歴史を歩く206
43ファシズムの台頭④
4ナチス・ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊(その1)

国家社会主義ドイツ労働者党: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 略称: NSDAP)
1920年代後半にやっと安定を取り戻したドイツは、世界恐慌によって深刻な打撃を受け、国民生活は混乱し、議会政治は危機に陥りました。
こうした状況の中で急速に勢力を伸ばしたナチスは、1933年1月、ついに政権を獲得し、ヒトラー内閣の成立を見ます。

アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)
アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年)はオーストリア、ブラウナウで下級税関官吏の家庭に生まれ、実科学校を中退した彼は画家を志してウィーンに出て美術学校を受験しますが不合格(1907年)、翌年もその志は達成されず、やむを得ずヒトラーはウィーンの街頭で、自分の書いた絵を売り、又日雇い労働者をしながら食べる物にも事欠くような困窮の生活を送っていました。
その後、一時ミュンヘンにも移り住みますが(1913年)、1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、即座にバイエルン連隊に志願兵として入隊しました。

第一次世界大戦従軍時代のヒトラー(右)と戦友
フランドル戦線に派遣されたヒトラーは勇敢に戦い、戦地では危険な伝令兵として活躍、2度負傷し、陸軍病院で敗戦を迎え、退院後はバイエルンの連隊に戻ります。
軍の政治工作員となったヒトラーは、ドイツ労働者党と云う小さな右翼政治団体の調査を命じられて入党しました(1919年9月)。
その巧みな煽動演説と精力的な活動によって頭角を現し、間も無く党の指導者となりました(1921年7月)。
この間、1920年2月には「25カ条の綱領」が発表され、党名もドイツ労働者党から国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(映画等で使用されるナチスは政敵からの呼称で正式名称では無く党員自身が使用する事は無かった)に改称されました。
「25カ条の綱領」の主な内容は以下の通りでした(抜粋)。
1 我々は、諸国民の民族自決権の原則に則り、大ドイツ国を樹立する為、全ドイツ人が統合する事を要求する。
2 我々は、他国民に対するドイツ民族の平等権を要求し、ヴェルサイユ条約及びサン・ジェルマン平和条約の破棄を要求する。
3 我々は、わが国民を養い、過剰人口を移住せしめる為に、土地及び領土(植民地)を要求する。
4 ドイツ民族同胞たる者のみが、ドイツ国公民たり得る。
ドイツ人の血統を持つ者のみが宗派の如何を問わず、ドイツ民族同胞たり得る。
従って全てのユダヤ人はドイツ民族同胞たり得ない。
8 非ドイツ人のこれ以上の流入は阻止されねばならない。
我々は、1914年8月2日以降ドイツ国に流入したすべての非ドイツ人を、即時強制的に国外へ退去せしめる事を要求する。
22 我々は、傭兵軍隊の廃止と、国民軍の建設を要求する。
25 以上全ての要求を貫徹する為、我々は、ドイツ国に強力な中央権力を創設する事を要求する。(山川出版社、世界史史料・名言集より)
この様に大ドイツの建設・ヴェルサイユ条約の破棄・領土の要求・ユダヤ人の迫害等後にヒトラーが実現に努力した国粋主義的な政策が掲げられており、又11~17には不労所得の廃止・戦時利得の没収・トラストの国有化・養老制度の拡張・土地改革等の社会主義的な政策も掲げられていますが、これらは党勢拡大の為の装飾で在り、その後ヒトラーによって無視されたのは周知の事実です。

ミュンヘン一揆で市内を占拠するナチス党員
ナチスが一躍注目を集めるようになったのは、1923年11月のミュンヘン一揆でした。
1923年、フランス・ベルギーによるルール占領によって1兆倍に及ぶ破局的なハイパーインフレーションが起こり、政治不安が激化すると、同年11月、ナチスはヴァイマル政府の打倒と政権獲得を目ざして起こしたクーデターがミュンヘン一揆です。
しかし、このミュンヘン一揆は国防軍によって鎮圧され、ヒトラーは逮捕され、翌年の裁判で有罪を宣告され、9ヶ月間投獄されますが、この間、獄中での口述筆記が有名な『わが闘争』(1925年に上巻、27年に下巻が出版された)で、ナチスのバイブルとなりました。

