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2019/09/23

歴史を歩く216

44第二次世界大戦

6連合国の勝利(連合軍の優位)

 第二次世界大戦は、1942年夏頃迄は、枢軸国(日独伊三国同盟側に属した諸国)側が優勢でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦と、1942年8月に始まったスターリングラード攻防戦、1942年7月及び10月のエル・アラメインの戦いを契機として連合国側が反撃に転じて行きます。

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アメリカ海軍ダグラスSBDドーントレス艦上爆撃機

 1942年6月、中部太平洋で戦われたミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)とその艦載機290機・ベテラン兵員約3500名を喪失して惨敗しました。(日本国内では、大本営発表の大勝利と報道された)
ミッドウェー海戦の勝利によって太平洋戦線の主導権を握ったアメリカ軍は、同年8月ガダルカナル島への上陸作戦を展開し、ガダルカナルの確保に全力をあげた日本軍はアメリカ軍と死闘(ガダルカナルの戦いは同島を餓島と呼ぶ程に悲惨な戦闘でした)を繰り返しますが、制空権を奪われていた日本軍は大損害を被り1943年2月にガダルカナルを撤退(転進)し、以後敗退を重ねていきます。

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スターリングラード攻防戦で廃墟と化した市内

 一方、独ソ戦の長期化によって石油の確保が不可欠となったドイツは、夏季攻勢の目標をバクー油田等コーカサス地方の油田の確保(ブラウ作戦)に置き、ヴォルガ河畔の重要都市であるスターリングラードの占領を試みます。
1942年8月22日、ドイツ軍(第6軍)はスターリングラード(現ボルゴグラード)に総攻撃を開始してこれを包囲し、9月には市内に突入して激しい市街戦を展開しますが、当に建物の各階を一階づつ、又地下道の一本、一本を制圧する戦闘が続き、両軍の犠牲は増える一方でした。
11月になると猛吹雪の中でソ連軍は大反撃(ウラヌス作戦)を開始し、逆にドイツ軍の包囲に成功しました。

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フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・パウルス(Friedrich Wilhelm Ernst Paulus, 1890年9月23日 - 1957年2月1日)

 ドイツ軍司令官フリードリヒ・パウルス大将はスターリングラードから撤退し、戦線を立て直す事をヒトラーに進言しますが、ヒトラーは頑として退却を認めず、スターリングラードの死守を命じ、一方ソ連軍は翌年1月に2度にわたってドイツ軍に降伏を勧告しますが、ヒトラーは降伏を許可せず、ソ連軍の猛攻によって約30万のドイツ軍は壊滅し、1943年2月初頭ドイツ軍司令官パウルス元帥(1月30日元帥昇格)は約9万の将兵と共に降伏しますが、このスターリングラード攻防戦は第二次世界大戦の転機となり以後ドイツ軍の敗退が始まったのです。

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北アフリカ戦線のドイツ軍2号戦車

 これより先、連合国は1942年10月から北アフリカで反撃を開始していました。
アメリカよりレンドリース法により300両のM4シャーマン戦車と大量の航空機の援助を得たモントゴメリー将軍指揮下の連合国軍はエル・アラメイン(アレクサンドリアの西方)でロンメル将軍指揮下の独・伊軍機甲部隊(当時ロンメル指揮下のドイツ軍戦車は90両余り、イタリア軍戦車は130両程)を撃破、ドイツ勢力をエジプトから駆逐し、更に進撃を続けて翌年1月にはトリポリを奪回、一方アイゼンハウアー将軍(後の第34代米大統領)指揮下の連合国軍は、アルジェリア・モロッコに上陸し、モントゴメリー軍と呼応して独・伊軍を東西から挟撃する作戦を行います。
連合国軍は1943年5月にはチュニジアを占領、北アフリカの独・伊軍が降伏し、北アフリカ戦線は米英連合軍の勢力圏になりました。
この様なドイツ軍敗走の裏には、同時に進行していた、スターリングラード戦に軍需物資を最優先した事、機甲部隊の生命線である燃料の確保が、戦域の拡大から十分に行われ無かった事が影響しています。

