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2011/11/04

人類の軌跡その233:伝説から歴史へ②

<中国殷王朝その②>

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 夏王朝の最後の王と伝えられる桀は、現在の山西省の洛陽に都を置いていたと考えられています。桀の政治は乱れて罪が多いとして、殷(商)の湯(とう)王と宰相の伊尹(いいん)がこれを攻め、桀は鳴条へ逃れてその地で大敗を喫し、更に敗走して捕らえられ、南巣(なんそう)に追放されたと云います。
南巣は現在の安徽省の巣湖付近と考えられています。
桀王の子孫は諸侯の地位を得て、祖先を祭りましたが、之は夏の祖先の怨霊を恐れたものと推測されます。

 殷の天下と成り、湯が崩御すると、嫡男の太丁(たいてい)が既に逝去していた為、弟の外丙(がいへい)が即位しますが3年で世を去り、次の弟の中壬(ちゅうじん)が即位して4年で崩御すると、伊尹が嫡男太丁の子である太甲(たいこう)を擁立したと云います。

 太甲は暴虐で湯の法に従わなかった為、在位3年で伊尹により桐宮(とうきゅう。湯が葬られた土地。)へ追放され、伊尹が政務を司りました。
太甲が反省し悔い改めたので、追放3年で王位に戻り、太甲の死後にその子の沃丁(よくてい)が即位し、沃丁の時に伊尹が死去しました。
殷の人達は、伊尹を自分達の祖先と同様に祭り、又伊尹の子の伊陟(いちょく)も宰相と成りました。

 湯の建国から200~300年を経過すると、殷の国力は次第に衰えて、諸侯が入朝しなくなりました。
之を再興したのが湯から数えて19代目の盤庚(ばんこう)で、都を遷都し殷を基礎から建て直しました。
殷は13回遷都したと推定されますが、盤庚王の遷都は所謂殷墟への遷都で、殷の最後の遷都と成りました。

 殷の歴史で明確に解明されている箇所は、殷墟と其処から出土した甲骨文で在り、之は殷墟へ遷都した年以降の王十二代の部分に相当します。

続く・・・


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