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2011/11/26

人類の軌跡その249:半島の歴史⑧

<高句麗の建国その③>

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◎魏の時代の高句麗

 公孫氏や高句麗が中国の呉と連合すると、AD238年に中国の魏は司馬宣王を派遣して公孫氏を滅ぼし、この時、高句麗は魏に援軍を送っています。
楽浪郡と帯方郡は、魏に受け継がれ、魏がこの2郡の政治的経済的運営を開始し、朝鮮半島南部の韓族や日本の邪馬台国からの使節が朝貢を開始します。

 魏は、AD244年に、鮮卑族や烏丸族を討って勇名を馳せた幽州刺史(長官)毋丘倹(かんきゅうけん)を派遣し、高句麗の王都の丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)を占領、翌年、毋丘倹は再び高句麗を攻め、沃沮(よくそ)から更に粛慎(しゅくしん・現在のロシア沿海州)の南部に至りました。
高句麗王の東川王は殆ど単身で南沃沮(現在の朝鮮咸鏡南道)まで逃れたと伝えられています。

◎晋の時代の高句麗

 AD265年に魏に代わって晋が建国。
 AD274年に晋が幽州の5郡を分割して平州の5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を置くと、馬韓・辰韓地方の諸国が晋に朝貢しました。

 AD285年、遼西迄進出した鮮卑族が、扶余国を攻めて占領し、王を自刃させ、1万余人を捕虜にして遼西へ引き上げますが、扶余国は東夷校尉らの援助を得て再建する事が出来ました。

 鮮卑族が遼東郡に勢力を伸ばし、一方高句麗は行く度か遼東郡に出兵し、AD311年に西安平県(現在の遼寧省丹東市付近・鴨緑江河口付近)を陥れると遼東郡と楽浪郡・帯方郡が分断されました。
しかし、この時の晋は、匈奴に攻められ、都の洛陽が陥落し遼東郡への支援をできる状況ではなく、遼東郡を実質的に支配しているのは鮮卑族でした。
高句麗は、更に、AD313年に楽浪郡を侵略し、翌AD314年に帯方郡をも占領するに至りました。
之により、BC108年から続いた、中国による朝鮮半島の直接支配には終止符が打たれ、この後朝鮮半島では、半島南部の馬韓・弁韓・辰韓は新羅と百済に統合され、高句麗・新羅・百済の三国時代へ向います。

続く・・・


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コメント

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No title

足あとからです。
はじめまして。拙ブログへご訪問ありがとうございました。
高句麗のことが書かれていたので、思わず訪問させていただきました。

拙ブログでは韓ドラを書いていることもあり、高句麗の歴史ドラマをいろいろ見てきました。
今は高句麗の初代王チュモンの役を演じたソン・イルグクさんのファンで
す。
この時代は、日本の戦国時代のように歴史的に一番興味惹かれるかもしれませんね。

お初の応援ポチしていきます(*^^)v