歴史を歩く201
42アジアの情勢⑧
7 トルコ革命とイスラム諸国(その1)

第一次世界大戦後の西アジア
オスマン・トルコ帝国は第一次世界大戦に同盟国側に立って参戦して敗れ、スルタン政府はセーヴル条約に調印せざるを得なく成ります(1920年8月)。
セーヴル条約は、ヨーロッパ側領土の大部分とメソポタミア・パレスチナ(イギリスの委任統治領)・シリア(フランスの委任統治領)等を連合国に割譲し、治外法権・連合国による財政管理・軍備の制限等を認める屈辱的な内容であり、ケマル・パシャの臨時政府は批准を否認しました。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk、1881年5月19日 - 1938年11月10日)
ケマル・パシャ(本名はムスタファ・ケマル、ケマル・アタテュルク、1881年~1938年)はサロニカに生まれ、陸軍大学を卒業後入隊、第一次世界大戦では軍司令官として軍功を上げますが、敗戦後、ギリシア軍によってイズミル(スミルナ)が占領されると(ギリシア・トルコ戦争、1919年~22年)、ケマル・パシャは東部アナトリアでアナトリア・ルーメリア権利擁護団(1923年にトルコ人民党(トルコ国民党)に改組)と国民軍を編成してこれに対抗しました(1919年)。

イズミル奪還後、コナク広場に入るトルコ軍首脳・Wikipediaより
1920年4月、ケマル・パシャはアンカラにトルコ大国民会議を召集し、臨時政府樹立を宣言し、 同年8月、スルタン政府がセーヴル条約に調印すると、ケマル・パシャはこれを否認して独立戦争を起こし、ギリシア軍を撃退してイズミル(スミルナ)を奪回(ギリシア・トルコ戦争、1919年~22年)し、1922年11月、スルタン制とカリフ制を分離し、スルタン制廃止を宣言、メフメト6世(在位1918年~22年、オスマン朝第37代皇帝)はマルタ島に亡命し、600年以上続いたオスマン・トルコ帝国(1299~1922)は滅亡しました。

セーブル条約無効を伝える大阪毎日新聞(大正11年10月14日)
1922年11月にスイスのローザンヌで始まったトルコと連合国との講和会議では、セーヴル条約が破棄され、翌1923年7月にトルコは連合国との間に新たにローザンヌ条約を締結し、これによってトルコはイズミル・イスタンブル周辺・東トラキア等を回復し、治外法権や軍備制限を撤廃させて完全に独立を回復しました。

1922年11月、ドルマバフチェ宮殿を後にする、最後の皇帝メフメト6世。この写真が撮られてから数日後、彼は英国の戦艦でサンレモに亡命。1926年 に同地で没した。Wikipediaより
1923年10月、トルコ共和国成立が宣言され、初代大統領にはケマル・パシャが就任、首都はイスタンブルからアンカラに移ります。
トルコ革命(1922年~23年、オスマン・トルコ帝国を打倒し、トルコ共和国を樹立した革命。広義にはケマル・パシャの近代化改革も含める)を成し遂げたケマル・パシャは、以後トルコの近代化に取り組み、近代化政策を次々に推進します。
1923年には、アナトリア・ルーメリア権利擁護団を政党に改組してトルコ人民党(トルコ国民党)とし、翌1924年にはトルコ共和国憲法を制定、政治と宗教を完全に分離し、カリフ制を廃止する事によってスルタンとカリフの地位を失ったオスマン家は国外に追放されます。

トルコの女性運動(1922年)
ケマル・パシャが行った近代化政策の中で特に有名な政策は婦人解放(婦人の地位向上)と文字革命でした。
婦人解放については、イスラム暦の廃止(太陽暦の採用)や男子のトルコ帽廃止と並行して女性のチャドルが廃止され(1925年)、一夫多妻制も廃止(1928年)、1934年には婦人参政権も与えられました。