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ハスキー作戦・上陸用舟艇のアメリカ軍

 北アフリカを奪回した連合国軍は、1943年7月10日にシチリア島に上陸・占領(ハスキー作戦)し、更にイタリア本土に迫ります。
こうした状況の中でイタリアでは、1943年7月24日にファシスト大評議会が開催され、立憲王制への復帰とムッソリーニの統帥権剥奪が決議され、翌日、ムッソリーニは国王によって首相を解任され、逮捕・投獄され、バドリオ(1871年~1956年、エチオピア侵入の総司令官)政権が成立し、ファシスト党は非合法化されます。

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グラン・サッソ襲撃・ドイツ空挺部隊に救出されたムッソリーニ

 1943年9月、連合国軍がイタリア本土に上陸すると、バドリオ政権は9月3日に連合国と休戦条約を結び、1943年9月8日に無条件降伏しますが、これに対してヒトラーはドイツ軍にイタリア中部・北部を占領させると共に、ムッソリーニを獄舎から救出(グラン・サッソ襲撃・9月12日)し、北イタリアにムッソリーニを首班とする「ファシスト共和国」を樹立させますが、ファシスト共和国は戦争継続を宣言した結果、以後イタリアは二分されるものの、既に戦争遂行力は急速に弱体化し、ムッソリーニは、1945年4月28日にスイス国境のコモ湖付近でパルチザンによって拘束、銃殺され、遺体はミラノのロレータ広場にその側近や、愛人のクラ-ラ・ペタッチ等共に逆さに吊るされる事態が発生します。
(当時クラーラ・ペタッチは、ファシスト党員等の資格を有しておらず、その身分は民間人であり、処刑は後に問題となります)

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大西洋上会談・艦上のルーズベルトとチャーチル

 連合国は既に1941年に戦後の構想を示していました。
独ソ戦開始による戦争の拡大を前にアメリカのローズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相は大西洋上のイギリス海軍戦艦プリンス・オブ・ウェールズで会談を行い(大西洋上会談)、1941年8月に大西洋憲章を発表し、全8条からなる大西洋憲章では領土不拡大・領土不変更・民族自決・貿易の自由と拡大・労働条件と社会保障の改善・海洋の自由・軍備縮小・平和機構の再建が謳われていました。

 太平洋戦争が始まると、連合国26カ国は大西洋憲章に基づいて連合国共同宣言を発表し(1942年1月)、第二次世界大戦の戦争目的をファシズムに対する民主主義の戦いと位置づけたのです。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年9月26日門司区自宅


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2019/09/12

歴史を歩く215

44第二次世界大戦

5太平洋戦争

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パリ陥落・エッフェル塔とヒトラー

 日中戦争(1937年7月~45年8月)が長期化・泥沼化する中で、日本は南京に親日政権である汪兆銘政権を樹立(1940年3月)しますが支持を得る事が出来ず、事態の収拾に苦慮していました。
その頃、ヨーロッパではドイツが西部戦線の膠着状態を破ってデンマーク・ノルウェーに侵入し(1940年4月)、更にオランダ・ベルギーに侵入(1940年5月)、その後1940年6月にはパリを占領し、フランスを降伏に追い込んでいました。

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空の神兵・パレンバン空挺作戦
 
 この様な情勢の中で、日本では南進論(フランス領インドシナ・オランダ領東インドのゴム・石油などの資源の獲得を目ざす南方進出政策)が高まり、独・伊との提携の動きが再び活発になりました。
1940年9月23日、日本軍は援蒋ルート(重慶の蒋介石政権に対するアメリカ・イギリスの援助ルート、フランス領インドシナ・雲南を経由する仏印ルートとビルマルートの2つがあった)の遮断と南進を目的とし、フランスの敗北に乗じてフランス領インドシナ北部(北部仏印)に進駐し、4日後の9月27日には日独伊三国同盟に調印します。

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対日貿易規制を報じる当時の新聞紙面

 このフランス領インドシナ北部進駐と日独伊三国同盟の調印によって、満州事変以来、特に日中戦争の勃発以来悪化していた日米関係は急速に悪化し、既にアメリカは、1939年7月に日本の中国侵略に対抗して日米通商条約破棄を通告(翌年1月発効)していた為、石油・鉄鋼等の軍需物資の多くをアメリカに依存していた日本は日米関係の悪化を防ぐ必要に迫られていたのです。

