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2019/04/30

平成にお別れ

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「新しい元号は『へいせい』であります」。
1989年1月7日午後、小渕恵三官房長官が記者会見室で、「平成」と墨で書かれた2文字を掲げました。
当時、私は社会人5年目でした。
色々な思い出が在る平成。
そんな平成の時代も残りわずかですね。

令和の時代が、より良い時代となります様に。
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2019/04/26

歴史を歩く208

43ファシズムの台頭⑥

6日本軍部の台頭と満州事変

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鹿子木孟郎《大正十二年九月一日》1924年、 東京都現代美術館蔵

 第一次世界大戦が終わった1920年、日本は大戦景気の反動から戦後恐慌に襲われ、更に関東大震災(1923年9月)によって日本経済は大打撃を受け、1927年3月には震災手形(関東大震災の為に支払えなくなった手形)の処理を巡る金融恐慌が発生し、銀行・会社の倒産が続出しました。

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張作霖爆殺事件『歴史と人物 昭和61年冬号』

 その直後に成立した田中内閣(1927年4月~29年7月)は金融恐慌の処理に応たると共に、対外的には中国に対して積極外交(強硬外交)を展開し、山東出兵(1927年5月~28年5月)を行って済南事件(1928年5月、日本軍と北伐軍の衝突事件)を起こします。
しかし、田中内閣は張作霖爆殺事件(満州某重大事件、1928年6月)の責任問題で退陣し、浜口内閣(1929年7月~31年4月)が成立しました。

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大根を噛じる欠食児童

 浜口内閣の成立からまもなく世界恐慌が始まり、浜口内閣はこの時期に金解禁(1930年1月)を断行した結果、大量の金流出・企業の倒産・失業者の増大を招き、日本経済は深刻な不況に陥って行きます(昭和恐慌)。

 鉱工業生産は1926年を100とすると、1931年には75に落ちこみ、失業者は50万人近くに達し(帰農者を含めると300万人以上とも云われている)、労働争議が多発、又生糸・米の値段の暴落や北海道・東北の冷害・大凶作で農村の困窮が深刻化し、小作争議が激増し、欠食児童や娘の身売り等が社会問題となりました。

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ロンドン海軍軍縮条約

 浜口内閣(外相は幣原(しではら)喜重郎)は対外的には協調外交を進め、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、中国に対してもその主権を尊重し、内政に武力干渉することは避けて日本の権益の擁護を図りますが、陸軍を主体とする軍部は、幣原外交を軟弱外交として非難し、これに強く反対し、特に政府が軍令部の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を調印した事は、天皇の統帥権(とうすいけん、軍隊の指揮統率権)を犯すものとして政府を激しく攻撃しました。

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事件直後の柳条湖の爆破現場

 この様な動きと結びついて、軍部内では世界恐慌による国内の危機を打開するために満州(当時の日本における中国東北地方の呼称)・内蒙古全域を植民地とし、その為に満蒙問題を武力で解決しようとする動きが強まって行きます。
1931年(昭和6年)9月18日夜、関東軍(関東州(旅順・大連とその付属地域)と南満州鉄道の警備を主任務とする日本陸軍部隊)の一部部隊は奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を自等爆破し、これを張学良軍の破壊行為として軍事行動を起こし(柳条湖事件)、翌朝迄に奉天全市を占領しました。

 この日本軍の行動に対して蒋介石は不抵抗政策を命じ、張学良がそれに従った結果、関東軍は極めて短期間に長春・営口・吉林等満鉄沿線の主要都市を占領します。

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満州国の建国時のポスター
「五族協和」を示しており、右から日本・モンゴル族・満州族・朝鮮族・漢民族を表す。


 第2次若槻内閣(1931年4月~31年12月)は不拡大方針を表明(1931年9月24日)しますが、関東軍は更に満州全域に軍を進め、翌1932年2月にはハルビンを占領し、開戦以来約半年で熱河を除く満州全域をほぼ制圧、1932年3月には満州国を建国しました。
上記の軍部による一連の行動が満州事変(1931年9月~32年3月)であり、柳条湖事件は満州事変以後、日中(日支事変・支那事変)戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)迄の十五年戦争(1931年9月~45年8月)の発端となりました。

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柳条湖に於いて南満州鉄道線路の爆破現場を検証するリットン調査団

