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2011/10/20

人類の軌跡その222:中国王朝伝説②

<伝説の中国夏王朝その②>

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 啓が帝位を継いだ時、同属の有扈(ゆうこ)氏が服従せず、啓は、有扈氏を攻め滅ぼし、その治世の間に、「音律を並べて、礼楽を調えた」とされます。
又河南の地で在る嵩山から、河の北へ都を移し、啓は、39年間帝位に就き、78歳で死んだと伝えられています。

 啓の子の大康(たいこう)は、狩猟に熱中して民事に務めず、夷族の羿(げい)(注:羿は、堯の時代にも名がみる。)に天下を奪われてしまいます。

 大康の死後、弟の中康(ちゅうこう)が即位しますが、天下奪回はならず、中康の子である相(しょう)、更に相の子が、少康(しょうこう)で在り、彼の治世の時、寒浞(かんさく。羿を殺して夷族の統領となっていた)を攻め滅ぼして夏王朝を復興しました。

 少康の後の7代目は孔甲(こうこう)で、出来の君主の器ではなく、孔甲の子のコウ(注:漢字が出ません。)が在位3年、その子の発(はつ)は在位7年、発の子か桀(けつ)で、夏王朝最後の王となった。

 桀は、現在の山西省の洛陽に都を置いていたと考えられており、桀の政治は乱れて罪が多いとして、殷(商)の湯(とう)王と宰相の伊尹(いいん)によって攻められ、桀は鳴条へ逃げてその地で大敗し、更に敗走して捕らえられ、南巣(なんそう)に追放されたと云います。
南巣は現在の安徽省の巣湖の辺りと考えられますが、桀王の子孫は諸侯の地位を得て、祖先を祭ったと伝えられますが、夏の祖先の怨霊を恐れたもの考えられます。

続く・・・


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