歴史を歩く203
43ファシズムの台頭①
1世界経済恐慌とアメリカのニューディール

1929年の大暴落の後でウォール街に集まる群衆・Wikipediaより
1929年10月24日(暗黒の木曜日)に起こった、ニューヨーク株式取引所(ウォール街)での株価の大暴落をきっかけとしてアメリカで大恐慌が始まりました。
この恐慌は、第一次世界大戦後アメリカ資本に依存していたヨーロッパ諸国に大きな影響を及ぼし、まもなく恐慌はソ連を除く全世界に広まり、この世界史上例を見ない程の大規模で深刻な恐慌は世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)と呼ばれています。
世界恐慌がアメリカから起こった原因としては以下の事例があります。
1.自動車・化学・電気等の新しい産業の発展・産業の合理化による工業生産力の増大・それに伴う過剰な設備投資等によって工業製品が生産過剰に陥っていた事。
2.高関税政策の影響で国際貿易が伸び悩んでいた事。
3、農業部門でも、戦争中からの増産によって農産物の供給が急増していたところへ、戦後ヨーロッパの復興によってヨーロッパの需要が減少し、農産物価格が急落して農業不況が深刻化していた事。
4、農業不況によって農民の購買力が低下し、又生産性の伸びに比べて労働者の賃金が低く抑えられ為国民の購買力が低下した事。
要約すれば、生産過剰と国民の購買力の低下によって需要と供給のバランスが大きく崩れた事が原因でした。
そして、戦後世界の資本がアメリカに集中し、それが土地や株式の投機に回され、過剰な投機ブームが起こっていた事が、株価大暴落の直接の原因となりました。

ハーバート・クラーク・フーヴァー(Herbert Clark Hoover, 1874年8月10日 - 1964年10月20日)・Wikipediaより
1929年3月に就任した第31代大統領フーヴァー(在任1929年~33年)は「私は我国の将来に何らの不安を抱いていない。未来は希望に輝いている」と演説しましたが、この頃既に石炭・造船・鉄道・住宅建設等の業種は不況に苦しんでおり、農業の不況は深刻化し、農産物価格の下落は続いていたのです。
にもかかわらず、株式市場では1929年9月迄株価は上昇を続け、1929年9月の平均株価は、8年前に比べて4.5倍、3年前に比べても2倍になっていました。

恐慌発生時の株価平均の推移、1928年-1930年
その後、乱高下をくり返していた株価が、1929年10月24日(暗黒の木曜日)に突然大暴落します。28・29日にも大暴落は続き、株価は1ヶ月で40%も暴落し、株価の下落は以後3年間続いきました。
株式恐慌は国民経済の全ての分野に大打撃を与え、生産は減退し、企業や銀行の倒産が相次ぎ、失業者は増大します。
1932年迄の3年間に約5000の銀行が倒産し、国民所得は51%・工業生産は46%・企業売上げは50%・全農産物の価格は45%・輸出は36%それぞれ下落しました。

食事配給に並ぶ失業者の列
恐慌が始まるとアメリカはヨーロッパから資本を引き上げた結果、戦後アメリカ経済に頼っていたヨーロッパ諸国は大打撃を受け、特に莫大な賠償金の支払いに苦しみながらもアメリカ資本によって立ち直りかけていたドイツ経済は再び破綻し、その結果賠償金を受け取れなくなったイギリス・フランス等も恐慌に見まわれ、恐慌はソ連を除く全世界に広がって世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)と成ったのです。
アメリカ大統領のフーヴァーは、1931年6月にドイツの賠償金や連合国の戦債の支払いを1年間停止するフーヴァー・モラトリアムを提唱しましたが実効は上がらず、更にフーヴァーは個人主義・民間のイニシアティブに固執し、公共事業・福祉事業・失業保険等を連邦政府の国債発行によって賄うことを拒否した為に、彼の恐慌対策は効果を上げることが出来ず、恐慌を乗り切ることは出来ませんでした。

フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt 1882年1月30日 - 1945年4月12日)・Wikipediaより
その為「フーヴァーで無ければ誰でも良い」と揶揄される様になり、1932年の大統領選挙では民主党のフランクリン・ルーズヴェルトに政権を譲る事になります。
フランクリン・ルーズヴェルト(1882年~1945、在任1933年~45年)はニューヨークに生まれ、ハーヴァード大学で学んだ後に弁護士となり、1910年に政界入し、ニューヨーク州上院議員・海軍次官・民主党大統領候補(1920年、落選)を経て、1929年にニューヨーク州知事となり、革新的な政策で知られ、世界恐慌最中の大統領選挙で現職のフーヴァーを破って第32代大統領に就任しました(1933年3月)。
フランクリン・ルーズヴェルトは就任直後に特別議会を召集し、ニューディール政策と呼ばれる恐慌克服策の根幹となる法律を次々に制定して行きました。
ニューディールとは「新規まきかえし」の意味で、ニューディール政策の基本政策はRelief(救済)・Recovery(回復)・Reform(改革)の頭文字を取って3R政策と呼ばれます。
ニューディール政策は今迄の自由放任に代えて、国家が経済に積極的に介入し、統制を行って景気と国民生活の立て直しを図ろうとする政策で、完全雇用実現の為には政府による有効需要の創出が重要であると主張した修正資本主義の代表的な理論家であるイギリスの経済学者ケインズ(1883年~1946年)の理論を初めて実施した政策でした。

テネシー川流域開発公社のエンブレム
ニューディール政策の根幹となった法律は、農業調整法(AAA、1935年5月)・全国産業復興法(NIRA、1933年6月)・テネシー川流域開発公社(TVA)の設立(1933年5月)等です。
1. 農業調整法(Agricultural Adjustment Actの頭文字をとってAAAと呼ばれる)は小麦・とうもろこし・綿花等の主要作物の作付面積や販売用生産を削減する一方で過剰農産物を政府が買い上げる等農産物価格を安定させ、農民の救済とその購買力の回復を目ざした法律です。
2.全国産業復興法(National Industrial Recovery Actの頭文字をとってNIRA、通称ニラと呼ばれる)は企業に独占禁止法の適用を停止して公正競争の規約を結ばせ、生産を規制すると共に企業の適正な利潤を確保させ、他方で労働者の団結権・団体交渉権を認めて適正な賃金の確保を図らせ、生産力と購買力を回復させる事を目的とした法律ですが、NIRAは1935年に最高裁判所によって違憲判決を受けた結果、その中の労働者の権利に関する部分をワグナー法として制定しました(1935年7月)。
3.テネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authoityの頭文字をとってTVAと呼ばれる)は電力開発・治水・土地保全・植林・農工業の振興等を目的とする地域総合開発計画であり、政府が巨大なダム建設等の公共事業を行い、この事業に多くの失業者を吸収し、賃金を支払う事で購買力を増やすことを目的としました。
1935年に制定されたワグナー法によって労働者の団結権と団体交渉権が認められたことから労働組合運動も発展し、同年産業別組織会議(CIO)が結成されました。
CIOは熟練労働者を中心とするAFL(アメリカ労働総同盟)に対抗して、未熟練労働者を中心に組織され、1938年にAFLから分離・独立しました。
1935年には社会保険法も成立し、失業保険制度や老齢年金制度等が定められます。

ヒトラーとムッソリーニ
世界恐慌が長引く中で恐慌克服策の一環として外交政策を改め、従来の孤立主義・膨張主義から善隣友好政策に転換、1933年にはソ連を承認して、列強の中でアメリカだけは長い間ソ連を承認しなかったのですが、ファシズム諸国の台頭に対抗する為、そしてソ連市場への輸出の拡大を図る為に追認承認に踏み切ったのでした。
又ラテン・アメリカ諸国に対しても、従来のカリブ海政策を改めて善隣外交(善隣友好政策)に転じ、ラテン・アメリカ諸国との友好に努めますが、その背景にもラテン・アメリカ諸国への輸出を拡大したいという意図が存在しました。
1933年に開かれたパン・アメリカ会議で、アメリカは善隣友好の方針を表明し、キューバに対してはプラット条項を廃止して完全独立を承認しました(1934年5月)。
フィリピンに対しても、1934年に独立法案を成立させ、翌1935年に自治を認め、10年後の完全独立を約束しました。
こうしたニューディール政策の実施や外交政策の転換等によって、アメリカの経済・社会は1935年頃にはようやく安定をとり戻したのです。
フランクリン・ルーズヴェルトは1936年の大統領選挙では労働者等の支持を得て圧倒的な勝利をおさめて再選されます(1940年3選、1944年4選)。
尚、現在のアメリカでは大統領の3選は憲法で禁止されているので(1951年憲法修正第22号)、フランクリン・ルーズヴェルトはアメリカ史上唯一人の4選された大統領となったのです。
名言集
幸せとは、達成感の中にある喜びであり、創造的な努力に対する興奮である。
Happiness lies in the joy of achievement and the thrill of creative effort.
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)
今日1月21日で、ジロくんが旅立って100ヶ日になります。

