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2011/11/18

人類の軌跡その245:半島の歴史④

<百済その④>

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◎隋・唐時代の百済

581年に隋が成立すると、高句麗と百済は直ちに 朝貢した。
百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。

597年、百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)
隋は高句麗に対する3度の遠征に失敗し4度目の出兵を計画するものの、国内に内乱が起こって自滅。

618年、唐が成立する。

624年、百済、高句麗、新羅が相次いで唐に朝貢した。

636年、漢江流域の孤立を画策して、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。

645年、唐が高句麗に出兵、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略。

642年、百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を併合、更に新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗と共に攻略、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を攻略し、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺害。

655年、高句麗と百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請。
唐は遼東郡に出兵するも、大きな効果無し。

658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵。
これが失敗に終わると、唐は新羅と結んで先に百済を滅亡させる作戦を展開。

660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で挙兵。
新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗沘城(しひじょう・錦江の下流域)を攻略。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)に逃れたものの、皇太子らと共に降伏し、百済は滅亡。

百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道琛(どうちん)・日本へ送られていた王子豊璋が、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦う。
日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗。
古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。
尚この時、多くの百済人が日本へ亡命した。

続く・・・

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