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2011/10/19

人類の軌跡その221:中国王朝伝説①

<伝説の中国夏王朝>

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 中国の夏王朝は、考古学的な発見が成されていない為、未だに伝説として扱われていますが、「史記」をはじめ多くの書物に記述が存在し、実在した可能性が強く、遺跡等の発見が期待されています。
(注:殷王朝も遺跡(殷墟)が発見される迄は伝説とされていました。)

 夏王朝は、黒陶文化(竜山文化)との関係も推察されていますが、夏の時代には未だ文字が使用されておらず、吉凶を占う為の獣骨にも文字が刻まれていない為、不明なまま現在に至っています。

 夏王朝の前には、三皇五帝の時代が存在したと云われています。
夏王朝の始祖は禹(う)で、禹の父は鯀(こん)とされており、鯀は、五帝のうちの一人である堯(ぎょう)の治世に治水工事を命ぜられたものの、9年の時を経ても完成せず、羽山(うざん)に流されて、命を落とします。
鯀の後を継いだのが禹で、禹は13年間の期間を費やし、終に治水工事を成功させました。

 禹は、嵩山(すうざん)の畔を本拠とし、妻の二人は塗山(とざん)氏の娘で、禹は結婚4日でまた治水工事の為に家を出たと云います。
禹は険路を行く時に熊の姿と成って走り、之を見た妻は逃げ出して石になったという説話が存在しますが、妻はこの時既に身ごもっていて、禹が「子を返せ」と叫ぶと、石が割れて子が生まれたと伝えられますが、この人物が啓なのです。

 禹は、後に舜(しゅん)の後を継いで帝位に就き、夏という国号は、禹が最初に封じられていた国の名から採ったと云われています。
治世の間に、車・酒・井戸の技術が開発され、九鼎を鋳造したと云う金属利用の説話も存在しています。

 禹は、東に巡幸した際に、現在の浙江省の会稽(かいけい)で崩御したと伝えられており、禹は、帝位を、自分を補佐してくれた益(えき)に譲りますが、禹が死んで三年の喪が明けると、益は帝位を禹の子である啓に譲って、自分は箕山(きざん)に隠棲してしまい、夏王朝の世襲制が始まりました。

続く・・・

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