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2011/09/12

人類の軌跡その194:歴史の狭間で⑨

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:スペイン内戦(1936-1939)その②>

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「ゲルニカ」パブロ・ピカソ1937年作

ゲルニカ空襲と作品「ゲルニカ」

 1937年は、世界史の中でも大きな転回点となった年でした。
中国大陸では7月、廬溝橋事件を皮切りに日中戦争が勃発し、11月には日独伊防共協定が成立、そして12月には南京虐殺事件が発生します。
欧州ではナチズムが猛威をふるいはじめ、スペインでは前年に勃発した内戦が全国に拡大し、この年の4月28日、フランコ将軍の独裁を支援するナチス・ドイツ派遣軍が、スペイン北部バスク地方の古都、ゲルニカを空襲しました。

 人口7000人の小さな街はこの日1日の空襲で廃墟と化し、地上から姿を消しました。
非戦闘員である市民を殺戮する「無差別爆撃」が世界で初めて行われた瞬間でした。
これを契機に近代戦争の様相は一変します。
市民を大量殺戮する狂乱は、日本軍による重慶等の中国の都市への爆撃、東京大空襲など日本各地への米軍による空襲、そして広島・長崎への原爆投下、さらに現在の中東、北アルリカに至る迄続いているのです。

 世界史に一気に暗雲が発ちこめた、この年、フランス政府は5月24日~11月25日まで、パリで万国博覧会を催しました。
パリで万国博覧会が開かれるのは1900年以来の事であり、スペイン共和国もパビリオンを建てて参加しましたが、そのスペイン館の壁画を依頼されたのがピカソでした。

 依頼を引き受けたにも関わらず、当初、ピカソは何を題材にするか発想が浮かびませんでした。
その折りに、故郷スペインからゲルニカの悲劇のニュースが飛び込みます。
ゲルニカ空爆の第一報がパリの新聞に載った翌々日の5月1日には、ピカソはゲルニカを主題とする6枚の素描を描き上げ、以後、10日間に20点のスケッチを完成させた。そして、5月11日に、ピカソは高さ3.3メートル、幅7.5メートルの巨大なキャンバス向かい、一気呵成に作品を描き上げたのです。

 1937年の6月4日、大作「ゲルニカ」は完成し、6月下旬、エッフエル塔下に広がる万博会場に運び込まれました。
1937年のパリ万国博覧会のテーマは「現代生活に応用された芸術とテクノロジー」。
テクノロジーの象徴として注目を浴びたパビリオンは「航空館」であり、巨大テクノロジーの象徴として来たるべき航空機時代を予見する「光」のパビリオンでした。

 そして、その対局の「陰」の役割を「スペイン館」が期せずして果たす事に成りました。
スペインは前年から内戦に突入していましたから、スペイン館は、反乱軍の仕掛けた内戦によって危急の場におかれた共和国政府が、世界に向けて救援を求める情報発信基地の役割を担っていたのです。

 そのスペイン館の入り口に巨大壁画「ゲルニカ」が掲げられましたが、それは単にスペインの窮状を訴えるという役割を越えて、隣接する「航空館」の威勢を制御し、航空大時代のもたらす狂気を露わにし、人類への鮮烈な警告灯と成りました。

 「ゲルニカ」は万博が終了後もスペインに帰る事は無く、スペイン本国はその後、1977年迄、フランコ将軍の独裁体制へと突入していきます。
「ゲルニカ」は、ロンドン・ニューヨークへと流転し、1981年、ピカソ生誕100年を区切りにスペインに帰郷したのでした。

続く・・・



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