 中国国民政府は日本の軍事行動に対して不抵抗政策を採ると共に、国際連盟に提訴(1931年9月21日)します。
しかしながらリットン調査団が編成されたのは1931年末で、調査団は1932年2月から9月にかけて中国・日本を視察して10月に報告書を提出しますが、その時には既に満州国が建国された後でした。

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上海北停車場方面第一線に展開する帝国海軍陸戦隊

 柳条湖事件に次いで、1932年1月には上海事変が勃発し、満州事変以来、排日運動が激化していた上海で日本人の日蓮宗僧侶が殺傷される事件(この事件も日本軍による謀略とされている)が起こると、日本軍は軍事行動を起こし、中国軍と戦闘状態に突入します。
陸海軍の増援を得た日本軍は2月下旬から総攻撃を行い、激戦が続き、3月初め頃から中国軍の抵抗が弱まった事から戦闘はほぼ終わり、5月に停戦協定が結ばれました。

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天津時代の溥儀と婉容

 日本は、列強の目が上海に注がれている間に満州国建設の計画を進め、当時天津の日本租界の近くに蟄居していた清朝最後の宣統帝溥儀(1906年~67年、清朝皇帝・在位1908年~12年、満州国皇帝・在位1934年~45年)を天津から連れ出し(1931年11月)、1932年3月1日に溥儀を執政とする満州国の建国を宣言、その後満州国は帝政に移行した為、溥儀は満州国皇帝の地位に就きました(1934年3月)。

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日満議定書に基づく満州国承認とそれに伴うポスター

 日本は、1932年9月に満州国を承認し、日満議定書を締結します。
日満議定書で、満州国は日本がそれまで満蒙において有していた全ての権益を承認し、日本の駐兵権を全国に拡大することを認め、又満州国政府の重要なポストは日本人顧問・官吏を登用する事により実権を掌握した結果、満州国は完全に傀儡(かいらい)政権であり、事実上日本の植民地でした。

 この間、日本国内では1932年5月15日に、海軍青年将校と右翼が首相官邸等を襲って犬養首相(在任1931年12月~32年5月)を暗殺する五・一五事件が起こり、この事件によって政党政治は終わりを告げ、以後軍部の発言権がますます強くなって行きます。

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山海関占領

 1932年10月にはリットン調査団の報告書が発表されます。
報告書は、日本の満州に於ける権益は保護されるべきであるとしながらも、満州事変を日本の侵略行為とし、満州国は満州人の自発的独立運動でないとして満州国を認めず、満州を中国の一部として強い自治権を持たせて国際連盟の管理下に置く事を提案しています。
日本はこれに対して国際連盟理事会で直ちに反駁する一方で、翌1933年1月には山海関を占領し、次いで熱河省(省都は承徳、現在の河北省の北部)を満州国の一部と主張して侵攻を開始し(1932年2月)、この行動が国際連盟を刺激する結果と成ります。

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連盟よ、さらば!

 1933年2月24日、国際連盟総会でリットン調査団報告に基づく日本軍の満州撤退勧告案が42対1(反対の1は日本)で採択されると、松岡洋右(ようすけ)日本代表は席を退場し、日本は3月27日に国際連盟を脱退し、国際的孤立の道を歩みます。

 日本軍は、日本の国際連盟脱退後、1933年4月には長城を越えて華北に侵入して北京に迫り、中国は停戦を申し入れ、5月末に塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれました。
これによって中国は満州国の存在を事実上承認し、又長城以南に非武装地域を設置する事を約束しますが、更に日本軍は、1935年に入ると再び防共を名目として内蒙古・華北に侵攻し、非武装地域(河北省東部)に冀東(きとう)防共自治政府(傀儡政権)を成立させ、国民政府からの分離・独立を宣言させました。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年5月1日 北九州市小倉南区若宮神社境内
2019/04/09

歴史を歩く207

43ファシズムの台頭⑤

5ナチス・ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊(その2)

ナチス⇒国家社会主義ドイツ労働者党
通称の「ナチ」「ナチス」は、当時の対抗勢力がナチ党員及び国家社会主義者に付けた蔑称で、ドイツ社会民主党員及び社会主義者も同様に ソシアリスト を短縮して「ゾチ」と蔑称されていました。
従って、映画等のセリフでナチ党員自身が「ナチス」と言うのは本来は誤りであり、自分達をナチ及びナチスと呼ぶ事は在りませんでした。
党員自身は党名のイニシャルを略して「NSDAP」「NS」或いは「Partei」と呼び、党員同士は「PG 」(党同志の略)「カメラート」と呼んでいました。
しかし、ナチスと云う呼称は各国に広まっており、日本でもナチ及びナチスの呼称が当時から使用されていました。
ここでは、ナチスの呼称を使用します。