ケマルの文字改革、娘に本を読んで聞かす父親
又文字革命については、1928年にアラビア文字を廃止し、トルコ語の表記をローマ字に改め、この文字革命と教育革命によってトルコ人の識字率が大幅に向上します。
1934年、トルコの近代化に努めたケマル・パシャに対して議会はアタテュルク(トルコの父の意味)の尊称を贈り、ケマル・パシャは以後ケマル・アタテュルクと呼ばれます。
ケマル・アタテュルクは1938年に死去しますが、その頃、トルコは新しいトルコに生まれ変わっていたのです。

サアド・ザグルール(سعد زغلول、Saad Zaghlul、1859年-1927年8月23日)
第一次世界大戦とパリ講和会議、特に民族自決の原則はアラブ人の間にも大きな影響を及ぼしました。
1914年以来イギリスの保護国となっていたエジプトでは、戦後ワフド党を中心に激しい民族運動が展開されます。
ワフド(代表の意味)党は、サアド・ザグルール(ザグルール・パシャ、1850年頃~1927年)等を指導者として1918年に結成された民族主義政党で、地主や民族資本家を地盤とし、保護権の廃止・完全独立を要求して反英独立闘争を展開しました。

ファード1世( فؤاد الأول、1868年3月26日 - 1936年4月28日)
その為イギリスは、1922年に保護権を廃止して形式的な独立を認め、スルタンのファード(ファード1世、在位1922年~36年)を国王とするエジプト王国(1922年~52年)が成立します。
しかし、イギリスはエジプトの防衛権・スエズ運河地帯駐兵権・スーダン領有権等を留保した為、その後も完全独立を目ざす反英運動が続く事に成ります。
ワフド党内閣は留保条件を回ってイギリスと交渉を続け、1936年8月にはイギリス・エジプト同盟条約を締結し、イギリス・エジプト同盟条約によってエジプトの完全な主権が認められ、イギリス軍と官吏は退去しますが、スエズ運河地帯には依然としてイギリス軍が駐留していました。
名言集
Ne mutlu Türküm diyene!
私はトルコ人だ、と言えること、なんと幸せなのだろう!
ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk)
続く・・・
7 トルコ革命とイスラム諸国(その1)

第一次世界大戦後の西アジア
オスマン・トルコ帝国は第一次世界大戦に同盟国側に立って参戦して敗れ、スルタン政府はセーヴル条約に調印せざるを得なく成ります(1920年8月)。
セーヴル条約は、ヨーロッパ側領土の大部分とメソポタミア・パレスチナ(イギリスの委任統治領)・シリア(フランスの委任統治領)等を連合国に割譲し、治外法権・連合国による財政管理・軍備の制限等を認める屈辱的な内容であり、ケマル・パシャの臨時政府は批准を否認しました。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk、1881年5月19日 - 1938年11月10日)
ケマル・パシャ(本名はムスタファ・ケマル、ケマル・アタテュルク、1881年~1938年)はサロニカに生まれ、陸軍大学を卒業後入隊、第一次世界大戦では軍司令官として軍功を上げますが、敗戦後、ギリシア軍によってイズミル(スミルナ)が占領されると(ギリシア・トルコ戦争、1919年~22年)、ケマル・パシャは東部アナトリアでアナトリア・ルーメリア権利擁護団(1923年にトルコ人民党(トルコ国民党)に改組)と国民軍を編成してこれに対抗しました(1919年)。

イズミル奪還後、コナク広場に入るトルコ軍首脳・Wikipediaより
1920年4月、ケマル・パシャはアンカラにトルコ大国民会議を召集し、臨時政府樹立を宣言し、 同年8月、スルタン政府がセーヴル条約に調印すると、ケマル・パシャはこれを否認して独立戦争を起こし、ギリシア軍を撃退してイズミル(スミルナ)を奪回(ギリシア・トルコ戦争、1919年~22年)し、1922年11月、スルタン制とカリフ制を分離し、スルタン制廃止を宣言、メフメト6世(在位1918年~22年、オスマン朝第37代皇帝)はマルタ島に亡命し、600年以上続いたオスマン・トルコ帝国(1299~1922)は滅亡しました。

