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2018/12/25

歴史を歩く201

42アジアの情勢⑧

7 トルコ革命とイスラム諸国(その1)


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第一次世界大戦後の西アジア

 オスマン・トルコ帝国は第一次世界大戦に同盟国側に立って参戦して敗れ、スルタン政府はセーヴル条約に調印せざるを得なく成ります(1920年8月)。
セーヴル条約は、ヨーロッパ側領土の大部分とメソポタミア・パレスチナ(イギリスの委任統治領)・シリア(フランスの委任統治領)等を連合国に割譲し、治外法権・連合国による財政管理・軍備の制限等を認める屈辱的な内容であり、ケマル・パシャの臨時政府は批准を否認しました。

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ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk、1881年5月19日 - 1938年11月10日)

 ケマル・パシャ(本名はムスタファ・ケマル、ケマル・アタテュルク、1881年~1938年)はサロニカに生まれ、陸軍大学を卒業後入隊、第一次世界大戦では軍司令官として軍功を上げますが、敗戦後、ギリシア軍によってイズミル(スミルナ)が占領されると(ギリシア・トルコ戦争、1919年~22年)、ケマル・パシャは東部アナトリアでアナトリア・ルーメリア権利擁護団(1923年にトルコ人民党(トルコ国民党)に改組)と国民軍を編成してこれに対抗しました(1919年)。

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イズミル奪還後、コナク広場に入るトルコ軍首脳・Wikipediaより

 1920年4月、ケマル・パシャはアンカラにトルコ大国民会議を召集し、臨時政府樹立を宣言し、 同年8月、スルタン政府がセーヴル条約に調印すると、ケマル・パシャはこれを否認して独立戦争を起こし、ギリシア軍を撃退してイズミル(スミルナ)を奪回(ギリシア・トルコ戦争、1919年~22年)し、1922年11月、スルタン制とカリフ制を分離し、スルタン制廃止を宣言、メフメト6世(在位1918年~22年、オスマン朝第37代皇帝)はマルタ島に亡命し、600年以上続いたオスマン・トルコ帝国(1299~1922)は滅亡しました。

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セーブル条約無効を伝える大阪毎日新聞(大正11年10月14日)

 1922年11月にスイスのローザンヌで始まったトルコと連合国との講和会議では、セーヴル条約が破棄され、翌1923年7月にトルコは連合国との間に新たにローザンヌ条約を締結し、これによってトルコはイズミル・イスタンブル周辺・東トラキア等を回復し、治外法権や軍備制限を撤廃させて完全に独立を回復しました。

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1922年11月、ドルマバフチェ宮殿を後にする、最後の皇帝メフメト6世。この写真が撮られてから数日後、彼は英国の戦艦でサンレモに亡命。1926年 に同地で没した。Wikipediaより

 1923年10月、トルコ共和国成立が宣言され、初代大統領にはケマル・パシャが就任、首都はイスタンブルからアンカラに移ります。
トルコ革命(1922年~23年、オスマン・トルコ帝国を打倒し、トルコ共和国を樹立した革命。広義にはケマル・パシャの近代化改革も含める)を成し遂げたケマル・パシャは、以後トルコの近代化に取り組み、近代化政策を次々に推進します。

 1923年には、アナトリア・ルーメリア権利擁護団を政党に改組してトルコ人民党(トルコ国民党)とし、翌1924年にはトルコ共和国憲法を制定、政治と宗教を完全に分離し、カリフ制を廃止する事によってスルタンとカリフの地位を失ったオスマン家は国外に追放されます。

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トルコの女性運動(1922年)

ケマル・パシャが行った近代化政策の中で特に有名な政策は婦人解放(婦人の地位向上)と文字革命でした。
婦人解放については、イスラム暦の廃止(太陽暦の採用)や男子のトルコ帽廃止と並行して女性のチャドルが廃止され(1925年)、一夫多妻制も廃止(1928年)、1934年には婦人参政権も与えられました。

