43ファシズムの台頭⑤
5ナチス・ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊(その2)
ナチス⇒国家社会主義ドイツ労働者党通称の「ナチ」「ナチス」は、当時の対抗勢力がナチ党員及び国家社会主義者に付けた蔑称で、ドイツ社会民主党員及び社会主義者も同様に ソシアリスト を短縮して「ゾチ」と蔑称されていました。
従って、映画等のセリフでナチ党員自身が「ナチス」と言うのは本来は誤りであり、自分達をナチ及びナチスと呼ぶ事は在りませんでした。
党員自身は党名のイニシャルを略して「NSDAP」「NS」或いは「Partei」と呼び、党員同士は「PG 」(党同志の略)「カメラート」と呼んでいました。
しかし、ナチスと云う呼称は各国に広まっており、日本でもナチ及びナチスの呼称が当時から使用されていました。
ここでは、ナチスの呼称を使用します。

ナチス支配下のドイツは第三帝国(1933年~45年)と呼ばれています。
第三帝国とは、第一帝国(神聖ローマ帝国)・第二帝国(ドイツ帝国)に次ぐ第三の帝国を意味しています。
ナチスは全体主義の思想の下で民主主義を否定し、個人の自由・基本的人権を認めず、国民生活全体を厳しく統制しました。
特に反対派やユダヤ人に対しては突撃隊(SA)・親衛隊(SS)・秘密警察(ゲシュタポ)を利用して徹底した弾圧を行いました。
突撃隊SA 突撃隊(SA)は、1921年に創設されたナチスの直接行動隊で、当初ナチス集会の警護を任務としていましたが、やがて反対派に対するデモと暴力の行使を主任務とし、1926年以後は大衆組織として急速に勢力を拡大、1933年頃には250万人を擁して国防軍と並ぶ強大な組織となり、国防軍と対立する迄になっていました。
国防軍の支持を必要としたヒトラーは、1934年6月に突撃隊の幹部であるレーム等を粛清した結果、以後親衛隊が勢力を増して行きます。
親衛隊(SS) 親衛隊(SS)はヒトラー個人の身辺警護隊として1925年に創設され、1934年に突撃隊から独立し、最新の兵器を装備し、占領地支配や強制収容所の運営を行い、後には秘密警察の役割も担う様になりました。
ベルリン、プリンツ・アルブレヒト通り8番地のゲシュタポ本部外観。1933年 ゲシュタポ(ゲハイメ・シュターツポリツァイ、秘密国家警察を意味するドイツ語の略語)は、1933~34年に設立された国家秘密警察で、あらゆる手段を用いて反ナチス分子やユダヤ人を徹底的に弾圧し、ナチス恐怖政治の中核となったのです。
ユダヤ人経営商店への妨害 ヒトラーは19世紀にヨーロッパで高まった反ユダヤ人的人種論を下に、ドイツ民族は世界で最も優秀な民族であり、その反対にユダヤ人は劣等民族で、根絶されるべき存在であるとする極端な人種論を唱え、ユダヤ人を迫害していきます。
1933年にはユダヤ人商店に対するボイコットやユダヤ人の公職追放を行い、1935年にはユダヤ人と4分の1以上ユダヤ人の血が混じっている混血者から市民権を剥奪し、ユダヤ人と非ユダヤ人との結婚を禁止(ニュルンベルク法)しました。
そうした中で、1938年にはユダヤ人商店の打ちこわしや虐殺が行われ、1942年にはユダヤ人根絶政策が決定され、政治犯、ユダヤ人を収容して強制労働に従事させ、或いは大量虐殺を行う為に強制収容所が各地に建設され、ユダヤ人の強制連行・大量虐殺が行われたのでした。
アウシュビッツ強制収容所 有名なアウシュビッツの強制収容所(現在のポーランド国内)は1940年に建設された最大規模の強制収容所で、この施設だけでも250万人のユダヤ人を含む400万人以上が虐殺されたと云われています。
第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)では約500万人(1942年頃の全ヨーロッパのユダヤ人は約1100万人と推定される)のユダヤ人が虐殺されたとされています。
アウトバーン1930年代の撮影 1932年を底辺として次第に回復しつつあったドイツ経済は、ナチスの支配下で復興に向かい、アウトバーン(高速自動車道路網)・土地改良工事・飛行場建設等の大規模な土木事業に着手して失業者を吸収した結果、失業者は1933年初頭の約600万人から1935年初頭には約300万人に減少していました。
フォルクスワーゲン計画:KdF-Wagen 1936年に開始された四カ年計画は「バターより大砲を」の軍需産業優先の軍備拡張計画でしたが、この政策によって失業者数は1939年初頭には約30万人に迄激減しています。