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 ナチス支配下のドイツは第三帝国(1933年~45年)と呼ばれています。
第三帝国とは、第一帝国(神聖ローマ帝国)・第二帝国(ドイツ帝国)に次ぐ第三の帝国を意味しています。

 ナチスは全体主義の思想の下で民主主義を否定し、個人の自由・基本的人権を認めず、国民生活全体を厳しく統制しました。
特に反対派やユダヤ人に対しては突撃隊(SA)・親衛隊(SS)・秘密警察(ゲシュタポ)を利用して徹底した弾圧を行いました。

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突撃隊SA

 突撃隊(SA)は、1921年に創設されたナチスの直接行動隊で、当初ナチス集会の警護を任務としていましたが、やがて反対派に対するデモと暴力の行使を主任務とし、1926年以後は大衆組織として急速に勢力を拡大、1933年頃には250万人を擁して国防軍と並ぶ強大な組織となり、国防軍と対立する迄になっていました。
国防軍の支持を必要としたヒトラーは、1934年6月に突撃隊の幹部であるレーム等を粛清した結果、以後親衛隊が勢力を増して行きます。

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親衛隊(SS)

 親衛隊(SS)はヒトラー個人の身辺警護隊として1925年に創設され、1934年に突撃隊から独立し、最新の兵器を装備し、占領地支配や強制収容所の運営を行い、後には秘密警察の役割も担う様になりました。

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ベルリン、プリンツ・アルブレヒト通り8番地のゲシュタポ本部外観。1933年

 ゲシュタポ(ゲハイメ・シュターツポリツァイ、秘密国家警察を意味するドイツ語の略語)は、1933~34年に設立された国家秘密警察で、あらゆる手段を用いて反ナチス分子やユダヤ人を徹底的に弾圧し、ナチス恐怖政治の中核となったのです。

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ユダヤ人経営商店への妨害

 ヒトラーは19世紀にヨーロッパで高まった反ユダヤ人的人種論を下に、ドイツ民族は世界で最も優秀な民族であり、その反対にユダヤ人は劣等民族で、根絶されるべき存在であるとする極端な人種論を唱え、ユダヤ人を迫害していきます。
1933年にはユダヤ人商店に対するボイコットやユダヤ人の公職追放を行い、1935年にはユダヤ人と4分の1以上ユダヤ人の血が混じっている混血者から市民権を剥奪し、ユダヤ人と非ユダヤ人との結婚を禁止(ニュルンベルク法)しました。

 そうした中で、1938年にはユダヤ人商店の打ちこわしや虐殺が行われ、1942年にはユダヤ人根絶政策が決定され、政治犯、ユダヤ人を収容して強制労働に従事させ、或いは大量虐殺を行う為に強制収容所が各地に建設され、ユダヤ人の強制連行・大量虐殺が行われたのでした。

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アウシュビッツ強制収容所

 有名なアウシュビッツの強制収容所(現在のポーランド国内)は1940年に建設された最大規模の強制収容所で、この施設だけでも250万人のユダヤ人を含む400万人以上が虐殺されたと云われています。
第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)では約500万人(1942年頃の全ヨーロッパのユダヤ人は約1100万人と推定される)のユダヤ人が虐殺されたとされています。

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アウトバーン1930年代の撮影

 1932年を底辺として次第に回復しつつあったドイツ経済は、ナチスの支配下で復興に向かい、アウトバーン(高速自動車道路網)・土地改良工事・飛行場建設等の大規模な土木事業に着手して失業者を吸収した結果、失業者は1933年初頭の約600万人から1935年初頭には約300万人に減少していました。

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フォルクスワーゲン計画:KdF-Wagen

 1936年に開始された四カ年計画は「バターより大砲を」の軍需産業優先の軍備拡張計画でしたが、この政策によって失業者数は1939年初頭には約30万人に迄激減しています。
国内でファシズム体制を確立したナチスは対外的にも強硬な態度をとり、ヴェルサイユ体制の打破に乗りだします。