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ケマルの文字改革、娘に本を読んで聞かす父親

 又文字革命については、1928年にアラビア文字を廃止し、トルコ語の表記をローマ字に改め、この文字革命と教育革命によってトルコ人の識字率が大幅に向上します。
1934年、トルコの近代化に努めたケマル・パシャに対して議会はアタテュルク(トルコの父の意味)の尊称を贈り、ケマル・パシャは以後ケマル・アタテュルクと呼ばれます。
ケマル・アタテュルクは1938年に死去しますが、その頃、トルコは新しいトルコに生まれ変わっていたのです。

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サアド・ザグルール(سعد زغلول‎、Saad Zaghlul、1859年-1927年8月23日)

 第一次世界大戦とパリ講和会議、特に民族自決の原則はアラブ人の間にも大きな影響を及ぼしました。
1914年以来イギリスの保護国となっていたエジプトでは、戦後ワフド党を中心に激しい民族運動が展開されます。
ワフド(代表の意味)党は、サアド・ザグルール(ザグルール・パシャ、1850年頃~1927年)等を指導者として1918年に結成された民族主義政党で、地主や民族資本家を地盤とし、保護権の廃止・完全独立を要求して反英独立闘争を展開しました。

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ファード1世( فؤاد الأول‎、1868年3月26日 - 1936年4月28日)

 その為イギリスは、1922年に保護権を廃止して形式的な独立を認め、スルタンのファード(ファード1世、在位1922年~36年)を国王とするエジプト王国(1922年~52年)が成立します。
しかし、イギリスはエジプトの防衛権・スエズ運河地帯駐兵権・スーダン領有権等を留保した為、その後も完全独立を目ざす反英運動が続く事に成ります。

 ワフド党内閣は留保条件を回ってイギリスと交渉を続け、1936年8月にはイギリス・エジプト同盟条約を締結し、イギリス・エジプト同盟条約によってエジプトの完全な主権が認められ、イギリス軍と官吏は退去しますが、スエズ運河地帯には依然としてイギリス軍が駐留していました。

名言集

Ne mutlu Türküm diyene!

私はトルコ人だ、と言えること、なんと幸せなのだろう!

ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk)

続く・・・

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2018/12/14

歴史を歩く200

6東南アジアの独立・改革運動

① ヴェトナム

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ホー・チ・ミン(胡志明, 1890年5月19日 - 1969年9月2日)

 欧米列強の植民地支配下に置かれていた東南アジア諸地域でも第一次世界大戦後、独立運動や民族運動が高揚しはじめます。

フランスの植民地であったヴェトナムで民族運動の中心となった人物がホー・チ・ミンです。
ホー・チ・ミン(胡志明、1890年~1969年、本名はグェン・タトゥ・タン、一時はグェン・アイ・クォク(阮愛国)と名のる)は、ゲアン省の学者の家庭に生まれ、大学で学んだ後に船員となってフランスに渡航(1911年)、その後、ロシア革命に刺激されてマルクス主義に近づき、フランス共産党に入党(1920年)、1924年のコミンテルン第5回大会に出席した後、中国に渡り、広州でヴェトナム青年革命同志会を結成し(1925年)、1930年には香港でヴェトナム共産党(同年インドシナ共産党と改称)を結成し、インドシナ共産党は労働者・農民に支持され、以後の対仏・対日の抵抗・独立闘争の主体となりますが、ホー・チ・ミンは香港でイギリス警察に逮捕され(1931年)、釈放後はソ連に渡り(1934年)、1941年に帰国してヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)を結成しました。

※ホー・チ・ミン⇒栄光の人を意味します。

② ビルマ

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サヤー・サン( 1876年10月24日 – 1931年11月28日:ターヤワディーの 公園内に建つサヤーサンの銅像)

 インド帝国に併合されていたビルマ(ミャンマー)ではインドからの分離を求める運動が活発になり、ビルマの民族運動の指導者サヤー・サン(1876年~1931年)が反英武力闘争に立ち上がると(1930年)、運動はたちまちビルマ各地に広まり、農民蜂起(1930年~32年)に発展しました。

