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2011/09/28

人類の軌跡その205:歴史の狭間で20

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:イギリス 大英帝国の威信を賭けてその②>

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1938年 ミュンヘン会談


◎宥和政策とチェコスロヴァキア問題

 宥和政策とは、1937年に首相に就任したネヴィル・チェンバレンが押し進めた政策で、ナチス・ドイツに譲歩する事によって平和を維持しようとする政策でした。
1938年2月、対独強硬派で在った外相アンソニー・イーデンが、首相と対立して辞任に追い込まれた後、宥和政策が顕著となります。
後世、この政策は弱腰外交と非難されるが、当時ドイツに対抗可能な戦力を再建する為の時間稼ぎの性格も有していたのです。

 この宥和政策の典型となったのが、チェコスロヴァキア問題での対応でした。
当時、チェコスロヴァキアのドイツ系住民が多数住んでいた、ズデーテン地方の割譲をヒトラーが要求し、その要求が拒絶された場合には、戦争をも辞さない強行姿勢を貫いていました。
是に対し、チェコスロヴァキア政府は、要求を断固として拒否し、国内に動員令を布告し、戦火を交える事をも辞さない態度を取りましたが、世界大戦に発展する事を恐れた英仏列強は、イタリアの仲介によりミュンヘンでチェコ問題を協議したのでした(ミュンヘン会談)。

 しかし、この会談は独伊英仏の4国のみで、当事国で在るはずのチェコスロヴァキアは除外され、その会談の結果、チェコスロヴァキアは、ドイツへのズテーデン地方割譲と引き換えに、チェコスロヴァキアに国家としての独立保障が取り決められます。
チェコスロヴァキア政府は、止む無くズデーテン割譲を容認せざるを得ず、この会談によって、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンは戦争回避を宣言します。
最もヒトラーは、ミュンヘン協定を尊重する事は無く、1939年、ミュンヘン会議の取り決めを無視し、チェコ(ボヘミア・モラヴィア地方)を併合し、スロヴァキアを保護国化する行動を起こし、この結果、イギリス政府は完全にその体面を傷つけられ、従来の宥和政策を捨て去り、ドイツとの対決を明確にするようになりました。

続く・・・


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