FC2ブログ
2019/07/27

歴史を歩く213

44第二次世界大戦

2ドイツの短期決戦の失敗と占領地支配(その1)

o0400028613412430020.jpg
ポーランド侵攻


 1939年9月1日、ドイツ軍はポーランド侵攻を開始し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦、遂に第二次世界大戦が勃発しまた。
ドイツ軍は、1500機以上からなる空軍部隊と戦車・装甲車を主力とする150万の地上部隊を投入し、いわゆる電撃戦(航空機と機甲部隊による圧倒的な集中攻撃で短期間に敵を壊滅させる戦闘方式)によってわずか3週間でポーランド軍を壊滅させ、9月27日にはワルシャワを陥落させます。

126802480914516411316_convert_20190727094108.jpg
ポーランド侵攻・握手を交わすドイツ将校と赤軍将校

 この間、ソ連軍も1939年9月17日にポーランドへ侵入し、先に締結されていた独ソ不可侵条約の秘密議定書でソ連の勢力範囲と定められていたポーランドの東半分を占領します。
ドイツとソ連は、ワルシャワ陥落の翌日に独ソ友好条約に調印すると共にポーランド分割協定を締結し、これによってポーランドは再び地図から消滅します。

20190118170425_convert_20190727094728.jpg
リトアニアに於けるユダヤ人迫害

 ソ連は、1939年9月~10月にかけて、エストニア・ラトヴィア・リトアニアの3国に相互援助条約の締結を強要し、軍事基地の譲渡とソ連軍の進駐を認めさせ、翌1940年8月にはバルト3国を正式に併合しました。

 尚、独ソ不可侵条約(1939年8月)の秘密議定書では独ソによるポーランド分割とフィンランド・エストニア・ラトヴィア及びベッサラビアをソ連の勢力範囲とすることが認められていましたが、更に独ソ友好条約(1939年9月)によってリトアニアもソ連の勢力範囲に加える事が認められています。

f86537ae3e2109a42f6e85c3e32aaa09_convert_20190727095729.jpg
フィンランド陸軍のドイツ製Ⅲ号突撃砲(Sd.Kfz.142)

 ソ連はフィンランドに対してもカレリア地方等の領土割譲要求を突きつけ、フィンランドがこれを拒否すると、1939年11月にフィンランドに侵入し、ソ連・フィンランド戦争(1939年11月~40年3月)を引き起こし、フィンランドはイギリス・フランスの支援を受けて一時はソ連軍を撃退しますが、ソ連は大軍を投入してフィンランドを破り、カレリア地方等を割譲します。

 ソ連・フィンランド戦争が始まると、フィンランドはソ連を侵略国として国際連盟に提訴し、国際連盟は1939年12月にソ連を除名しますが、既に日・独・伊が国際連盟を脱退していた為、国際連盟から除名されたのはソ連だけでした。

m_Sitzkrieg.jpg
まやかし戦争・奇妙な戦争

 第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍は9月末迄にポーランドの西半分を占領しますが、その間西部戦線ではイギリス・フランス軍は攻勢に出ず、両軍は対峙したままで何ら軍事行動を起こさず、その為、このような状況は当時「奇妙な戦争・まやかし戦争」と呼ばれ一部にはクリスマス迄には、この戦争は終わるとの楽観論も流布していました。
ヒトラーは10月にイギリスに対して和平を呼びかけますが、チェンバレンはこれに応じず、1940年4月9日、ポーランド侵攻以来目立った軍事行動を起こしていなかったドイツ軍が、突如として行動を開始しました。

Weserübung-Süd_Panzers_convert_20190727100800
デンマーク・オベンローのドイツ軍Ⅰ号戦車(Panzerkampfwagen I Ausf A)

 ドイツは同日、中立国のデンマークとノルウェーに対して最後通牒を突きつけ、ドイツ軍を進駐(ウェーザー演習酢酸)させ、最後通牒を受諾したデンマークを占領、受諾を拒否したノルウェーを攻撃してオスロを占領し、ノルウェーはロンドンに亡命政権を樹立して抗戦を続けましたが1940年6月に降伏します。

batalla-dunkerque-2_718aa410_convert_20190727101841.jpg
ダンケルク撤退(ダイナモ作戦)

