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2011/11/21

人類の軌跡その246:半島の歴史⑤

<百済その⑤>

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◎日本書紀の記述

 日本書紀には、百済に関して次の様な記述が存在しています。

斉明天皇6年(660年)

 百済の滅亡後、鬼室福信と余自進が其々に、離散した百済兵を集めて城を守る。
鬼室福信は、唐人の捕虜百余人を日本へ送り、日本の援軍を乞うと共に、日本へ送られていた王子の余豊璋の国王即位を伝える。

斉明天皇7年(661年)

 斉明天皇は、百済へ援軍を派遣する為、筑紫(現在の福岡県)に移られたものの、ここで崩御。
後の天智天皇が後を継ぎ、正式な即位の無いまま、筑紫で政務を司り、百済への援軍と武器・食料を送らせ、その後、百済の王子豊璋に冠を授け、妻を娶らせた上、5千人の兵を添えて百済へ派遣。
百済では、鬼室福信が迎えて、豊璋に政務を任せる。

天智元年(662年)

 高句麗は、唐と新羅の連合軍に攻められ、日本に援軍を求める。
日本は兵を送り疏留城(そるさし・都々岐留山(つつきるのむれ))に構え、唐は南進を諦め、新羅は西進を阻む。
日本が勅して豊璋を百済国王とし、又福信の労を労い、百済を救う為武器を整え、船を準備し、兵糧を蓄える。

天智2年(663年)

 日本から2万7千人を派兵し、百済王豊璋は、福信に謀反の心が在る事を疑い、福信を殺害、良将で在った福信が斬られた事を知った新羅は、百済王の居る州柔(つぬ)攻略を計画し、この計画を知った百済王は、自分は日本の援軍を白村江(錦江の河口付近)で迎えると諸将に告げて上洛。

 その後に、新羅が城を囲み、唐の軍船170余艘が白村江に陣を敷き、日本の先着した水軍は是に敗北、翌日、日本軍と百済王は、隊伍の乱れた中、軍を率いて先陣を争い、唐軍に左右から船を挟んで攻撃され大敗。
百済王は数人の従者を従え船に乗り、高句麗へ逃れその後州柔城も降伏。
日本軍と余自進を含めた多くの百済人が日本へ逃れ、この年 、対馬・壱岐・筑紫国等に防人(さきもり)と烽(すすみ・狼煙台)を置き、筑紫に大堤を築いて水を貯る。

百済の項終了・・・



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