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駐米大使 野村吉三郎・アメリカ国務長官 コーデル・ハル

 その為、日本は1941年4月から駐米大使野村吉三郎とアメリカ国務長官ハル(1871年~1955年)との間で日米交渉を開始しますが、アメリカは日本軍の中国からの撤兵と三国同盟からの脱退を要求し、これに日本軍部(特に陸軍)が譲らず、日米交渉は難航していました。

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南部仏印進駐・帝国陸軍銀輪部隊

 日米交渉に並行して、日ソ中立条約(1941年4月)を結んで北方の安全を確保した日本が、1941年7月28日にフランス領インドシナ南部(南部仏印)に進駐すると、更に態度を硬化させたアメリカは7月に在米日本資産を凍結し、8月には石油等重要軍需物資の対日輸出を一切停止します。
更にABCD包囲陣(Aはアメリカ、Bはイギリス、Cは中国、Dはオランダを指す、対日包囲網を形成した4国の頭文字をとってこう呼んだ)を形成して日本の南進政策に対抗した為、日本は完全に孤立したのでした。

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御前会議

 1941年9月6日、御前会議で「帝国国策推進要領」が決定され、日米交渉でのアメリカ案を拒否し、10月上旬に至っても日本の要求貫徹の見込みがない時には、開戦を決意する事と成り、10月18日に成立した東条英機内閣(1941年10月~44年7月)が、対米交渉最終案を決定してアメリカとの交渉を行います。

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日米会談の進捗を報道する朝日新聞紙面

 アメリカは日本の最終案に対して、11月26日に所謂「ハル・ノート」(アメリカ国務長官ハルが提示したアメリカ側の最終提案)で、中国及びフランス領インドシナからの全面撤退・汪兆銘政権の否認・三国同盟の破棄・中国東北部を満州事変以前の状態に戻す事を要求しました。

 上記内容による「ハル・ノート」は、日本として到底受け入れられるものでは無く、12月1日に開かれた御前会議では対米英蘭開戦と開戦日12月8日が決定され、1941年12月8日(アメリカ現地時間12月7日)、日本軍はハワイ真珠湾(Parl Harbor)のアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、アメリカ・イギリスに宣戦を布告して太平洋戦争(1941年12月8日~1945年8月15日)に突入します。

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帝国海軍空母翔鶴より発艦準備中の零式艦上戦闘機21型

 日本は開戦と同時にマレー半島に上陸し、フィリピン・香港を攻撃し、香港(1941年12月)・マニラ(1942年1月)・シンガポール(1942年2月)を占領、この間グァム島(1941年12月)・ウェーク島(1941年12月)・ラバウル(1942年2月)等の太平洋(南洋)諸島を攻略・占領しました。
更に日本はビルマ作戦を開始してラングーンを占領する(1942年3月)一方で、豊富な石油資源を確保するために蘭印(オランダ領東インド)作戦を展開し、ジャワ島に上陸してオランダ軍を降伏させます(1942年3月)。

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大東亜共栄圏構想図

 緒戦に勝利した日本は、開戦以来約半年で東南アジアのほぼ全域と西南太平洋の諸島を占領下に治め、「大東亜共栄圏」の建設を唱え、欧米諸国による植民地支配を打破して日本を中心とする共栄圏を東アジアに樹立することを謳った結果、占領地では当初日本軍を欧米諸国からの解放軍として迎えるところも在りました。
しかし、日本の占領政策の目的は資源の確保と軍隊の自活にあり、戦争遂行の為に占領地域の人々の独立の要求を無視して占領地域の資源と労働力を収奪した結果、各地で諸民族の反抗を招く事となります。

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大東亜会議

 日本は占領下のフィリピン・インドネシア・ビルマに親日政権を樹立させ、1943年11月に中華民国(汪兆銘政権)・満州国・タイ・フィリピン・ビルマの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示しようと努めました。

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ミッドウェー海戦・被弾炎上する空母加賀

 太平洋戦争の開始から約半年間は日本軍が優勢でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦の敗北によって日本は制海・制空権を失い、以後敗退への道を辿る事になります。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年11月3日小倉南区若宮神社境内