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2011/11/05

人類の軌跡その234:伝説から歴史へ③

<中国殷王朝その③>

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◎二里岡(にりこう)文化

 考古学的な研究によると、中国の中原地方(現在の洛陽から鄭州を中心とした黄河中流地方)に於いて、中原龍山文化→二里頭文化→二里岡文化→殷墟文化と云う発展段階が認められています。
二里頭文化を夏王朝、二里岡文化を殷王朝の初期に比定する説も存在しますが、現在、確証は発見されていません。

 二里岡文化に先行する文化として先商文化(下七垣文化)が認められています。
現在の河北省南部・河北省北部を中心とする遺跡で、周囲の諸文化と交流しながら、やがて河南省東部や黄河北岸へ広がり、二里頭文化(夏?)や山東省の岳石(がくせき)文化と接触し、更に、二里頭文化の担い手である最初の王朝に代わって、中原地区で主要な位置を占めるに至ったと推測されています。
その過程で先商文化は二里岡文化へ段階的に移行し、鄭州商城・偃師商城などを建設して殷王朝を確立したものと考えられ、鄭州商城遺跡は、周囲約7kmの長方形の城壁を有していました。

 二里岡文化は、二里頭文化から、初期の礼器としての青銅器や玉器の製作技術の他、若干の儀礼的用途の土器を継承しています。

☆周辺地域の状況

 殷王朝期には、地方に直轄的な軍事的拠点や、資源確保等を目的とした植民的拠点が存在したと考えられます。
湖北省黄陂の盤龍城遺跡は、長江中流域の北岸に近い場所にあり、銅資源の入手の為の拠点でした。この他、山西省・河南省・陜西省に、遺跡が発見されており、何れも、殷王朝の衰退に歩調を合わせて衰退しています。

 山東省東部には、岳石文化があり、中原文化の進出は阻まれていたと考えられ、山東半島の縁辺部に中原王朝の文化が浸透したのは、西周中期以降と推定されています。

 一方、長城地帯の東西(内蒙古中南部・東部、遼西地区、甘粛・青海を加えた華山の北部・西部)には、華北の農耕社会と対峙する様に、牧畜や遊牧が大きな役割を果たす諸地域が存在し、BC2000年前後に、冷涼乾燥化の影響で華北型の農耕が放棄された痕跡が認められます。

 又、長河以南での稲作文化の広がりが、土器の分布によって認められ、江南社会の古い姿が形成されて行きました。

続く・・・

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