国内でファシズム体制を確立したナチスは対外的にも強硬な態度をとり、ヴェルサイユ体制の打破に乗りだします。
国際連盟本部(スイス・ローザンヌ) 1933年1月に政権を獲得したヒトラーは、ヴェルサイユ条約でのドイツの軍備制限撤廃と軍備平等権を要求し、これが拒否されると、1933年10月に前年から開かれていたジュネーブ軍縮会議(1932年~34年)と国際連盟からの脱退を宣言し(1933年3月には日本が既に脱退)、1935年1月には住民投票によってザール地方のドイツ復帰を果たします。
ナチス政策に支持を表明するドイツ国民 ザール地方は石炭等の資源に富むヨーロッパ有数の工業地帯ですが、ヴェルサイユ条約では国際連盟の管理下に置かれ(炭田採掘権はフランスに譲渡)、その帰属は15年後の住民投票で決定することになっていましたが、1935年1月に行われた住民投票では91%の支持率でドイツに復帰します。
徴兵制復活 1935年3月16日、ヒトラーはヴェルサイユ条約の中の軍備制限条項を破棄し、徴兵制を復活、軍隊を50万人に増強する再軍備宣言を突然行い、ヨーロッパの国々を震撼させました。
再軍備宣言では空軍の設立も宣言されています。
再軍備宣言・初期の新生ドイツ空軍主力戦闘機 ハインケルHe51B この再軍備宣言は全ヨーロッパに衝撃を与え、イギリス・フランス・イタリアは同年4月にイタリアの都市ストレーザで会談を開き、ドイツの再軍備宣言を非難すると共に、ドイツの脅威に対して共同行動をとる事を約束し(ストレーザ戦線)共同歩調を取ります。
再軍備宣言・初期のドイツ陸軍主力・1号戦車(Panzerkampfwagen I)誘導輪の位置からA形と推定 ドイツの再軍備宣言に最も衝撃を受けたのはフランスでした。
フランスはナチス・ドイツの進出に対抗するためにソ連との間に仏ソ相互援助条約を締結(1935年5月)、ソ連もチェコとソ連・チェコ相互援助条約を締結(1935年5月)しました。
ドイツ海軍・重巡洋艦アドミラル・ヒッパー (Admiral Hipper) しかし、1935年6月にはイギリスがドイツと英独海軍協定を結び、ドイツに対英35%の軍艦と45%の潜水艦の保有を認めた結果、ストレーザ戦線は崩壊し、英独海軍協定は国際連盟の理事国であったイギリス自等がヴェルサイユ条約を無視し、ドイツの再軍備宣言を公認するもので在り、ここにヴェルサイユ条約は事実上崩壊します。
ムッソリーニ政権下で行われたエチオピア侵攻 更にヒトラーは、翌1936年に、ヨーロッパがムッソリーニのエチオピア侵入(1935年10月~36年5月)で騒然としている最中、ラインラント進駐を強行します。
1936年3月7日、ヒトラーは前年の仏ソ相互援助条約の締結を理由にヴェルサイユ条約・ロカルノ条約(1925年、ラインラントの非武装と相互不侵略を明記した条約)を破棄してラインラントに進駐しますが、当時のドイツ軍は未だ十分な装備が整っておらず、後にヒトラーは「ラインラント進駐後の48時間は、私の生涯でもっとも神経を痛めた時だ。若し当時フランスが兵を進めておれば、我々は尻尾を巻いて退却せざるを得なかったであろう。我々が利用できる軍事力は控えめな抵抗にも全く不十分だったからだ。」と語っています。
Die 48 Stunden nach meiner Ankunft in Rheinland war die nervöseste Zeit in meinem Leben. Wenn Frankreich damals Truppen vorrückte, wären wir gezwungen gewesen, unseren Schwanz zurückzuziehen. Die militärische Macht, die wir einsetzen konnten, war für einen bescheidenen Widerstand völlig unzureichend.(上記ドイツ語原文)
進駐軍に花を贈る住民・当時のドイツ軍機械化部隊は少数だった フランスはドイツのラインラント進駐に一時態度を硬化させますが、イギリスの同調が得られなかったために反撃を機会を失い、ドイツによるラインラント進駐を阻止することが出来ませんでした。
ラインラント進駐によってロカルノ体制とヴェルサイユ体制は完全に崩壊し、国際情勢はますます緊迫の度を強めていったのです。
続く・・・
ジロくんの思い出:平成29年4月17日 北九州市小倉南区若宮神社境内