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2011/11/22

人類の軌跡その247:半島の歴史⑥

<高句麗の建国その①>

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 漢の武帝が設置した朝鮮の4郡のうち「玄菟(げんと)郡」は、高句麗の封じ込めの意味を持って設置されたものと考えられていますが、この玄菟郡がBC75年に遼東郡に吸収され玄菟城(現在の中国遼寧省方面)に名目を残すだけと成りますが、逆に之は在地勢力の拡大を暗示しています。

 現存最古の朝鮮の歴史書「三国史記」では、高句麗の建国をBC37年と定めており、高句麗は、本来、扶余種族に属する一小部族で在ると考えられ、強力な中央集権体制を取り入れ軍事力により、近隣の諸部族を征服して拡大し、朝鮮半島の北側大陸部を中心に成長していきました。
(扶余・高句麗ともに、ツングース系の民族と推定され、東部シベリア・満州北部に分布する民族で、モンゴロイド・アルタイ語族。粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨・女慎・満州族と呼ばれた民族が、ツングース系に属し、扶余は、高句麗の北側、現在の中国黒龍江省付近が本拠地と考えられています。)


◎高句麗の建国伝説

 東扶余(ひがしふよ)の金蛙王(きんあおう)が、太白山(たいはくざん・現在の白頭山)の南の河岸で女に逢いました。
名を柳花といい、河伯の娘だと名乗り、王がその女を東扶余へ連れて帰ると、間もなく大きな卵を生みました。
王は不審に思い、卵を割ろうとしましたが割る事が出来ず、野原に棄てると鳥達が代わる代わるに温めました。
不思議に思い、改めて住まいに入れ母親に返すと、やがて一人の男の子が生まれ、弓の名人となり、朱蒙(しゅもう)と名乗りました。
他の王子達が妬んで殺そうとしたので、気配を知った母は朱蒙を逃がします。

 朱蒙は3人の従者を連れて逃れ、鴨緑江を渡って更に3人が伴に加わりました。
卒本川(そつほんせん)の地に辿り着き、この地を都と定め、国名を高句麗として王位に就くと、家来を集め、周囲の小国を討従えて領土を広げて行きました。

続く・・・

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