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国際連盟本部(スイス・ローザンヌ)

 1933年1月に政権を獲得したヒトラーは、ヴェルサイユ条約でのドイツの軍備制限撤廃と軍備平等権を要求し、これが拒否されると、1933年10月に前年から開かれていたジュネーブ軍縮会議(1932年~34年)と国際連盟からの脱退を宣言し(1933年3月には日本が既に脱退)、1935年1月には住民投票によってザール地方のドイツ復帰を果たします。

熱狂的支持
ナチス政策に支持を表明するドイツ国民

 ザール地方は石炭等の資源に富むヨーロッパ有数の工業地帯ですが、ヴェルサイユ条約では国際連盟の管理下に置かれ(炭田採掘権はフランスに譲渡)、その帰属は15年後の住民投票で決定することになっていましたが、1935年1月に行われた住民投票では91%の支持率でドイツに復帰します。

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徴兵制復活

 1935年3月16日、ヒトラーはヴェルサイユ条約の中の軍備制限条項を破棄し、徴兵制を復活、軍隊を50万人に増強する再軍備宣言を突然行い、ヨーロッパの国々を震撼させました。
再軍備宣言では空軍の設立も宣言されています。

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再軍備宣言・初期の新生ドイツ空軍主力戦闘機 ハインケルHe51B

 この再軍備宣言は全ヨーロッパに衝撃を与え、イギリス・フランス・イタリアは同年4月にイタリアの都市ストレーザで会談を開き、ドイツの再軍備宣言を非難すると共に、ドイツの脅威に対して共同行動をとる事を約束し(ストレーザ戦線)共同歩調を取ります。

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再軍備宣言・初期のドイツ陸軍主力・1号戦車(Panzerkampfwagen I)誘導輪の位置からA形と推定

 ドイツの再軍備宣言に最も衝撃を受けたのはフランスでした。
フランスはナチス・ドイツの進出に対抗するためにソ連との間に仏ソ相互援助条約を締結(1935年5月)、ソ連もチェコとソ連・チェコ相互援助条約を締結(1935年5月)しました。

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ドイツ海軍・重巡洋艦アドミラル・ヒッパー (Admiral Hipper)

 しかし、1935年6月にはイギリスがドイツと英独海軍協定を結び、ドイツに対英35%の軍艦と45%の潜水艦の保有を認めた結果、ストレーザ戦線は崩壊し、英独海軍協定は国際連盟の理事国であったイギリス自等がヴェルサイユ条約を無視し、ドイツの再軍備宣言を公認するもので在り、ここにヴェルサイユ条約は事実上崩壊します。

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ムッソリーニ政権下で行われたエチオピア侵攻

 更にヒトラーは、翌1936年に、ヨーロッパがムッソリーニのエチオピア侵入(1935年10月~36年5月)で騒然としている最中、ラインラント進駐を強行します。
 1936年3月7日、ヒトラーは前年の仏ソ相互援助条約の締結を理由にヴェルサイユ条約・ロカルノ条約(1925年、ラインラントの非武装と相互不侵略を明記した条約)を破棄してラインラントに進駐しますが、当時のドイツ軍は未だ十分な装備が整っておらず、後にヒトラーは「ラインラント進駐後の48時間は、私の生涯でもっとも神経を痛めた時だ。若し当時フランスが兵を進めておれば、我々は尻尾を巻いて退却せざるを得なかったであろう。我々が利用できる軍事力は控えめな抵抗にも全く不十分だったからだ。」と語っています。

Die 48 Stunden nach meiner Ankunft in Rheinland war die nervöseste Zeit in meinem Leben. Wenn Frankreich damals Truppen vorrückte, wären wir gezwungen gewesen, unseren Schwanz zurückzuziehen. Die militärische Macht, die wir einsetzen konnten, war für einen bescheidenen Widerstand völlig unzureichend.(上記ドイツ語原文)

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進駐軍に花を贈る住民・当時のドイツ軍機械化部隊は少数だった

 フランスはドイツのラインラント進駐に一時態度を硬化させますが、イギリスの同調が得られなかったために反撃を機会を失い、ドイツによるラインラント進駐を阻止することが出来ませんでした。
ラインラント進駐によってロカルノ体制とヴェルサイユ体制は完全に崩壊し、国際情勢はますます緊迫の度を強めていったのです。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年4月17日 北九州市小倉南区若宮神社境内