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2011/11/12

人類の軌跡その240:邪馬台国②

<魏志倭人伝その②>

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仮説4 倭国 = 和国

 中国では「倭」という卑しい漢字があてられたが、日本では「和」という字を用いたのではないでしょうか?

仮説5 和国 → 大和国 (ヤマト国)

 元々は「和」国で当てたものが、国々の連合体或いは大国への発展により「大和」という文字を用いる様に成ったのではないでしょうか?
魏志倭人伝のなかに「国国市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。」という表現が存在し、此処での「大倭」は役職の様な物と考えられますが、この語が発展して行ったと仮定する事も可能です。
 
「大和」と書いてなぜ「ヤマト」と読むか。其れは、和国の基礎がヤマトに在ったと云う事で、和国の中に在った「ヤマト」が、次第に勢力を持ち、「ヤマト」と「大和」が同義に成って行ったと仮定すれば、卑弥呼の邪馬壹(臺)国がそのヤマトではないかと考えられます。

仮説6 卑弥呼の邪馬壹(臺)国は、九州に散在した 

 卑弥呼が『古事記』『日本書紀』での天照大御神で在ると考えると、此れは神武天皇の東征前となります。
当時の邪馬壹(臺)国(=ヤマト国)は九州に在って、其処から政権中心者の血筋を引く神武天皇が東征し、近畿地方で一大勢力と成ったと考えると、日本の資料と中国の資料がうまく組み合わせて解釈でき、神武天皇の東征は、遷都では無く一部の者が東へ向かったものだと考えられます。

(追記)

 邪馬台国が九州に存在したか、大和地方に存在したかの論争の根源は、魏志倭人伝の方位と距離をそのまま読むと海の彼方へ行ってしまう為、方位と距離のどちらかが間違っているのであろうという点から始まっています。
しかし、古田武彦氏は、「倭人伝を徹底して読む」朝日文庫のなかで、「漢代の一里は約435mであるが、魏志倭人伝を含む『三国志』では魏・西晋朝の時だけ公認されていた短里で書かれているのではないか。そして、その短里は約77mで、漢代の長里に比べると約1/5であろう。」という主張をされています。
方位と距離のどちらかが間違っているといった説よりも、ずっと説得力があります。
因みに、古田武彦氏は北九州説を取られています。

続く・・・




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