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2011/11/25

人類の軌跡その248:半島の歴史⑦

<高句麗の建国その②>

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◎新の時代の高句麗

 「漢書」王莽伝では、AD8年、王莽が新国を建て四方に使節を派遣した時、高句麗は扶余と共に外臣の印綬を与えられ、その独立が承認さました。
AD12年、王莽は匈奴を攻撃するため高句麗に出兵を要求しましたが、高句麗王騶(すう)はこれを拒否、王莽は高句麗を討ち騶を打ちます。

◎後漢の時代の高句麗

 後漢時代になると、在地勢力を認めて懐柔政策が用いられ、郡県支配の中心は遼東郡に移ったものと考えられます。
遼東太守の祭彤は、鮮卑族を招いて財宝を与え、朝貢するよう説得し、これに応じて朝貢すると朝貢品を上回る賜物を与え、これを伝え聞いた高句麗は、敵対行為を止めて朝貢したと云います。

 高句麗・扶余を中心に、遼東郡との対立が再び起こり、激しい攻防の時と成ります。
 AD105年に高句麗は遼東郡の6県を一時奪うも撃退され、AD111年には扶余が楽浪郡を攻め、更にAD118年には高句麗が玄菟郡・楽浪郡を攻め、AD121~122年には高句麗が馬韓・濊貊諸種族と共に遼東郡の玄菟城を攻撃していますが、この時扶余は遼東郡について戦いました。

 AD132年には高句麗が、遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡へ移動していたと考えられます。
AD167年に扶余は2万の大軍で玄菟郡を襲うも失敗、翌AD168年に鮮卑族・濊貊族が幽州・并州(現在の中国河北・山西両省北部・内蒙古南部)に侵入するも、翌年には後漢軍が中心勢力であった高句麗を撃破、高句麗は再び遼東郡に従属します。
しかし、高句麗は3年後に独立し、これを攻撃した遼東郡の軍隊は大敗しました。

 後漢がAD184年の黄布の乱で危機に瀕すると、玄菟郡の太守であった公孫氏は事実上独立し、遼東郡をも支配すると、高句麗や烏丸(うがん)を撃って勢力を拡大しました。
AD197年、高句麗の王位継承問題で、発岐と延優が兄弟で争い、兄の発岐は遼東郡に援助を求め一応王位につきますが、弟の延優は都を現在の通溝から輯安(鴨緑江中流)に移して新しく国を建て高句麗を名乗りました。

 公孫氏は、AD204年(注:AD205年としている文献も存在)には楽浪郡を分割して帯方郡を設け、郡県制を復興して、東方や南方の民族への影響力を強めたのです。

続く・・・

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