 ドイツ軍による西部戦線での大攻勢は、1940年5月10日、オランダ・ベルギーに対する奇襲攻撃で始まりオランダは5日間で降伏し、ベルギーも5月末に降伏しました。
この間、ドイツ軍はセダン付近でマジノ線を突破し、ドーヴァー海峡へ向けて進撃し、この結果ベルギー領内に進駐していたイギリス・フランス軍はダンケルク(ドーヴァー海峡に面したフランスの港市)へ退却し、30万以上の将兵がダンケルク(ダイナモ作戦)からイギリス本土へ退却した(1940年5月27日~6月4日)。
このダンケルク撤退は、軍用船舶以外に民間の商船、漁船、更にはスクーナー迄動員した撤退で、結果イギリス軍の膨大な軍需物資は、ドイツ軍に鹵獲される結果と成りました。

DCRsRH9UMAATO_a_convert_20190727102128.jpg
凱旋門前を行進するドイツ占領軍

 1940年6月5日、ドイツ軍はソンム(パリの北方)で総攻撃を開始し、6月14日にはパリに入城、ドイツ軍が見せた破竹の進撃に刺激される様に、イタリアのムッソリーニは6月10日にドイツ側に立ってイギリス・フランスに宣戦を布告します。
フランス政府は、パリ陥落の3日前にパリからツールに移り、6月14日にはボルドーへ移動、2日後にレイノー内閣(1940年3月、ダラディエ内閣の総辞職後に成立)は総辞職し、ペタン(第一次世界大戦で活躍したフランスの国民的英雄)内閣が成立しますが、ペタン内閣は翌日ドイツに降伏し(1940年6月17日)、6月22日に休戦条約を締結します。

Petain_Hitler_convert_20190727121003.jpg
ヒトラーと握手を交わすペタン(コラボラシオン: Collaboration・利敵協力)

 その結果、フランスの国土の約5分の3はドイツの軍事占領下におかれ、残りの地域はペタン政権の統治下に置かれる事となり、ペタンは国家元首の地位に就き、中部フランスのヴィシーを首都とする対ドイツ協力政権を樹立した結果、この政権は以後ヴィシー政府(1940年7月~44年8月)と呼ばれ、ヴィシー政府は第三共和国憲法を廃止した為、ヴィシー政府の成立によって第三共和政(1870年~1940年)は崩壊しました。

1488551859_charles-de-gaulle-4_convert_20190727121809.jpg
シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール(Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日)

 この間、シャルル・ド・ゴール(1890年~1970年)は、フランスの降伏と同時に、ロンドンで自由フランス政府の樹立を宣言し(1940年6月18日)、対ドイツ抗戦を呼びかけてレジスタンス(非合法抵抗運動)を指導しました。

38b58d6e0d88d56debeb6f85b3e0b533_convert_20190727122119.jpg
ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル( Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874年11月30日 - 1965年1月24日)

 フランスの降伏によって西ヨーロッパでドイツの支配を免れたのは、中立国を除きイギリス一国となり、1940年4月にチェンバレン首相が辞職し、これまでチェンバレンの宥和政策を批判してきたチャーチルが首相の就任、チャーチル挙国連立内閣(1940年4月~45年7月)が成立しました。

DmYyae3X0AAP54N_convert_20190727122614.jpg
ロンドン大空襲(地下鉄駅に避難したロンドン市民)

 ヒトラーはイギリス本土上陸作戦を進めるには制空権を握ることが不可欠であるとし、1940年8月からイギリス本土に対する空襲を開始し、特に9月以降はロンドンをはじめとする(ロンドン大空襲)主要な工業都市に対する空襲を続け、激しい空襲は1ヶ月にわたって連日続けられました。
しかし、イギリスはチャーチルの指導のもとでこの激しい空襲に耐え抜き、ドイツ軍のイギリス本土上陸を阻止したのです。

続く・・・

DSC00561_convert_20190727123146.jpg
ジロくんの思い出:平成27年8月22日小倉南区南っ子通り重住交差点
スポンサーサイト



2019/07/13

歴史を歩く212

44第二次世界大戦

1 ナチスの侵略と開戦

オーストリア併合
オーストリア併合・首都ウィーン市内を視察するヒトラー・車両はダイムラー・ベンツG4 

 再軍備宣言(1935年3月)・ラインラント進駐(1936年3月)を強行したヒトラーは、1937年11月に外相・国防相・陸海空軍の総司令官等の秘密会議でオーストリアとチェコスロヴァキアを武力で併合する決意を表明しました。

