃんも以前に比べると、足が弱ったそうですが、まだまだ元気に毎朝散歩していました。
これからも、元気で居て欲しいです。

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写真⑧
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写真⑨

今年2月、雪に覆われた氏神様若宮神社の境内です。
此処まで真っ白になるのは、珍しい事なので、写真に撮りました。
この日は寒い1日で、最高気温が1度、最低氷点下2度と、北九州市では異例の寒さを迎えました。
一方写真⑨は、今年3月頃の境内の梅です。
冬が寒かった一方で、今年の梅は、一段と花も多く綺麗な姿を見せてくれました。

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写真⑩

前回の写真では、暗い画像だったので、改めてご紹介する、JR日豊本線と日田彦山線の分岐点です。
写真手前は、昭和末期から現在迄、広い空き地になっていて、線路の築堤がはっきり見えますが、後方は高層マンションが建設され、視界を遮っています。
初代ジロくんと歩き始めた頃は、足立山の中腹付近迄、遮る物は一切なく、右手の雑木林もまだ小さな林でした。
約30年の歳月を経て、今では立派な森になっています。

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写真⑪

JR城野駅より日豊本線下り方、下曽根側を望む。
城野駅もいつの間にか、高層住宅の中に埋もれていますが、写真中央部が、前回紹介した踏切、その先右側に向かう単線の線路が日田彦山線、直進する線路が、日豊本線です。
子供の頃、踏切警手さんと一緒に通過する列車を眺めた頃は、周囲にビルは1棟もなく、田畑が広がったいました。
現在の城野駅は、現代風の橋上駅舎で、南北通路も備えたバリアフリーの駅に生まれ代わりましたが、私が利用していた頃の駅舎は、明治時代からの古い木造駅舎で、所々に明治時代を彷彿とされる箇所が在りました。
今、当時を伝える物は何も残っていません。

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写真⑫

ジロくんと夜に歩いていたコースにある、和食レストランの紅葉です。
この和食レストランは、豆腐料理がメインで、お客様も多いレストランです。(私も時々利用していますが、美味しいですよ!)
その庭の紅葉が、夜間はライトアップされていて、カメラを向ける方も多い場所です。
夜のコースは、どうしても幹線系の道を歩くので、周囲はマンションや駐車場ばかりですが、ここだけは、ちょっぴり季節を感じる事ができます。

昭和61年7月に初めてワンくんが、家族の一員になりました。
それから現在のジロくん迄 3代、約30余年、歴代のジロくんと一緒に歩いた城野、春ケ丘、若園、重住の風景は、今も思い出として残っています。
又、機会が有れば紹介したいと思いますが、近い内に、現在の散歩道をご紹介しようと思っています。

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今の散歩道も慣れてきたよ!byジロ


平成30年9月11日 秋葉 奈津子&ジロ