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2011/10/15

人類の軌跡その218:歴史の狭間で33

<第二次世界大戦前夜の周辺諸国:ソビエト連邦その⑤>

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◎東部戦線開戦迄

 1939年8月23日の独ソ不可侵条約の締結は、全体主義と社会主義と云う、相容れない関係と見られていたドイツとソ連の接近であり、全世界に衝撃を与えました。

 しかし、ドイツは、避けられないと予想されるイギリス、フランス戦に専念する迄、その背後の憂いを絶つ目的から、ソ連は赤軍大粛清で弱体化したソ連軍を再建する為の時間稼ぎの為と云う、お互いの思惑が存在していました。
将来、何れかの国が、この条約を不要とした場合、条約を破って侵攻してくることは明かでしたから、其の為、ソ連は自国の安全を最優先し、独ソ不可侵条約で同時に調印され、秘密議定書によって認められていた独ソ間による北欧・バルト三国・東欧諸国のお互いの勢力分布に基づいて、領土併合の野望を顕わにするのです。

 1939年のソ連・フィンランド戦争、1940年のバルト三国併合、同年のルーマニアのベッサラビア地方併合がその例ですが、このベッサラビア地方併合は、ドイツが有する唯一の油田地帯であったプロエスティ油田に近く、ドイツを刺激することになりました。
仮にそこを占領されれば、ドイツは戦争遂行能力に重大な影響を与える為であり、バルカン地方の混乱によって、同地域にソ連が進出する余地を与えてしまう事に重大な危機感を抱き、ヒトラーはバルカン諸国の混乱を一気に解決すべく、ウィーン裁定と呼ばれる強硬な決定によって、ルーマニア領トランシルヴァニアのハンガリー帰属、ブルガリアへの領土割譲を決定してしまいます。

 その代償として、ドイツは軍事使節団という名目でドイツ軍を派遣し、ルーマニア領土の安全保障に責任を負う事となり、一応の安定を取り戻しました。
しかしその安定も長期化せず、独ソ間の緩衝地帯を手中にした両国は1941年6月22日、ドイツによる不可侵破棄を迎えます。

続く・・・

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