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2011/11/02

人類の軌跡その232:伝説から歴史へ①

<中国殷王朝その①>

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 殷王朝は、嘗て夏王朝と同様に伝説とされていた時代が在りましたが、遺跡(殷墟)、甲骨文字の発見により、その実在が証明されました。

 殷の開祖は契(せつ)で、夏王朝時代に諸侯の列に加わっていたものと考えられ、当初は河南省の商(しょう)と云う国に封じられていた事から「商」と呼ばれますが、後に殷に遷都したため「殷」とも呼ばれています。
司馬遷の「史記」では殷として示されており、甲骨文では全て商と表され、自称は商であったと思われます。

 開祖の契は、禹(夏王朝の初代)を補佐して治水工事に功績が在ったと云われています。
契の母は簡狄(かんてき)と云い、有娀(ゆうじゅう)氏の娘で帝嚳(ていこく)の次妃だったと伝えられています。
簡狄は三人で水浴びをしていた時、玄鳥(ツバメ)が卵を落した処を目撃し、その卵を飲んだ処身篭り、契を生んだと云う説話が存在しています。

 夏王朝を倒して天下を簒奪したのは、契から数えて第十四代の湯(とう)の治世の時で、其の時の宰相は伊尹(いいん)でした。

 伊尹には、変わった説話が多く存在し、彼の母は伊水の畔に居て身篭った時、夢で神のお告げを聞きました。
「水に臼が浮かんでいたなら、東へ一目散に走って、けっして振り返ってはならぬ」と告げられ、翌日、臼が見えたので東へ走った処、十里進んだ所で振り返ってしまうと、村は皆水となり、彼女は空桑(なかが空洞の桑の木)と成ってしまいました。
有莘国の女が桑の葉を摘みに来て、空桑の中に赤子を見つけ、有莘氏の君に献じると君は料理人にその子を育てさせました。
これが、伊尹で在ると云う説話が有ります。

 「晏子春秋」では、伊尹の姿を「黒くして短く、蓬頭にして髯づら、頭は上が大きく下が尖り、せむしで声が低い」と描写しています。
伊尹は有莘(ゆうしん)氏の娘が湯へ輿入れする時に料理人として伴ったと云う話や、逆に、湯が有莘氏を歴訪した際に小臣で在った伊尹を所望し、その後に有莘氏の娘を妃に迎えたという話も残っています。

 伊尹は湯に仕えた後、夏に赴き、夏の無道を憎んで湯の下へ戻ったと云う話は、夏への諜報活動を行ったものと考えられます。
夏へ赴く際に、伊尹が湯の怒りに触れ、湯は伊尹に矢を射て殺そうとし、伊尹は命からがら夏へ逃げ込んだと云う偽装工作を行い、夏には3年留まりますが、その間夏の桀王は女好きで岷山(びんざん)国を攻めた時に二人の美女を手に入れます。
之を快く思わない桀王の妃の妹喜(ばっき)は、後に、殷へ戻った伊尹へ夏の軍隊配置等の重要情報を知らせたと云う話も残っています。

続く・・・

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