ハイパーインフレーション(紙幣が紙くず同然に)
出獄後、ヒトラーは戦術を転換し、選挙による合法的な政権獲得を目ざしますが、当時のドイツは政治・経済・社会が安定期に向かっていた為、ナチスの勢力はほとんど伸びず、1928年5月の選挙では総投票数の2.6%・12議席を獲得したに過ぎませんでした。
1929年に始まった世界恐慌がドイツに及ぶと、アメリカ資本に依存していたドイツ経済はたちまち破綻の危機に瀕し、企業の倒産が相次ぎ、工業生産は急落(1929年を100とする工業生産高の指数は1932年には53.3となった)、失業者数は600万人を超えました。

ヒンデンブルクとヒトラーの選挙広告(1932年3月)
こうした状況の中で、ナチスの唱える現状打破、特にヴェルサイユ体制破棄の主張はドイツ人の心を捉え、ナチスはその巧みな宣伝・扇動によって従来の政党に失望した中産階級の支持を得、1930年9月の選挙では総投票数の18.3%を獲得し、議席数を12から一挙に107議席に躍進、社会民主党(143議席)に次ぐ第2党に成長しましたが、その一方でこの選挙では労働者に支持された共産党も54から77へと議席数を増加させています。
共産党の進出を恐れた資本家(特に金融資本家と重工業資本家)とユンカー(大地主)はナチス支持に傾き、ナチスに財政援助を行い、更に軍部もナチスを支持した為、1932年7月の選挙ではナチスは総投票数の37.4%・230議席を獲得し、ついに第1党と成り、ヒトラーは入閣を求められたが組閣を求めてこれを拒絶します(1932年8月)。

ヒトラー内閣成立を祝って松明行進を行う突撃隊。1933年1月30日
1932年11月の選挙でもナチスは第1党では在りますが196と議席を減らし、一方共産党は100議席(1932年7月選挙では89議席)と議席を更に増やし、この共産党の進出に脅威を感じた資本家やユンカーは益々ナチス支持を強め、内閣を総辞職に追い込んだ結果、ヒンデンブルク大統領はヒトラーに組閣を許し、1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が成立したのです。
しかし、この時ヒトラー内閣は連立内閣で過半数に達しておらず、ヒトラーは直ちに議会を解散し、1933年3月の選挙では総投票数の43.9%・288議席という圧倒的多数を獲得しますが、この選挙では、ナチスは豊富な資金を用いて大々的な宣伝を行う一方で、暴力で反対党の選挙運動を妨害するなど未曾有のテロと脅迫を行っています。

国会議事堂放火事件
特に1932年2月27日夜、国会議事堂放火事件が起こると、放火犯人として前オランダ共産党員のルッベらを逮捕し、これを共産党の陰謀として共産党を弾圧が激しさを増して行きました。
この事件については現在でも不明な点も多いのですが、ゲーリング等ナチス首脳が計画した放火説が有力である事は間違い無いと思われます。
ナチスは国会議事堂放火事件の翌日、緊急令を発し、憲法が保障する言論・出版の自由等の基本権を停止し、又共産党を非合法化して数千人の共産党員を逮捕しました。
こうして3月5日の選挙では288議席を獲得しますが、与党の国家人民党の52議席を加えても3分の2(憲法改正に必要な数)に達しておらず、共産党議員81名の当選を無効とし、1933年3月24日には全権委任法(授権法)を成立させました。
全権委任法は、以後4年間国会や大統領の承認無しに政府の立法権を認める内容で、これによってヒトラーの独裁体制が確立されたのです。

パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク
(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg、1847年10月2日 - 1934年8月2日)
独裁権を握ったヒトラーは、労働組合を禁止し(1933年5月)、同年7月迄にはナチス以外の全政党を解散させ、ナチスの一党独裁体制を確立しました。
ヒトラーは、1934年8月にヒンデンブルク大統領が亡くなると、総統(フューラー)に就任し、大統領・首相・党首の全権を掌握し、名実共に独裁者となったのです。
続く・・・

ジロくんの思い出:平成29年3月10日 北九州市小倉南区城野自宅
4ナチス・ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊(その1)

