fc2ブログ
2011/12/01

人類の軌跡その253:半島の歴史⑫

<高句麗の建国その⑦>

img_324751_3155121_1_convert_20111201211834.jpg

◎唐の時代の高句麗と滅亡

 624年、百済、高句麗、新羅が唐に朝貢。
 641年、新羅の七重城(しちじゅうじょう・現在の京畿道坡州郡)を攻略。
 642年、新羅から唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗と百済が攻撃。
 百済に攻められた新羅は、金春秋(のちの太宗武烈王)自ら高句麗を訪ねて救援を求めたが、高句麗は百済と伴に新羅領土の侵略を画策しており、彼を捕らえるものの、同情する高句麗の家臣に助けられて脱出。

 642年、泉蓋蘇文(せんがいそぶん)のクーデターが勃発。
泉蓋蘇文の父が逝去の時、当然、彼が後を継ぐ予定であったが、彼の残忍で横暴な性格の為、貴族達はその職に就く事を拒んだ。
彼は貴族達に哀訴して父の地位を得たが、その凶暴さを発揮すると王は彼を左遷。
彼を庇う王の弟が逝去すると、彼を誅殺する密議が行なわれ、この事実を伝え聞いた泉蓋蘇文は、そしらぬふりで大臣達を招集し、配下の兵を総動員して有力者百余名を殺害したうえ、王宮に乱入して王を殺し遺骸を切断して溝の中に捨てた。
王の子を即位させ、自分は莫離支(ばくりし)という官職に就いて後見人として全権を掌握。

 645年、唐と新羅が高句麗に出兵したが、失敗、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略。
 655年、高句麗と百済の連合軍が新羅北部の33城を奪うと、新羅は唐に救援軍を要請。
唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果は無し。
 658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃する。
 660年、唐は水陸13万人、新羅軍5万人の大軍を動員して百済を攻略。
百済王は一旦王都の泗沘城(しひじょう)から旧都の熊津城に逃れ、降伏して百済は滅亡。
百済の滅亡後も、664年迄、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けた勢力が執拗に唐・新羅連合軍と戦う。

 661年、百済を滅ぼした唐・新羅連合軍は、一時、高句麗の王都の平壌城を包囲。
高句麗軍の善戦に阻まれ、新羅の大宗が崩御し、百済の復興軍が勢力を増し、唐の国内でも毎年の出兵で人心が動揺しはじめ撤兵。
唐・新羅連合軍は、百済の復興軍との戦いに専念。
 666年、高句麗の泉蓋蘇文が死去すると、唐・新羅連合軍は、再び高句麗を攻撃し、高句麗も善戦したが、668年に降伏して高句麗は滅亡。

半島の歴史終了・・・


スポンサーサイト



コメント

非公開コメント