 オーストリアでは、既に1934年7月にオーストリア・ナチス党員が政権獲得を企てて首相を暗殺する出来事が起こっていたのですが、この計画は失敗に終わり、以後ドイツから資金を得たオーストリア・ナチスによるテロが続いた結果、オーストリア政府はナチスの取締りを強化していました。
800px-KurtVonSchuschnigg1936_convert_20190713154956.jpg
クルト・アロイス・ヨーゼフ・ヨハン・エドラー・シュシュニック( Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg、1897年12月14日 - 1977年11月18日)

 ヒトラーは、1938年2月12日にオーストリア首相シュシュニックをドイツ、ベルヒテスガーデンに呼びよせ、軍事占領で脅しつつ、内相の地位をオーストリア・ナチス党員アルトゥル・ザイス・インクヴァルトに与える事、投獄中のオーストリア・ナチス党員を釈放する事等の要求をつきつけ、これに署名させます。
ドイツより帰国したシュシュニック首相が3月9日に国民投票を発表すると、ヒトラーは11日に国民投票の中止等を要求する最後通牒を突きつけオーストリア併合作戦「オットー計画」を発動しました。

DYJps2-VwAAY5Li_convert_20190713160252.jpg
ナチス党旗を振りナチス式敬礼でドイツ軍を迎えるオーストリア国民

 3月12日未明、ドイツ軍はオーストリアの新首相インクヴァルト(オーストリア・ナチス党員)の要請に応ずるという形でオーストリアに進撃し、3月13日にオーストリア首相はドイツとの合併を宣言、翌14日、ヒトラーはウィーンに入いります。
こうしてオーストリアを併合したヒトラーは次の目標をチェコスロヴァキアに向けたのでした。
チェコスロヴァキア北西部、チェコとドイツの国境地帯はズデーテン地方と呼ばれ、多くのドイツ系住民が居住しており、1938年9月、ヒトラーはズデーテン地方のドイツ系住民が迫害を受けているとして、ズデーテン地方のドイツ人の民族自決権を援助するとの演説を行いました。
3日後にヒトラーと会見したイギリス首相ネヴィル・チェンバレン(1869年~1940年、在任1937年~40年、保守党、ジョゼフ・チェンバレンの次男)は、「世界戦争も辞さない」というヒトラーに屈し、フランスと共にチェコに圧力をかけズデーテン地方の割譲に同意させます。

_convert_20190713234351.jpg
ミュンヘン空港・チェンバレン首相とエドワード・ウッド外務大臣、出迎えるリッペントロップ外相
(機体はロッキードL14エレクトラ)


 しかし、ヒトラーはズデーテン地方の即時割譲を要求し、チェコ政府が総動員令を発した結果、戦争の危機が迫りました。
ヨーロッパの平和を維持する為に是が非でも戦争を避けたいと考えていたチェンバレンは、ムッソリーニに調停を依頼し、国際会議の開催に成功します。

2_convert_20190713231845.jpg
ミュンヘン会談・チェンバレン・ダラディエ・ヒトラー・ムッソリーニ・チアノイタリア外相

 1938年9月29日、ズデーテン問題に関する英・仏・独・伊の4カ国首脳会議がミュンヘンで開かれ、このミュンヘン会議では、開戦で恫喝しつつズデーテン地方の即時割譲を求めるヒトラーに対して、イギリスのネヴィル・チェンバレンとこれに追随するフランスのダラディエ(1884年~1970年、在任1833年、34年、38年~40年)は宥和政策を選択し、ヒトラーからもうこれ以上の領土要求はしないとする約束を得て、ズデーテン地方の即時割譲を認めるミュンヘン協定に調印し、10月1日、ドイツ軍はズデーテンに進駐します。

MunichAgreement_convert_20190713162936.jpg
ミュンヘン会談から帰国し、協定について説明するチェンバレン首相

 宥和政策とは、第二次世界大戦前にイギリス・フランスがナチス・ドイツに対してとった妥協政策で、ナチス・ドイツが反共産主義を唱えている為、その侵略の矛先はソ連に向けられると考え、出来るだけナチス・ドイツとの対決を避け、その要求を受け入れる政策を採ったものです。
先のイタリアによるエチオピア侵攻(1935年~36年)に対して英・仏が見せた態度やスペイン内戦(1936年~39年)に対して英・仏が採った不干渉政策も宥和政策の現れですが、このミュンヘン会談でイギリスが採った政策が宥和政策の典型でした。