イギリスはインドからも増援軍を送り込んで鎮圧を進め、サヤー・サン等指導者を処刑しますが、同じ頃、ラングーン大学の卒業生達によってタキン党が結成されます。
タキン党は、当初「我等ビルマ人協会」と称していましたが、後にタキン(主人の意味)党と改称し、1930年代中頃からビルマの即時完全独立を要求し、アウン・サン(1915年~47年)やウー・ヌー(1907年~95年、後のビルマ共和国初代首相)等を中心に学生運動や都市のストライキを組織しました。

 イギリスはこのような動きに押され、1935年の新インド統治法によってビルマの分離を決定し、さらに1937年にはビルマ統治法で準自治領としますが、タキン党はその後も完全独立を目指して反英独立闘争を展開します。

③ インドネシア

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スカルノ(1901年6月6日 - 1970年6月21日:1930年代のスカルノ(中央)Wikipediaより)

 オランダの植民地支配下に置かれていたインドネシアの民族運動は、1911年に設立されたサリカット・イスラム(イスラム同盟)や1920年に結成されたインドネシア共産党によって推進されました。

 インドネシア共産党はアジア最初の共産党で、1926~27年にバタヴィアやスマトラ西部での武装蜂起に失敗し、インドネシア共産党は以後非合法化されます。

 この頃、インドネシア民族運動の指導者として登場してくる人物がスカルノです。
スカルノ(1901年~70年)は、東部ジャワのスラバヤに生まれ、オランダ人小学校に入学して西欧式の教育を受け、バンドン工科大学を卒業(1925年)、大学在学中からオランダに対する独立運動に参加したスカルノは、1927年に民族主義団体を設立し、この民族主義団体は翌年インドネシア国民党と改称しますが、インドネシア国民党は弾圧を受け、スカルノも逮捕・投獄されます(1929年~31年)。
スカルノはその後釈放、逮捕を繰り返し、流刑となった(1933年~42年)為、インドネシアの民族運動は一時停滞します。

④ フィリピン

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マロロス市における発足式での革命軍の行進。1899年1月23日

 米西戦争(1898年)後、アメリカの植民地となったフィリピンでは、フィリピン革命(1896年~1902年)が失敗に終わった後もアメリカに対する独立運動が続きました。

 アメリカは、1916年のジョーンズ法で、上下両院の設置など広汎な自治を認めましたが、独立については安定した政権が樹立され次第とする、単なる約束事項にと留まっていました。

 世界恐慌に苦しむ中で従来の外交政策を転換したアメリカは、1934年にフィリピンの自治を認める法案を成立させ、翌1935年には独立準備政府を発足させて自治を認めると共に10年後の独立を約束する事になります。

⑤ タイ

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ラーマ7世・Wikipediaより

 東南アジア諸国の中で唯一独立を維持したタイでは、1925年にラーマ7世(チャクリ朝第7代の王、大王と呼ばれたラーマ5世の子、前王ラーマ6世の弟)が即位し、この頃、パリのタイ人留学生等によって結成された人民党(1927年設立)は絶対王制打倒・立憲君主制樹立を主張していました。

 世界恐慌の影響と長年の財政窮乏によってタイ経済が悪化すると、ラーマ7世は官吏と軍人の整理・大幅減俸や重税の新設等を断行した為にチャクリ朝の専制政治に対する国民の反感が強まり、
1932年6月24日、人民党による立憲革命が勃発、人民党は軍部の同調者と共にクーデターを起こし、ラーマ7世に立憲君主制の樹立を認めさせ、同年、タイ最初の憲法が制定されます。

 その後、立憲革命で台頭したピブン(1897年~1964年、タイの軍人)が首相となり(1938年)、1939年には国名をシャムからタイ(自由・自由民の意味)に改めます。

名言集

không có gì quý hơn độc lập, tự do

自由と独立ほど尊いものは何もない


続く・・・