国家社会主義ドイツ労働者党: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 略称: NSDAP)
1920年代後半にやっと安定を取り戻したドイツは、世界恐慌によって深刻な打撃を受け、国民生活は混乱し、議会政治は危機に陥りました。
こうした状況の中で急速に勢力を伸ばしたナチスは、1933年1月、ついに政権を獲得し、ヒトラー内閣の成立を見ます。

アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)
アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年)はオーストリア、ブラウナウで下級税関官吏の家庭に生まれ、実科学校を中退した彼は画家を志してウィーンに出て美術学校を受験しますが不合格(1907年)、翌年もその志は達成されず、やむを得ずヒトラーはウィーンの街頭で、自分の書いた絵を売り、又日雇い労働者をしながら食べる物にも事欠くような困窮の生活を送っていました。
その後、一時ミュンヘンにも移り住みますが(1913年)、1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、即座にバイエルン連隊に志願兵として入隊しました。

第一次世界大戦従軍時代のヒトラー(右)と戦友
フランドル戦線に派遣されたヒトラーは勇敢に戦い、戦地では危険な伝令兵として活躍、2度負傷し、陸軍病院で敗戦を迎え、退院後はバイエルンの連隊に戻ります。
軍の政治工作員となったヒトラーは、ドイツ労働者党と云う小さな右翼政治団体の調査を命じられて入党しました(1919年9月)。
その巧みな煽動演説と精力的な活動によって頭角を現し、間も無く党の指導者となりました(1921年7月)。
この間、1920年2月には「25カ条の綱領」が発表され、党名もドイツ労働者党から国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(映画等で使用されるナチスは政敵からの呼称で正式名称では無く党員自身が使用する事は無かった)に改称されました。
「25カ条の綱領」の主な内容は以下の通りでした(抜粋)。
1 我々は、諸国民の民族自決権の原則に則り、大ドイツ国を樹立する為、全ドイツ人が統合する事を要求する。
2 我々は、他国民に対するドイツ民族の平等権を要求し、ヴェルサイユ条約及びサン・ジェルマン平和条約の破棄を要求する。
3 我々は、わが国民を養い、過剰人口を移住せしめる為に、土地及び領土(植民地)を要求する。
4 ドイツ民族同胞たる者のみが、ドイツ国公民たり得る。
ドイツ人の血統を持つ者のみが宗派の如何を問わず、ドイツ民族同胞たり得る。
従って全てのユダヤ人はドイツ民族同胞たり得ない。
8 非ドイツ人のこれ以上の流入は阻止されねばならない。
我々は、1914年8月2日以降ドイツ国に流入したすべての非ドイツ人を、即時強制的に国外へ退去せしめる事を要求する。
22 我々は、傭兵軍隊の廃止と、国民軍の建設を要求する。
25 以上全ての要求を貫徹する為、我々は、ドイツ国に強力な中央権力を創設する事を要求する。(山川出版社、世界史史料・名言集より)
この様に大ドイツの建設・ヴェルサイユ条約の破棄・領土の要求・ユダヤ人の迫害等後にヒトラーが実現に努力した国粋主義的な政策が掲げられており、又11~17には不労所得の廃止・戦時利得の没収・トラストの国有化・養老制度の拡張・土地改革等の社会主義的な政策も掲げられていますが、これらは党勢拡大の為の装飾で在り、その後ヒトラーによって無視されたのは周知の事実です。

ミュンヘン一揆で市内を占拠するナチス党員
ナチスが一躍注目を集めるようになったのは、1923年11月のミュンヘン一揆でした。
1923年、フランス・ベルギーによるルール占領によって1兆倍に及ぶ破局的なハイパーインフレーションが起こり、政治不安が激化すると、同年11月、ナチスはヴァイマル政府の打倒と政権獲得を目ざして起こしたクーデターがミュンヘン一揆です。
しかし、このミュンヘン一揆は国防軍によって鎮圧され、ヒトラーは逮捕され、翌年の裁判で有罪を宣告され、9ヶ月間投獄されますが、この間、獄中での口述筆記が有名な『わが闘争』(1925年に上巻、27年に下巻が出版された)で、ナチスのバイブルとなりました。

