人類の軌跡その151:ミステリー33 歴史の狭間⑤
<USSメイン号その2>スペイン帝国の終焉とアメリカ膨張政策の始まり

爆発は、乗員居住区画の真下で発生し、将校2名と兵士250人は即死し、8名が重症を負い、沈み行く艦から、シグズビー艦長が最後に退艦したのでした。
救出されたシグズビー艦長が最初に打信したのは、完全な調査が完結するまで、軽率な判断を自重する様にアメリカ人に求めた内容でした。
しかし、アメリカ大衆とジャーナリズムは、忽ち怒りを露わにし“リメンバー・メイン”のバッジが飛ぶ様に売れ、新聞は、弱腰のスペインに宣戦布告せよと、連日書きたてました。
2月17日、ハーストの「ジャーナル」紙は、メイン号報道で、発刊以来初めて100万部の大台に乗りました。
ハーストは報道員をキューバに派遣していましたから、事件の独自調査結果を連日に様に掲載し、ジョゼフ・ピュリッアーの「ワールド」紙はサルベージ船をチャーターし、沈没船調査に潜水夫迄雇いましたが、調査許可は得られませんでした。
「ジャーナル」紙は戦艦メーン号は、何者かが仕掛けた爆破装置により、沈没したと主張し、一方の「ワールド」紙の見出しは、メーン号の爆発原因は爆弾、水雷の疑い在りでした。
ハースト系新聞は、メーン号爆発に関して、一斉にスペイン非難の論陣を張りましたが、キューバ領事である、リー将軍自身は事故と考えており、アメリカ海軍当局は、積載した石炭の自然発火が原因ではないかと検証しています。
過去にも同様な事故が、他のアメリカ艦艇でも発生していた為ですが、やはり様々な説が唱えられました。
艦が知らずに水雷に接触した、ハバナからの訪問者が爆破装置を石炭庫に仕掛けた、弾薬が正しく保管されていなかった等などです。
スペイン当局は、爆発は内部の事故により発生したと発表するとともに、その主張を立証する為に迅速な調査活動を命じ、事故から1時間後には、早くも目撃者を尋問していました。
2月20日、外部要因を示す様な証拠は発見できないと、スペイン司法当局は宣言し、アメリカ合衆国はスペインの協同調査申し入れを撥ね付け、独自の調査を実施し、3月末、進歩的な一部の雑誌に機雷が原因であると発表しました。
4月11日、マッキンレー大統領は、キューバへの軍事介入を議会に諮り、2週間後にセオドール・ルーズベルトの言うところの「みごとな小戦争」が始まり、8月12日アメリカの勝利で終わりました。
敗戦の結果、スペインは西半球とフィリピンから撤退を余儀なくされたのでした。
しかし、戦艦USSメイン号の謎は、其の後深く残り、1911年に船体をハバナの海底から引き揚げ、調査がおこなわれた結果、爆発箇所は別の疑いが提起されましたが、1912年、艦底部の調査が行われる前に、艦は外洋に引き出され、最高の軍事的名誉を込めた、葬礼の内に波間にその姿を没したのでした。
さて、このアメリカとスペインの戦争は、後のパリ講和会議で決着するのですが、この戦争で交戦機運を煽ったのは、「ワールド」「ジャーナル」の新聞両紙とその系列通信社であり、可也の誇大報道を繰り返しました。
この様な、行為が許されるのか、発行部数を伸ばす為とは云え、甚だ疑問に思う処です。
又、アメリカの国内問題として、長年の課題であった先住民との戦闘が殆ど終結し、軍部としても新たな矛先を探していたところでした。
(この傾向は、現在迄アメリカに付いて回る気質の様で、フィリピン独立戦争、第一次・第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と果てしなく続きます)
しかし、この戦争により、「陽の没する事のない帝国」と呼ばれたスペインの影響力は、その支配地域から急速に失われ、産業革命以後の新興国が、その主導権を掌握した時でも在りました。
終わり・・・

