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2011/12/03

人類の軌跡その255:アレクサンドロス大王②

<アレクサンドロス大王の遠征その②>

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◎紀元前331年、ティグリス河上流ガウガメラの戦い(アルベラの戦い)

 フェニキアの沿岸地方とエジプトを平定し、背後の安全を確保したアレクサンドロスは、ペルシアの本拠地へ向かって進軍を開始しました。
ペルシア軍は、戦車の活動しやすい平坦な地を選び、アッシリアの山地と平野の接点に位置する、ガウガメラで防備を固めました。

 しかし、アレクサンドロスはペルシア王の本陣を突き、ペルシア軍の戦線は大混乱に陥って大敗し、メディアの山地方向へ敗走し、翌日、アレクサンドロスは敵をアルベラに追撃し、多数の捕虜と戦利品を獲得します。

◎紀元前331年、バビロン入城

同年、神殿の再建とサトラプにはペルシア人を任命。
同年、スーサ市に入城、ペルシアの莫大な財宝を獲得。
同年、ザクロス山脈を越え、ペルシアの首都ペルセポリスを占拠。
紀元前330年、ペルセポリスの王宮を焼却処分。

 ペルシア帝国が滅亡した後、ギリシア・マケドニアの連合軍は解散し将兵には応分の手当が与えられて故国のギリシアへ戻ります。
アレクサンドロスは、新しい傭兵とマケドニア将兵からなる新部隊を編成し、ダレイオス3世を追撃しつつ、辺境の地域を平定する為遠征を継続しました。
紀元前329年、中央アジアのパルティアを通り、バクトリアへ、そしてソグディアナへ兵を進めます。

 ダレイオス3世は、バクトリアのサトラプに拉致され、アレクサンドロスの先遣隊が急追した時には、重傷のダレイオス3世が置き去りにされていました。
水を与えると、アレクサンドロスが、彼の家族を丁重に扱った事に対する、感謝の言葉を口にしながら息絶えたと云います。
ソグディアナにはアレクサンドリア・エスカテの町が建設されましたが、この名は最も遠方にあるアレキサンドリアと云う意味です。

 バクトリア地方で傭兵を補充したアレクサンドロスは、紀元前327年にヒンズークシ山脈を越え、紀元前326年には、インダス河の上流を渡ってインドのパンジャブ地方(現在パキスタンに属する)へ入りました。
パンジャブ地方の王ポロスをヒュダスペス河畔の戦いで降伏させ、更に東ヒュパシス川へ進出します。
アレクサンドロスは、更に進軍の継続を考えますが、兵士達はそれ以上の進軍を拒否した為、この地域が遠征の際東端と成りました。

 ヒュダスペス川を下り、途中でクラテロスの率いる西進隊と別れ、更にインダス河口付近でネアルコスの率いる船隊と別れ、異なる経路で帰路を辿り、3つの隊は再会し、紀元前324年の春にスーサに入城しました。
同年夏にメソポタミアのオポスに達し、紀元前323年の初頭にバビロンへ到着。

 アレクサンドロスは、アラビアへの遠征計画を計画していましたが、同年(紀元前323年)5月末に熱病にかかり6月10日に、32才で急死しました。

 その後、大帝国は分裂の道を辿ります。

続く・・・


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