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2011/11/28

人類の軌跡その250:半島の歴史⑨

<高句麗の建国その④>

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◎五胡十六国時代の高句麗

 中国が混乱期を迎え、高句麗は亡命者を迎え入れて、国政を整え、軍備を拡張しました。
遼西郡に基盤を置いた鮮卑族は、AD337年に自立して燕国を建て、AD339年には高句麗に侵入、高句麗は講和を申し入れ、燕に朝貢する事に成るも、対立は数度繰り返され、AD342年、燕の侵略を受けて王母・王后・先王の屍迄虜と成りました。
高句麗は、度重なる謝罪を行いAD350年に許され、又、燕から征東大将軍営州刺史楽浪公に冊封され、朝鮮の諸王国が中国王朝から冊封を受ける初めての例でした。

 AD369年、高句麗は国力をつけた百済の雉壌(ちじょう)に侵入するも、百済に撃退され、AD371年に、高句麗は再び百済に派兵するも、百済の伏兵に敗れ、勢いに乗った百済軍は逆に高句麗の平壌城を攻めて、高句麗王を戦死させ大勝しました。
次世の高句麗王は、国力の充実に努め、AD372年、秦から、はじめて仏教が公伝。
同年、大学を建て初めて儒教の教育も行い、翌AD373年には、律令を頒布しています。
この間に、百済(AD346年建国)と新羅(AD356年建国)も国力を拡大して行きました。

◎391年 高句麗の広開土王(好太王)即位

 現存最古の朝鮮の歴史書「三国史記」でBC37年の建国と伝えられる高句麗は、中国の設置した遼東郡や周辺諸民族と激しい攻防を続けました。
広開土王(在位391~412・日本では好太王とも呼ぶ)の代になると、再び領土拡大を謀り、高句麗の最盛期を迎えます。
広開土王の事跡等を記した碑が現在迄残り、この碑文には記載されていませんが、中国の遼東郡での攻防があり、それをも勝利したと推定されています。

続く・・・


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