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2011/11/17

人類の軌跡その244:半島の歴史③

<百済その③>

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◎五胡十六国の時代の百済:年代を追って②


512年、百済が日本へ使節を派遣、任那4県の割譲を要請し、認められる。
(「日本書紀」の継体天皇6年の条)

513年、百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己汶(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。
判跛国も珍宝を日本に献じて、己汶の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己汶と帯汶(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)

514年、判跛国は帯汶と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地に狼煙台を作って日本に備えた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)

515年、百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯汶江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)

516年、百済は物部連らを己汶で迎え入れ、多くの労い物を与え、帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。
別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ入朝。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)

538年、百済から日本へ仏教が伝えられた。

538年、都を熊津から泗沘(しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷都、錦江に沿って25km下り、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移る。

551年、百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を奪回。

552年、新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪取、百済と加羅(大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼。

554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立、これを救う為、父の聖王が函山城を攻めたが、聖王は死亡。

562年、加羅諸国が新羅に占領。

続く・・・


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