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2011/11/29

人類の軌跡その251:半島の歴史⑩

<高句麗の建国その⑤>

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◎広開土王碑

 広開土王碑は、現在の中国吉林省通化専区揖安県に在り、近くには将軍塚と大王陵(いずれも広開土王陵と比定)が現存しています。
高さ6.3メートル、幅1.4~1.9メートルの四角柱状の角礫凝灰石で、碑文は3段からなり、第1段は高句麗の開国伝承と建碑の由来、第2段は広開土王の事跡、第3段は守墓人烟戸に関するものです。

 1880年に、苔蔓に埋もれていた碑を、この地の農民が発見し、翌年に清国の役人の関月山がその一部を拓本に取りました。
1884年、日本陸軍の砲兵大尉酒勾景信が日清戦争への諜報活動中にこの拓本を得て、その解読を参謀本部で行い、倭・任那に関する碑文について改ざんを行なったのではないかという学説が存在します。

 第2段の「広開土王の事跡」の概要は以下。
 395年、王はみずから碑麗(ひれい・沃祖地方)を討伐し、翌396年、王は水軍を率いて百済国を討つ。
その理由は、百済と新羅はもとから高句麗に隷属し朝貢していたが、倭(注)が辛卯の年(391年)に海を渡り百済などを打ち破って臣下とした為である。
王は百済の多くの城を占領したにもかかわらずなお抵抗したので、漢江を渡り、王城を攻め、百済王は多くの貢物をだし、家臣になる事を誓い、王の弟等を人質として凱旋した。
 
 398年に息慎(そくしん・粛慎(しゅくしん))地方に出兵し、服属さ、翌年百済は先年の誓いを破り倭と和通した。
そこで王は百済を討つ為平譲に向かい、其の時新羅からの使が「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下とした。どうか高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。400年、5万の大軍を派遣して、新羅を救援し、新羅王都に至ると、王都内の倭軍が退却したので、これを追い任那・加羅に迫るも、安羅軍等が手薄に成った、新羅王都を占領した。

 404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入、これを討って大敗させた。
407年には5万の大軍を派遣し、現在の京畿道北部で兜と鎧一万余領の戦利品を得るほど大勝した。410年には東扶余を討ってこれを服属させた。

(注:「倭」については、時代にその対象が変化しています。内蒙古地方の倭、中国南方の倭、南朝鮮の倭等。ここでは、南朝鮮の倭で加羅諸国を指すとする説と、日本の大和朝廷を指すとする説が存在します。)

続く・・・


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