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2011/09/16

人類の軌跡その198:歴史の狭間で⑬

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:フランス悲劇の陸軍大国>

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ドイツ国防軍 巨大列車砲「DORA」

 第一次世界大戦に勝利したものの、甚大な経済的、人的被害を受けたフランスは、被害を最小限に押さえる為、大戦間の国防方針は明らかに防御的なものとなりました。
これは有事の際、被害を恐れる余り消極的と成って行く危険性も有していたのです。

 経済的には、中央ヨーロッパやアジアの植民地経営が成功し、一時的には往時の繁栄を取り戻したかに見えたが、1929年に始まる世界大恐慌によるダメージは甚大であり、更に大戦間のフランス政局は、右翼と左翼(共産党等)の対立によってしばし混乱し、長期的な視野に立って政策を実行し得る内閣が存在しなかった為、恐慌からの脱却が立ち行きませんでした。
この様に人的資源の面からも、経済的側面からも、ドイツの軍部拡大に太刀打ちできるだけの余力がない状態で、ドイツとの戦争に突入して行きました。

◎国防:マジノライン

 第一次世界大戦で、甚大な人的被害を被ったフランスは、大戦間の国防方針を、乏しい人的資源の減少を避ける意味から、保守的・防御的と成らざるを得ず、この象徴とも云えるものが、対独国境に建設されたマジノ要塞でした。
因みに、建設当時の陸軍大臣アンドレ・マジノにちなんで命名されたこの要塞は、膨大な費用と、当時最新技術を駆使した要塞で、少なくとも正面からの攻撃に対して、無敵でしたが、マジノ線は以下の欠点を有していたのです。

1.マジノ要塞には常時大軍を配置せねばならず、またマジノライン防衛を戦略最優先事項とした為、機動性等の柔軟性を欠いていました。

2.建設に当たって膨大な費用(当時の軍事予算を使い切った)が嵩み、又同様、維持に莫大な費用がかかり、他の兵器生産や開発への予算が枯渇していました。

3.「マジノラインが存在する限りフランスは安全である」と云う一種の幻想に似た過剰な期待を国民に抱かせ、心理的影響迄与えてしまい、この当時のフランス国民は、ナポレオンが残した教訓である「要塞にこもった敵は必ず撃破される」と云う言葉を完全に忘れていました。

4.地理的に重大な欠点をマジノラインは有していました。
第一に対独防御を想定した事、第二にベルギーを刺激しない為の配慮で、対ベルギー国境には建設しなかった事でした。
この重大な欠陥は、ベルギー国境付近を突破されれば容易に背後に回り込まれ、無力化できる事を示していました。事実、第一次世界大戦時に、ドイツ軍が直接対仏国境を攻撃せず、ベルギー国境を通って、フランスを攻撃した(シュリーフェン・プラン)前例があり、当然考慮検討しなければならない重大項目でした。
対独宣戦布告後、急ピッチで対ベルギー国境にもマジノライン延長工事を行ったものの、間に合う事無く、開戦時には対戦車防御のコンクリート製バリケードすら不十分で、まだ土塁のみの箇所も多々存在したのです。

続く・・・

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