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2011/11/15

人類の軌跡その242:半島の歴史①

<百済その①>

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 朝鮮半島の南西部に存在した、馬韓の一小国、伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展しました。

 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢しています。
346年は、近肖古王の即位の年とされています。(但し、近肖古王は、第13代目の王とされています。)

◎百済の建国伝説

 高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだので、弟の沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)は高句麗を出て、自分達の国を建てようと南へ向かいますが、その時10人の臣下と大勢の農民が此れに従いました。
(「三国史記」別伝に由れば、沸流と温祚は朱蒙の実の子ではなく、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘で召西奴の子としています。)

 やがて漢山(かんざん・現在の京幾道広州郡)へ辿り着き、2人は臣下と共に負児岳(ふじがく)の頂に登り周囲を見渡すと、沸流は海の見える方向が気に入りましたが、10人の臣下は口を揃えて反対し、「其れよりも、此方の方です。北に江が流れ、東に山を控え、南は平野、西は海、こんな究竟な良い場所は在りません。都はぜひ、此方へお建てに成る事です。」と勧めましたが、沸流はどうしても聞着いれません。
農民達を半分に分けて、自分だけ海辺の方へ都を置く事に成りました。
この場所が弥鄒忽(みすこつ・現在の仁川)であり、弟の温祚は臣下達の意見に従って、漢山の慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡)に都を定め、10人の臣下に因んで、国の名を「十済」と呼ぶ事にしました。

 弥鄒忽は土地が湿っているうえ水が塩辛く、農民の苦労も多大なものでした。
沸流が弟の様子を見に慰礼城へ来てみると、何の不足もなく幸せに暮らしています。
自分を恥じた沸流は、それを苦にして病となり亡くなり、その後、農民達は慰礼城へ移り、人民が増えたので、国号を「百済」に改めました。
百済は、ここから領土を広げて大きく成っていきました。
(実際には、百済として大きな勢力となったのは、高句麗の建国よりも約400年後の事と推定されています。)

続く・・・


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コメント

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人類の軌跡その242:半島の歴史①!

素晴らしい記事・内容を掲載しておられます。コメントがたくさん有ると思っていましたが誰もだしてないのですね。今後小生がコメントを掲載しますので宜しくお願いします。

Re: 人類の軌跡その242:半島の歴史①!

コメントありがとうございます。
励みに成ります。
私のブロクは、可也固い内容なのか、コメント等を頂戴する機会が、殆ど在りません。
此れからも宜しくお願い致します。