_convert_20190713231205.jpg
ズデーテンランド併合により国境標識を破壊するドイツ系住民

 ミュンヘン会談には、当事国のチェコスロヴァキアや隣接国のソ連は招かれず、この為ソ連はイギリス・フランスがチェコスロヴァキアを犠牲にしてドイツの攻撃をソ連に向けさせようとしていると考え、イギリス・フランスに対して不信感を強めて行きました。
ミュンヘン会談によって戦争の危機は一時には回避されましたが、イギリス・フランスが見せた宥和政策はヒトラーをますます増長させる結果と成りました。

_convert_20190713160830.jpg
進駐するドイツ軍を迎えるズデーテンラントの住民。1938年10月5日

 1939年3月15日、ヒトラーはミュンヘン協定を破棄してチェコスロヴァキアを解体、西半分のベーメン(ボヘミア)とメーレン(モラヴィア)を占領して保護領とし、翌日には東半分のスロヴァキアを保護国にする事によって第一次世界大戦後に独立したチェコスロヴァキアは崩壊しました。
チェコスロヴァキアを手中に収めたヒトラーは、次の目標をポーランドに向け、1939年3月21日にポーランドに対してダンチヒ(ヴェルサイユ条約によって国際連盟管理下の自由都市とされていた)の返還とポーランド回廊(ヴェルサイユ条約で海への出口としてポーランドに与えられたドイツ本国と東プロイセンとの間の旧ドイツ領地帯)を通過する鉄道や道路の敷設権を要求しました。

20160918125806_convert_20190720091532.jpg
現ポーランド・グダニスク(旧ダンチヒ)

 先のチェコスロヴァキア解体に衝撃を受けていたチェンバレンは、このヒトラーの要求を見て、ようやく宥和政策を捨て、3月末にフランスと共にポーランドに対する援助を確約し、ポーランドもドイツの要求を拒否しました。
これに対してヒトラーは4月初めに、ポーランド攻撃の準備を9月1日迄に完了することを命じ、4月末にはポーランドとの不可侵条約と英独海軍協定を破棄し、この間ムッソリーニはアルバニアを併合し(1939年4月)、ドイツと軍事同盟条約を締結します(1939年5月)。

CcxZWRjUAAENu1f_convert_20190720094337.jpg
リペントロップ・ドイツ外相とスターリン

 一方、イギリスとフランスは4月中頃からソ連と軍事同盟締結の交渉行っていましたが、両者は相互に不信感を抱いていた為に、英・仏・ソ連の交渉は遅々として進まず、この時イギリス・フランスの真の目的はドイツを東方に向けさせてソ連と敵対させる事にあると考えたスターリンは、ソ連が東アジアでも日本と敵対しており(1939年5月~9月、満州西部国境で日ソ両国軍が衝突するノモンハン事件が起きていた)、イギリス・フランスとの交渉が進まない以上、ドイツと提携した方が得策と考えます。

Battle_of_Khalkhin_Gol-Captured_Type_95_scout_car_convert_20190720102456.jpg
ノモンハン事件でソビエト軍に鹵獲された九五式小型乗用車(くろがね四起)

 ポーランド問題でイギリス・フランスと対立する様になったヒトラーも、ソ連と提携して背後を固めた方が得策と考え、対ソ接近を図り、その結果、ドイツとソ連は、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結、このファシズムと共産主義両国の提携は全世界に衝撃を与え、翌々日の25日にはイギリスとフランスはポーランドと相互援助条約を締結します。

_convert_20190720103352.jpg
ポーランド侵攻・1939年9月、ドイツ軍1号戦車(手前)と2号戦車(奥2両I、右後方のハーフトラックはSd Kfz 251と推定

 1939年9月1日早朝、ナチス・ドイツは宣戦の予告もなしにポーランド攻撃を開始、9月3日、イギリスはフランスと共にドイツに宣戦し、遂に第二次世界大戦(1939年9月~45年8月)が勃発しました。

続く・・・

DSC01200_convert_20190720104913.jpg
ジロくんの思い出:平成30年7月18日 北九州市小倉南区若宮神社境内