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2008/10/13

「アドルフに告ぐ」 手塚治虫作品を貴方は知ってますか?

アドルフに告ぐ 
 手塚治虫氏は、数多くの漫画を世に残されました。
しかし、その代表作に挙げられる「アドルフに告ぐ」は、その内容の質の高さに比べ、かなり知名度が低いように思われます。

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 ノンフィクション、第二次世界大戦、ヒトラーがユダヤ人の血統であったならという設定
歴史ものであるため、少し取っ付き難い感はあります。ですが、その程度の理由で、この漫画史上最高傑作の一つを読んでいないというのは、あまりに寂しい。

 他の漫画にもそうあったように、手塚氏の永遠のテーマとは「命」ではなかったか。
そして、その尊いながらも、はかなく散って行く「命」が、際限なく失われていく「戦争」。
この手塚氏の反戦の願いを込めた「アドルフに告ぐ」を読まずして、「手塚治虫氏」を語る事は、氏を敬愛するものにとって不明と言わざるを得ません。

 また数度しか読まずして、「戦争はいけないなぁ」程度の考えしか浮かばないようであれば、それは再々熟読の必要があり、一字一句に全神経を集中して読んで欲しい、と切に願うのであります。

 私も胸をはって威張るほどの考えはありませんが、少なくとも、単に「戦争は悲惨なもの」とだけ捉えるのではなく、もう少し客観的に深く突っ込み、戦争がなぜおきてしまうのか、どういった状況でおきるものなのか。といった様に、根本的な部分を考えてみましょう。

「正義ってものの正体をすこしばかり考えてくれりゃいいと思いましてね・・・つまんない望みですが」

 峠草平の最後のセリフ。戦争はいつもお互いが正しいと信じ、その結果、実力行使により始まってしまう事が多い。例えそれが侵略行為であったとしても、何かに理由をつけ、そして必ず「正義」という言葉を使い、正当性を主張するのです。
勿論こうった場合は、言葉そのものに問題があるわけではなく、その使われ方、そしてその言葉に煽動される人たちにも原因がある様に思われます。

 ここで具体例というか、史実を交えて考えてみましょう。

 戦争がおきる原因の一つに、ある特定的な社会的状況があります。今までの歴史を振り返ると、要は食えない世の中になっていると、起こりうる可能性が高いようです。
大失業、不景気、株価の暴落、古くは疫病の流行、大災害といったような生きるのに困難な状況で、戦争はよく起きてきました。
そのような時に先導者の登場です。彼らは自分達を「救世主」とでもいうのでしょうか。

 第二次大戦前夜のナチス(国家社会主義独逸労働者党)です。
当時のドイツは、第一次大戦で敗北し、巨額の負債(賠償金)を支払うため、マルク紙幣を大量に発行しました。そのため貨幣価値がさがり、破壊的なインフレにより、経済がマヒ状態になってしまい、国内は混乱の極みとなったのです。 
 そのインフレの度合いはというと、朝と夕方での貨幣価値が半分程になるのは当たり前。
最悪の時には、100億マルクでパン一個しか買えないというもの。なんとも凄まじい。

 こうなると国民は、生活をなんとかしてくれる救世主を求めるようになり、その願いと、ヤクザのような集団であったナチスの野望が一致してしまいます。アウトバーン等の国内政策では自ずと限界がきてしまいます。国内に物がなければ他から奪うしかありません。

 こうしてついに、1939年隣国ポーランドへの侵攻をきっかけに第二次大戦が始まりました。(実際は前年、オーストリア、チェコスロバキアを強引に併合していますが、戦いらしい戦いは余りなかった為、ここではこう解釈します。)

 以上の事から解ります様に、決してアドルフ・ヒトラー一人が独善的に戦争を始めた訳ではない
のです(勿論、弁護する気はありませんが)。混沌とした社会への不満から生み出された民意、そして一握りの先導者。両者の思惑が合致した時、戦争が起こってしまうのも必然であったかもしれません。
理由は他にも山程あり、これに民族、宗教、人種を加えると分厚い本になりますので、また別の機会に。

<ちょっとここまでのまとめ>
 要するに「正義」というのは、利用する側にとって都合のいい言葉という事です。
支配する者とされる者。世の中の仕組みを知れば、おのずとその姿は理解できます。
以上が私の考える「正義の正体」です。

 もう一言付け加えるならば、正義とは「自分の信じる道」、といえます。
そこにある価値観は主観的で、ともすれば独善的ともいえるでしょう。
どんな理由があるにせよ、私には「正義」という言葉に何の普遍性はないと考えるのです。

 人が一つの事に没頭し、打ち込む姿というものは美しく、尊いものです。ですが、いつまでも一つのことに捉われ、他者の考えを理解しようとせず、それらを攻撃し、もしくは無視していては、永久に「戦争」をなくす事は出来ないでしょう。もっというならば、そんな了見の狭さが「戦争」を起こすきっかけになるでしょう。「正義」という言葉に、盲目的にならないようにしたいものです。

 さて、先程までは「正義」と「戦争」について考えてみましたが、冒頭で『「戦争はいけないなぁ」
程度の考え』と述べてしまいましたので、その責任をば。いま少しのお付き合いを。

 戦争を「悲惨なもの」、「繰り返してはならないもの」とだけ捉えるのではないのなら、どう捉えるのか。あくまで私の考えですが、感情に訴えるのではなく、論理的に、客観的に捉えることだと思います。

 ほとんどの戦争についてのテレビ番組は、ホロコースト(大量殺戮)の写真や、特攻、原爆の悲劇的な話しかしません(日本国内の話ですので、アジア圏はあまりないんですよねぇ・・・)。
私には、どう見ても感情にしか訴える方法にしか思えないのです。

 常に、被害者側の立場としてからしか物事を見ず、自分達がやられたことばかり強調し、結果として、こんな悲劇は繰り返してはならない、皆さん平和を大切にしましょうとでもいいたげ
です。

 これで反戦の意思は伝わるのでしょうか。私自身、戦争を知らない世代ですので、実際そういった戦時中の話を聴いても、正直実感できません。というより、「わかる」といっても信じる人はいないでしょう。単刀直入に言えば、感情的になっても、人はすぐ忘れてしまうのです。

 ではどうするのか。
もうお分かりでしょうが、被害者としてではなく、加害者、また一番肝心なのは中立の立場で見ていくことです。論理的に捉えていくとはそういうことだと思います。
日本では被爆国として、アメリカではパールハーバー、中国、北朝鮮、韓国では日本の侵略行為を挙げ、反戦を訴えますので、永遠に平行線といった感じです。

 なぜ、どうして戦争に至ってしまったのか。それぞれの国の視点で見て、考えなければ事の真理は見えてこないでしょう。正確な歴史というものを先入観なく、学んでほしいものです。

 以上が私の考察なのですが、ここで大事なことは、正しいのかどうかということではありません。早急に結論をだし、それにこだわり過ぎないこともそうなのですが、峠草平の言葉、「すこしばかり考えてくれりゃいい」というのを実践したにすぎません。十人十色、他にも様々な考えがあるでしょう。

 「アドルフに告ぐ」は時間とともに、そして自らの成長とともに読み返すと、異なる発見と解釈があるはずです。常に本作品を頭の隅に置き、偶さかに広げ、考えを巡らせては如何でしょうか。それが手塚氏のこの作品に込めた想いの様に考えるのです。

以上、あくまでも、私個人の意見です。

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コメント

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たいへん興味深い記事でした!

もっと、もっと、自分の思うままに感想の表現をしても良かったと思います!