人類の軌跡その197:歴史の狭間で⑫
<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ユーゴスラヴィア・民族対立の果て>

1941年パルチザン掃討作戦
1919年のヴェルサイユ体制によって成立したユーゴスラヴィアは、セルビア人と、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人等の多種多様な民族から構成される、人為的に作られたモザイク国家です。
しかし、第一次世界大戦の当事国であり、戦勝国でもあるセルビア王国と、敗戦国のオーストリア=ハンガリー帝国のボスニア=ヘルツェゴヴィナ地方、クロアチア地方及びスロヴェニア地方で構成されていた為、戦勝国であるセルビア人は優遇され、敗戦国であるオーストリア=ハンガリー帝国に属していたクロアチア人、スロヴェニア人は冷遇される結果と成りました。
この様な民族間の対立の為、建国当初から国家分解の危機をはらんでいました。
◎外交政策
東西を二つの大国であるドイツ、ソ連に囲まれ、又潜在敵国であるハンガリーに接し、一種剣呑な状況に置かれたうえ、更に国内に民族対立を抱えていたユーゴスラヴィアは、チェコスロヴァキアが提唱した同盟で平和を確保しようと画策します。
すなわち、チェコスロヴァキアとルーマニアとの間で三国協商を締結しますが、盟主的立場にあったチェコスロヴァキアが1939年にドイツによって解体され、仮想敵国ハンガリーのドイツへの接近により孤立化し、1940年のフランス敗北を引き金に、正に国家存続の危機に迫られました。
◎国家消滅
1939年のチェコスロヴァキア崩壊に続き、仮想敵国のハンガリーのドイツへの接近、なにより致命的と云える1940年のフランスの敗戦により、1941年時点でユーゴが中立を宣言しても、戦火が免れる状況では在りませんでした。
唯一これを免れる方法は、ドイツの同盟国、現実的には隷属国家となるしか方法が無く、ユーゴスラヴィアは、1941年3月25日、日独伊三国同盟に加盟しました。
しかし、1941年3月26日にベオグラードで発生した、セルビア人将軍シモノビッチによる反独クーデターによって親独政府は転覆、三国同盟は破棄されます。
このクーデターの意義については、単にユーゴスラヴィアを戦火に曝し、更に国家消滅をさせた愚かな行動との評価がありますが、ヒトラーの逆鱗に触れ、来る独ソ戦の為に必要な、バルカン諸国の支配力強化を目的とした、イギリスの同盟国ギリシア制圧作戦(作戦名「マリタの件」)に急遽ユーゴスラヴィア制圧作戦が組入られたのでした。
4月6日、ドイツ軍は、ヴァイクス将軍指揮の第2軍とリスト将軍の第12軍の計33個師団が、オーストリアとブルガリアから、更にハンガリーからハンガリー第3軍、ルーマニアからは第41機械化軍団が侵入を開始し、ユーゴスラヴィア軍31個師団を撃破して行きます。
4月11日にはイタリア第2軍が侵攻し、4月12日には首都ベオグラードが陥落し、ユーゴの敗戦が決定的となり、4月17日にはユーゴスラヴィアは降伏します。
この戦後処理は厳しいものであり、ユーゴスラヴィアは国家としての存在を認められず、解体されますが、このユーゴスラヴィア侵攻は、ドイツの主要目的である対ソ戦(バルバロッサ作戦)の開始を5月15日から6月22日へと延期させることになり、この遅れが、後にドイツ軍に致命的な結果をもたらす事に成ります。
国家解体後、ドイツは民族憎悪を利用した支配を実施し、ドイツ民族に近いクロアチア人の傀儡国家を成立させ、セルビア人弾圧の先兵として利用しました。
このしこりが、50年後のユーゴ内戦の遠因となった事は、現代史に明らかです。
続く・・・

1941年パルチザン掃討作戦
1919年のヴェルサイユ体制によって成立したユーゴスラヴィアは、セルビア人と、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人等の多種多様な民族から構成される、人為的に作られたモザイク国家です。
しかし、第一次世界大戦の当事国であり、戦勝国でもあるセルビア王国と、敗戦国のオーストリア=ハンガリー帝国のボスニア=ヘルツェゴヴィナ地方、クロアチア地方及びスロヴェニア地方で構成されていた為、戦勝国であるセルビア人は優遇され、敗戦国であるオーストリア=ハンガリー帝国に属していたクロアチア人、スロヴェニア人は冷遇される結果と成りました。
この様な民族間の対立の為、建国当初から国家分解の危機をはらんでいました。
◎外交政策
東西を二つの大国であるドイツ、ソ連に囲まれ、又潜在敵国であるハンガリーに接し、一種剣呑な状況に置かれたうえ、更に国内に民族対立を抱えていたユーゴスラヴィアは、チェコスロヴァキアが提唱した同盟で平和を確保しようと画策します。
すなわち、チェコスロヴァキアとルーマニアとの間で三国協商を締結しますが、盟主的立場にあったチェコスロヴァキアが1939年にドイツによって解体され、仮想敵国ハンガリーのドイツへの接近により孤立化し、1940年のフランス敗北を引き金に、正に国家存続の危機に迫られました。
◎国家消滅
1939年のチェコスロヴァキア崩壊に続き、仮想敵国のハンガリーのドイツへの接近、なにより致命的と云える1940年のフランスの敗戦により、1941年時点でユーゴが中立を宣言しても、戦火が免れる状況では在りませんでした。
唯一これを免れる方法は、ドイツの同盟国、現実的には隷属国家となるしか方法が無く、ユーゴスラヴィアは、1941年3月25日、日独伊三国同盟に加盟しました。
しかし、1941年3月26日にベオグラードで発生した、セルビア人将軍シモノビッチによる反独クーデターによって親独政府は転覆、三国同盟は破棄されます。
このクーデターの意義については、単にユーゴスラヴィアを戦火に曝し、更に国家消滅をさせた愚かな行動との評価がありますが、ヒトラーの逆鱗に触れ、来る独ソ戦の為に必要な、バルカン諸国の支配力強化を目的とした、イギリスの同盟国ギリシア制圧作戦(作戦名「マリタの件」)に急遽ユーゴスラヴィア制圧作戦が組入られたのでした。
4月6日、ドイツ軍は、ヴァイクス将軍指揮の第2軍とリスト将軍の第12軍の計33個師団が、オーストリアとブルガリアから、更にハンガリーからハンガリー第3軍、ルーマニアからは第41機械化軍団が侵入を開始し、ユーゴスラヴィア軍31個師団を撃破して行きます。
4月11日にはイタリア第2軍が侵攻し、4月12日には首都ベオグラードが陥落し、ユーゴの敗戦が決定的となり、4月17日にはユーゴスラヴィアは降伏します。
この戦後処理は厳しいものであり、ユーゴスラヴィアは国家としての存在を認められず、解体されますが、このユーゴスラヴィア侵攻は、ドイツの主要目的である対ソ戦(バルバロッサ作戦)の開始を5月15日から6月22日へと延期させることになり、この遅れが、後にドイツ軍に致命的な結果をもたらす事に成ります。
国家解体後、ドイツは民族憎悪を利用した支配を実施し、ドイツ民族に近いクロアチア人の傀儡国家を成立させ、セルビア人弾圧の先兵として利用しました。
このしこりが、50年後のユーゴ内戦の遠因となった事は、現代史に明らかです。
続く・・・
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