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2011/11/16

人類の軌跡その243:半島の歴史②

<百済その②>

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五胡十六国の時代の百済:年代を追って①

 346年、近肖古王の即位、近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。
 367年、百済と新羅が共に初めて日本に朝貢。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)
 371年、高句麗の平壌城を攻略し占拠した。此の時、高句麗の古国原王は流れ矢に当たり戦死。
 (高句麗が百済を攻略、これを撃破したとする文献もある。)

 372年、東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。
 同372年、日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈る。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)
 同372年、慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmの位置)へ遷都。
 377年、北朝の前秦へも朝貢。
 384年、西域の僧侶摩羅難陁(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。
 387年、東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。
 391年、倭が海を渡り百済を撃破し臣下とする。(広開土王碑の碑文)
 396年、高句麗の広開土王が、平壌城を奪回。
 397年、倭と結んで高句麗と戦う為、百済の太子腆支を倭国へ送る。
 402年、百済から倭国へ使者を送る。
 403年、倭国から百済へ使者を送る。
 404年、倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出。(広開土王碑の碑文から)

 405年、百済の阿莘王が死去に伴い、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注の報告では、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の碟礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽率に入国しないで欲しい。」と言う。
そこで、太子は倭人と共に島に立て篭もり、その間に貴族達が碟礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。

 416年、東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。
 420年、宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
「宋書」東夷百済国伝に、高句麗が遼東郡を支配し、百済が遼西郡を支配した、との記述がある。
一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかと考えられる。

 475年、高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲攻撃。
 百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出に失敗し捕虜となる。攻められる前に子の文周らを南に逃し、文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を定める。

 478年、大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。
 479年、解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取る。
 次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を拡大。
 501年、東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺害され、武寧王が立ってこれを討った。

続く・・・

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