ハイパーインフレーション(紙幣が紙くず同然に)
出獄後、ヒトラーは戦術を転換し、選挙による合法的な政権獲得を目ざしますが、当時のドイツは政治・経済・社会が安定期に向かっていた為、ナチスの勢力はほとんど伸びず、1928年5月の選挙では総投票数の2.6%・12議席を獲得したに過ぎませんでした。
1929年に始まった世界恐慌がドイツに及ぶと、アメリカ資本に依存していたドイツ経済はたちまち破綻の危機に瀕し、企業の倒産が相次ぎ、工業生産は急落(1929年を100とする工業生産高の指数は1932年には53.3となった)、失業者数は600万人を超えました。

ヒンデンブルクとヒトラーの選挙広告(1932年3月)
こうした状況の中で、ナチスの唱える現状打破、特にヴェルサイユ体制破棄の主張はドイツ人の心を捉え、ナチスはその巧みな宣伝・扇動によって従来の政党に失望した中産階級の支持を得、1930年9月の選挙では総投票数の18.3%を獲得し、議席数を12から一挙に107議席に躍進、社会民主党(143議席)に次ぐ第2党に成長しましたが、その一方でこの選挙では労働者に支持された共産党も54から77へと議席数を増加させています。
共産党の進出を恐れた資本家(特に金融資本家と重工業資本家)とユンカー(大地主)はナチス支持に傾き、ナチスに財政援助を行い、更に軍部もナチスを支持した為、1932年7月の選挙ではナチスは総投票数の37.4%・230議席を獲得し、ついに第1党と成り、ヒトラーは入閣を求められたが組閣を求めてこれを拒絶します(1932年8月)。

ヒトラー内閣成立を祝って松明行進を行う突撃隊。1933年1月30日
1932年11月の選挙でもナチスは第1党では在りますが196と議席を減らし、一方共産党は100議席(1932年7月選挙では89議席)と議席を更に増やし、この共産党の進出に脅威を感じた資本家やユンカーは益々ナチス支持を強め、内閣を総辞職に追い込んだ結果、ヒンデンブルク大統領はヒトラーに組閣を許し、1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が成立したのです。
しかし、この時ヒトラー内閣は連立内閣で過半数に達しておらず、ヒトラーは直ちに議会を解散し、1933年3月の選挙では総投票数の43.9%・288議席という圧倒的多数を獲得しますが、この選挙では、ナチスは豊富な資金を用いて大々的な宣伝を行う一方で、暴力で反対党の選挙運動を妨害するなど未曾有のテロと脅迫を行っています。

国会議事堂放火事件
特に1932年2月27日夜、国会議事堂放火事件が起こると、放火犯人として前オランダ共産党員のルッベらを逮捕し、これを共産党の陰謀として共産党を弾圧が激しさを増して行きました。
この事件については現在でも不明な点も多いのですが、ゲーリング等ナチス首脳が計画した放火説が有力である事は間違い無いと思われます。
ナチスは国会議事堂放火事件の翌日、緊急令を発し、憲法が保障する言論・出版の自由等の基本権を停止し、又共産党を非合法化して数千人の共産党員を逮捕しました。
こうして3月5日の選挙では288議席を獲得しますが、与党の国家人民党の52議席を加えても3分の2(憲法改正に必要な数)に達しておらず、共産党議員81名の当選を無効とし、1933年3月24日には全権委任法(授権法)を成立させました。
全権委任法は、以後4年間国会や大統領の承認無しに政府の立法権を認める内容で、これによってヒトラーの独裁体制が確立されたのです。

パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク
(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg、1847年10月2日 - 1934年8月2日)
独裁権を握ったヒトラーは、労働組合を禁止し(1933年5月)、同年7月迄にはナチス以外の全政党を解散させ、ナチスの一党独裁体制を確立しました。
ヒトラーは、1934年8月にヒンデンブルク大統領が亡くなると、総統(フューラー)に就任し、大統領・首相・党首の全権を掌握し、名実共に独裁者となったのです。
続く・・・

ジロくんの思い出:平成29年3月10日 北九州市小倉南区城野自宅
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