爆発は、乗員居住区画の真下で発生し、将校2名と兵士250人は即死し、8名が重症を負い、沈み行く艦から、シグズビー艦長が最後に退艦したのでした。
救出されたシグズビー艦長が最初に打信したのは、完全な調査が完結するまで、軽率な判断を自重する様にアメリカ人に求めた内容でした。
しかし、アメリカ大衆とジャーナリズムは、忽ち怒りを露わにし“リメンバー・メイン”のバッジが飛ぶ様に売れ、新聞は、弱腰のスペインに宣戦布告せよと、連日書きたてました。
2月17日、ハーストの「ジャーナル」紙は、メイン号報道で、発刊以来初めて100万部の大台に乗りました。
ハーストは報道員をキューバに派遣していましたから、事件の独自調査結果を連日に様に掲載し、ジョゼフ・ピュリッアーの「ワールド」紙はサルベージ船をチャーターし、沈没船調査に潜水夫迄雇いましたが、調査許可は得られませんでした。
「ジャーナル」紙は戦艦メーン号は、何者かが仕掛けた爆破装置により、沈没したと主張し、一方の「ワールド」紙の見出しは、メーン号の爆発原因は爆弾、水雷の疑い在りでした。
ハースト系新聞は、メーン号爆発に関して、一斉にスペイン非難の論陣を張りましたが、キューバ領事である、リー将軍自身は事故と考えており、アメリカ海軍当局は、積載した石炭の自然発火が原因ではないかと検証しています。
過去にも同様な事故が、他のアメリカ艦艇でも発生していた為ですが、やはり様々な説が唱えられました。
艦が知らずに水雷に接触した、ハバナからの訪問者が爆破装置を石炭庫に仕掛けた、弾薬が正しく保管されていなかった等などです。
スペイン当局は、爆発は内部の事故により発生したと発表するとともに、その主張を立証する為に迅速な調査活動を命じ、事故から1時間後には、早くも目撃者を尋問していました。
2月20日、外部要因を示す様な証拠は発見できないと、スペイン司法当局は宣言し、アメリカ合衆国はスペインの協同調査申し入れを撥ね付け、独自の調査を実施し、3月末、進歩的な一部の雑誌に機雷が原因であると発表しました。
4月11日、マッキンレー大統領は、キューバへの軍事介入を議会に諮り、2週間後にセオドール・ルーズベルトの言うところの「みごとな小戦争」が始まり、8月12日アメリカの勝利で終わりました。
敗戦の結果、スペインは西半球とフィリピンから撤退を余儀なくされたのでした。
しかし、戦艦USSメイン号の謎は、其の後深く残り、1911年に船体をハバナの海底から引き揚げ、調査がおこなわれた結果、爆発箇所は別の疑いが提起されましたが、1912年、艦底部の調査が行われる前に、艦は外洋に引き出され、最高の軍事的名誉を込めた、葬礼の内に波間にその姿を没したのでした。
さて、このアメリカとスペインの戦争は、後のパリ講和会議で決着するのですが、この戦争で交戦機運を煽ったのは、「ワールド」「ジャーナル」の新聞両紙とその系列通信社であり、可也の誇大報道を繰り返しました。
この様な、行為が許されるのか、発行部数を伸ばす為とは云え、甚だ疑問に思う処です。
又、アメリカの国内問題として、長年の課題であった先住民との戦闘が殆ど終結し、軍部としても新たな矛先を探していたところでした。
(この傾向は、現在迄アメリカに付いて回る気質の様で、フィリピン独立戦争、第一次・第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と果てしなく続きます)
しかし、この戦争により、「陽の没する事のない帝国」と呼ばれたスペインの影響力は、その支配地域から急速に失われ、産業革命以後の新興国が、その主導権を掌握した時でも在りました。
終わり・・・
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コメント
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2011-07-20 22:52 編集