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2011/11/10

人類の軌跡その238:伝説から歴史へ⑦

<朝鮮半島の歴史その③:楽浪郡>

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◎ 楽浪郡等4郡設置

 漢の武帝は武力により朝鮮を攻め、BC108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮の故地に「楽浪(らくろう)郡」「真番(しんばん)郡」「臨屯(りんとん)郡」「玄菟(げんと)郡」を置いて直接支配を行いました。

 しかし、BC82年、設置から26年で「真番郡」と「臨屯郡」は廃止され、「玄菟郡」は西方(現在の中国吉林省方面)に移され、更にBC75年、「玄菟郡」は遼東郡に吸収され玄菟城(現在の中国遼寧省方面)に名目を残すだけと成りました。
その理由を「魏志」東夷伝では、住民が郡県の支配を嫌って抵抗した為としています。
「楽浪郡」だけが永く続きますが、「楽浪郡」の都は、当初、現在の平壌に在ったと推定され、中国の東方進出の拠点と成った他」、朝鮮半島の韓(はん)族・濊(かい)族・海を越えた倭(日本)おも圧力をかけて来ました。

 この頃から、朝鮮半島の在地首長達は、中国的な青銅器製の車馬具・鏡鑑・武器、鋳造の各種鉄器、漆器等を用いる様に成り、その後、時を経て青銅器は儀式用に限られ、実用のための鉄器の作製・使用が盛んになりました。

 AD30年に、楽浪郡の中国人系の在地豪族である王調(おうちょう)が反乱を起こし、半年以上も楽浪郡を占拠したが、在地勢力の発展を伺わせます。
AD44年には、朝鮮半島南部の国家形勢が進展し、楽浪郡に朝貢するものが現れ、AD49年にも南朝鮮の倭(注)・韓族の朝貢が伝えられています。
(注:「倭」についても、時代によって指すものが変化している。内蒙古地方の倭、南朝鮮の倭、南方の倭。此処では、南朝鮮の倭。)

 後漢時代には、楽浪郡の組織も在地豪族を主体とするものと成り、中国の郡県支配の中心は遼東郡(現在の遼寧省方面・大陸部)に移り、AD132年に、高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害している事から、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられます。

 玄菟郡の太守であった公孫氏は、遼東郡をも支配し、AD204年(注:AD205年頃としている文献も存在。)には楽浪郡の屯有県(現在の黄海北道黄州方面)以南を帯方郡とし、郡県制を復興して、東方や南方の民族への影響力を強めようと努めました。
AD238年、中国の魏は司馬宣王を派遣して公孫氏を滅ぼし、この時、高句麗は魏に援軍を送り、楽浪郡と帯方郡は、魏に受け継がれ、魏がこの2郡の実行支配を行うと、朝鮮半島南部の韓族や日本の邪馬台国からの使節が朝貢しはじめます。

 AD266年に魏に代わって晋が建つと、AD274年に平州の5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を置き、AD311年に、高句麗が西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)を陥れると、遼東郡と楽浪郡・帯方郡の連絡が断ち切られました。

 しかし、この時の晋は匈奴に攻められて都の洛陽が陥落し、遼東郡への支援を継続できる状況で無く、遼東郡を実質的に支配しているのは鮮卑族で在り、高句麗は、更にAD313年、楽浪郡・帯方郡をも占領するに至りました。
此れにより、BC108年から続いた中国による朝鮮半島の直接支配には終止符が打たれ、後に半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の小国の集まりは、新羅と百済に統合し、高句麗・新羅・百済の三国時代へ移行していきます。

続く・・・


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