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2011/08/29

人類の軌跡その182:末路24

<ナチス全体主義への道その5>  

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ポーランド国境ゲート破壊

◎領土拡張その2

4.チェコスロヴァキア解体(1939年3月)

 オーストリア併合後、ヒトラーは、チェコスロヴァキア併合を画策します。
そもそもチェコスロヴァキアはドイツ人国家では在りませんが、ドイツ系住民が多数を占めるズデーテン地方を有していました。
まずヒトラーは、チェコスロヴァキアに於いて、ドイツ系住民が弾圧されているというプロパガンダを展開し、その保護を行うという名目で、チェコスロヴァキア政府にズテーテン地方併合要求の圧力を加えました。
この圧力に対し、チェコスロヴァキア政府は、断固としてこれを拒否し、当時東欧諸国の中でも唯一ドイツに対抗できる実力を有していた軍事力を頼みに、戦争をも辞さない態度を維持しました。

しかし、戦争を回避したい英仏を主力とする、ヨーロッパ列強の思惑により見捨てられ、ミュンヘン協定により、ズデーテン地方割譲を決定させられます。
国際支援を受けられないチェコスロヴァキアは、1938年にはズデーテン地方をドイツへ割譲をせざるを得なくなり、事実上ドイツに対抗するだけチャンスを永遠に失ったばかりでは無く、更に翌年1939年3月には、武力によってチェコスロヴァキア自体が解体されました。
チェコはドイツ領として併合され、スロヴァキアはドイツの従属国として独立し、地図から消滅します。

5.ポーランド問題 -第二次世界大戦へ(1939年)

 チェコ解体後、ヒトラーはダンツィヒ周辺の所謂ポーランド回廊割譲をポーランド政府に要求しました。
この一帯はかつてのドイツ領で第一次世界大戦後のポーランド誕生に伴い、放棄させられた場所で在り、ドイツにとってこの回廊はドイツ本国と飛び地となっている東プロイセンをつなぐ要衝であると同時に、内陸国ポーランドにとっては、唯一の海港であるダンツィヒ(現グダニスク)を有する重要な地方でした。

チェコスロヴァキア解体の時と同様に、ヒトラーはドイツ系住民が弾圧されているというプロパガンダを行い、その保護を行うという名目でポーランド政府に割譲要求を行いました。
対するポーランドは断固として拒否しますが、前回宥和政策でチェコ問題を解決しようとした英仏列強は、結果としてチェコを失ったという教訓から、ポーランドには領土保全とドイツが侵攻した場合には無制限の援助を行うという確約を与え、ヒトラーと対決を辞さない態度を示しました。
しかし、これには隣国のソ連の協力が不可欠なのですが、ポーランドとソ連は第一次世界大戦後間もない頃に国境紛争を起こしたこともあり、その関係は険悪でした。
英仏の交渉が難航している中、1939年8月には独ソ不可侵条約が締結されましたが、この条約はお互いを仮想敵国として対立していた国家同士間の条約であり、当に電撃的な条約締結は世界を驚せます。
この条約には、ポーランドを東西分割するという軍事秘密条項があり、ポーランドの運命はここに決したのです。

続く・・・

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