セーブル条約無効を伝える大阪毎日新聞(大正11年10月14日)
1922年11月にスイスのローザンヌで始まったトルコと連合国との講和会議では、セーヴル条約が破棄され、翌1923年7月にトルコは連合国との間に新たにローザンヌ条約を締結し、これによってトルコはイズミル・イスタンブル周辺・東トラキア等を回復し、治外法権や軍備制限を撤廃させて完全に独立を回復しました。

1922年11月、ドルマバフチェ宮殿を後にする、最後の皇帝メフメト6世。この写真が撮られてから数日後、彼は英国の戦艦でサンレモに亡命。1926年 に同地で没した。Wikipediaより
1923年10月、トルコ共和国成立が宣言され、初代大統領にはケマル・パシャが就任、首都はイスタンブルからアンカラに移ります。
トルコ革命(1922年~23年、オスマン・トルコ帝国を打倒し、トルコ共和国を樹立した革命。広義にはケマル・パシャの近代化改革も含める)を成し遂げたケマル・パシャは、以後トルコの近代化に取り組み、近代化政策を次々に推進します。
1923年には、アナトリア・ルーメリア権利擁護団を政党に改組してトルコ人民党(トルコ国民党)とし、翌1924年にはトルコ共和国憲法を制定、政治と宗教を完全に分離し、カリフ制を廃止する事によってスルタンとカリフの地位を失ったオスマン家は国外に追放されます。

トルコの女性運動(1922年)
ケマル・パシャが行った近代化政策の中で特に有名な政策は婦人解放(婦人の地位向上)と文字革命でした。
婦人解放については、イスラム暦の廃止(太陽暦の採用)や男子のトルコ帽廃止と並行して女性のチャドルが廃止され(1925年)、一夫多妻制も廃止(1928年)、1934年には婦人参政権も与えられました。

ケマルの文字改革、娘に本を読んで聞かす父親
又文字革命については、1928年にアラビア文字を廃止し、トルコ語の表記をローマ字に改め、この文字革命と教育革命によってトルコ人の識字率が大幅に向上します。
1934年、トルコの近代化に努めたケマル・パシャに対して議会はアタテュルク(トルコの父の意味)の尊称を贈り、ケマル・パシャは以後ケマル・アタテュルクと呼ばれます。
ケマル・アタテュルクは1938年に死去しますが、その頃、トルコは新しいトルコに生まれ変わっていたのです。

サアド・ザグルール(سعد زغلول、Saad Zaghlul、1859年-1927年8月23日)
第一次世界大戦とパリ講和会議、特に民族自決の原則はアラブ人の間にも大きな影響を及ぼしました。
1914年以来イギリスの保護国となっていたエジプトでは、戦後ワフド党を中心に激しい民族運動が展開されます。
ワフド(代表の意味)党は、サアド・ザグルール(ザグルール・パシャ、1850年頃~1927年)等を指導者として1918年に結成された民族主義政党で、地主や民族資本家を地盤とし、保護権の廃止・完全独立を要求して反英独立闘争を展開しました。

ファード1世( فؤاد الأول、1868年3月26日 - 1936年4月28日)
その為イギリスは、1922年に保護権を廃止して形式的な独立を認め、スルタンのファード(ファード1世、在位1922年~36年)を国王とするエジプト王国(1922年~52年)が成立します。
しかし、イギリスはエジプトの防衛権・スエズ運河地帯駐兵権・スーダン領有権等を留保した為、その後も完全独立を目ざす反英運動が続く事に成ります。
ワフド党内閣は留保条件を回ってイギリスと交渉を続け、1936年8月にはイギリス・エジプト同盟条約を締結し、イギリス・エジプト同盟条約によってエジプトの完全な主権が認められ、イギリス軍と官吏は退去しますが、スエズ運河地帯には依然としてイギリス軍が駐留していました。
名言集
Ne mutlu Türküm diyene!
私はトルコ人だ、と言えること、なんと幸せなのだろう!
ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk)
続く・・・
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