平成29年4月13日・若宮神社境内にて
ジロくん、貴方とは、何時までも一緒だよ。
続く・・・
1世界経済恐慌とアメリカのニューディール

1929年の大暴落の後でウォール街に集まる群衆・Wikipediaより
1929年10月24日(暗黒の木曜日)に起こった、ニューヨーク株式取引所(ウォール街)での株価の大暴落をきっかけとしてアメリカで大恐慌が始まりました。
この恐慌は、第一次世界大戦後アメリカ資本に依存していたヨーロッパ諸国に大きな影響を及ぼし、まもなく恐慌はソ連を除く全世界に広まり、この世界史上例を見ない程の大規模で深刻な恐慌は世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)と呼ばれています。
世界恐慌がアメリカから起こった原因としては以下の事例があります。
1.自動車・化学・電気等の新しい産業の発展・産業の合理化による工業生産力の増大・それに伴う過剰な設備投資等によって工業製品が生産過剰に陥っていた事。
2.高関税政策の影響で国際貿易が伸び悩んでいた事。
3、農業部門でも、戦争中からの増産によって農産物の供給が急増していたところへ、戦後ヨーロッパの復興によってヨーロッパの需要が減少し、農産物価格が急落して農業不況が深刻化していた事。
4、農業不況によって農民の購買力が低下し、又生産性の伸びに比べて労働者の賃金が低く抑えられ為国民の購買力が低下した事。
要約すれば、生産過剰と国民の購買力の低下によって需要と供給のバランスが大きく崩れた事が原因でした。
そして、戦後世界の資本がアメリカに集中し、それが土地や株式の投機に回され、過剰な投機ブームが起こっていた事が、株価大暴落の直接の原因となりました。

ハーバート・クラーク・フーヴァー(Herbert Clark Hoover, 1874年8月10日 - 1964年10月20日)・Wikipediaより
1929年3月に就任した第31代大統領フーヴァー(在任1929年~33年)は「私は我国の将来に何らの不安を抱いていない。未来は希望に輝いている」と演説しましたが、この頃既に石炭・造船・鉄道・住宅建設等の業種は不況に苦しんでおり、農業の不況は深刻化し、農産物価格の下落は続いていたのです。
にもかかわらず、株式市場では1929年9月迄株価は上昇を続け、1929年9月の平均株価は、8年前に比べて4.5倍、3年前に比べても2倍になっていました。

恐慌発生時の株価平均の推移、1928年-1930年
その後、乱高下をくり返していた株価が、1929年10月24日(暗黒の木曜日)に突然大暴落します。28・29日にも大暴落は続き、株価は1ヶ月で40%も暴落し、株価の下落は以後3年間続いきました。
株式恐慌は国民経済の全ての分野に大打撃を与え、生産は減退し、企業や銀行の倒産が相次ぎ、失業者は増大します。
1932年迄の3年間に約5000の銀行が倒産し、国民所得は51%・工業生産は46%・企業売上げは50%・全農産物の価格は45%・輸出は36%それぞれ下落しました。

食事配給に並ぶ失業者の列
恐慌が始まるとアメリカはヨーロッパから資本を引き上げた結果、戦後アメリカ経済に頼っていたヨーロッパ諸国は大打撃を受け、特に莫大な賠償金の支払いに苦しみながらもアメリカ資本によって立ち直りかけていたドイツ経済は再び破綻し、その結果賠償金を受け取れなくなったイギリス・フランス等も恐慌に見まわれ、恐慌はソ連を除く全世界に広がって世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)と成ったのです。
アメリカ大統領のフーヴァーは、1931年6月にドイツの賠償金や連合国の戦債の支払いを1年間停止するフーヴァー・モラトリアムを提唱しましたが実効は上がらず、更にフーヴァーは個人主義・民間のイニシアティブに固執し、公共事業・福祉事業・失業保険等を連邦政府の国債発行によって賄うことを拒否した為に、彼の恐慌対策は効果を上げることが出来ず、恐慌を乗り切ることは出来ませんでした。

フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt 1882年1月30日 - 1945年4月12日)・Wikipediaより
その為「フーヴァーで無ければ誰でも良い」と揶揄される様になり、1932年の大統領選挙では民主党のフランクリン・ルーズヴェルトに政権を譲る事になります。
フランクリン・ルーズヴェルト(1882年~1945、在任1933年~45年)はニューヨークに生まれ、ハーヴァード大学で学んだ後に弁護士となり、1910年に政界入し、ニューヨーク州上院議員・海軍次官・民主党大統領候補(1920年、落選)を経て、1929年にニューヨーク州知事となり、革新的な政策で知られ、世界恐慌最中の大統領選挙で現職のフーヴァーを破って第32代大統領に就任しました(1933年3月)。
フランクリン・ルーズヴェルトは就任直後に特別議会を召集し、ニューディール政策と呼ばれる恐慌克服策の根幹となる法律を次々に制定して行きました。
ニューディールとは「新規まきかえし」の意味で、ニューディール政策の基本政策はRelief(救済)・Recovery(回復)・Reform(改革)の頭文字を取って3R政策と呼ばれます。
ニューディール政策は今迄の自由放任に代えて、国家が経済に積極的に介入し、統制を行って景気と国民生活の立て直しを図ろうとする政策で、完全雇用実現の為には政府による有効需要の創出が重要であると主張した修正資本主義の代表的な理論家であるイギリスの経済学者ケインズ(1883年~1946年)の理論を初めて実施した政策でした。

テネシー川流域開発公社のエンブレム
ニューディール政策の根幹となった法律は、農業調整法(AAA、1935年5月)・全国産業復興法(NIRA、1933年6月)・テネシー川流域開発公社(TVA)の設立(1933年5月)等です。
1. 農業調整法(Agricultural Adjustment Actの頭文字をとってAAAと呼ばれる)は小麦・とうもろこし・綿花等の主要作物の作付面積や販売用生産を削減する一方で過剰農産物を政府が買い上げる等農産物価格を安定させ、農民の救済とその購買力の回復を目ざした法律です。
2.全国産業復興法(National Industrial Recovery Actの頭文字をとってNIRA、通称ニラと呼ばれる)は企業に独占禁止法の適用を停止して公正競争の規約を結ばせ、生産を規制すると共に企業の適正な利潤を確保させ、他方で労働者の団結権・団体交渉権を認めて適正な賃金の確保を図らせ、生産力と購買力を回復させる事を目的とした法律ですが、NIRAは1935年に最高裁判所によって違憲判決を受けた結果、その中の労働者の権利に関する部分をワグナー法として制定しました(1935年7月)。
3.テネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authoityの頭文字をとってTVAと呼ばれる)は電力開発・治水・土地保全・植林・農工業の振興等を目的とする地域総合開発計画であり、政府が巨大なダム建設等の公共事業を行い、この事業に多くの失業者を吸収し、賃金を支払う事で購買力を増やすことを目的としました。
1935年に制定されたワグナー法によって労働者の団結権と団体交渉権が認められたことから労働組合運動も発展し、同年産業別組織会議(CIO)が結成されました。
CIOは熟練労働者を中心とするAFL(アメリカ労働総同盟)に対抗して、未熟練労働者を中心に組織され、1938年にAFLから分離・独立しました。
1935年には社会保険法も成立し、失業保険制度や老齢年金制度等が定められます。

ヒトラーとムッソリーニ
世界恐慌が長引く中で恐慌克服策の一環として外交政策を改め、従来の孤立主義・膨張主義から善隣友好政策に転換、1933年にはソ連を承認して、列強の中でアメリカだけは長い間ソ連を承認しなかったのですが、ファシズム諸国の台頭に対抗する為、そしてソ連市場への輸出の拡大を図る為に追認承認に踏み切ったのでした。
又ラテン・アメリカ諸国に対しても、従来のカリブ海政策を改めて善隣外交(善隣友好政策)に転じ、ラテン・アメリカ諸国との友好に努めますが、その背景にもラテン・アメリカ諸国への輸出を拡大したいという意図が存在しました。
1933年に開かれたパン・アメリカ会議で、アメリカは善隣友好の方針を表明し、キューバに対してはプラット条項を廃止して完全独立を承認しました(1934年5月)。
フィリピンに対しても、1934年に独立法案を成立させ、翌1935年に自治を認め、10年後の完全独立を約束しました。
こうしたニューディール政策の実施や外交政策の転換等によって、アメリカの経済・社会は1935年頃にはようやく安定をとり戻したのです。
フランクリン・ルーズヴェルトは1936年の大統領選挙では労働者等の支持を得て圧倒的な勝利をおさめて再選されます(1940年3選、1944年4選)。
尚、現在のアメリカでは大統領の3選は憲法で禁止されているので(1951年憲法修正第22号)、フランクリン・ルーズヴェルトはアメリカ史上唯一人の4選された大統領となったのです。
名言集
幸せとは、達成感の中にある喜びであり、創造的な努力に対する興奮である。
Happiness lies in the joy of achievement and the thrill of creative effort.
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)
今日1月21日で、ジロくんが旅立って100ヶ日になります。

平成29年4月13日・若宮神社境内にて
ジロくん、貴方とは、何時までも一緒だよ。
続く・・・
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