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2011/12/12

人類の軌跡その260:地中海の覇権②

<ポエニ戦争その②>

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◎BC218年 第2次ポエニ戦争(~BC201年)

 第1次ポエニ戦争でシチリア島を失ったカルタゴは、イベリア半島への進出に傾倒し、ハミルカム・バルカスはイベリア半島に渡り、原住民を征服、銀山の開発等を行って富を蓄えました。
彼の子が、有名なハンニバルです。

 ハンニバルは、陣営に生まれ、戦陣のなかで育ち、幼い頃から、ローマに対する復讐心を燃やしていたと伝えられています。
BC221年に25歳で将軍に選ばれた彼は、多数の原住民からなる傭兵部隊を見事に訓練しましたが、この部隊には、後に有名となる象部隊も編成されていました。

 BC218年、イベリア半島の東海岸に在った、ローマの同盟市サグントゥムが内紛に陥ると、ハンニバルはこれを攻め、8か月の攻囲の末に陥落させます。
第2次ポエニ戦争のはじまりでした。

 ハンニバルはイベリア半島から、ローマに向かって進軍を開始、ピレネー山脈を越え、雪のアルプス山脈を越え、ポー川の戦い・トラシメヌス湖畔の戦いでローマ軍を撃破し、イタリア半島を南下、ローマ市よりも南側に回り込み、BC216年にはアドリア海側のカンネーの決戦で、ローマ軍を破り、BC211年にはローマ市に迫りますが、そこで戦線は膠着しました。

 ハンニバルは、イタリア内部にあるローマの同盟市が、ローマから離反すると、目論んでいましたが、これは期待はずれに終わり、BC207年、ハンニバルの弟ハスドルバルが、大軍を率いて援護に向う途中、密書がローマ軍に漏れ、メタウルス川の戦いで殲滅します。
ハンニバルは次第にイタリア半島南部へ追い込まれて行きます。

 一方、ローマ軍は開戦当初からイベリア半島を攻略しますが、BC206年、将軍プブリウス・スキピオ(大スキピオ)が終に半島を制圧。
ローマに凱旋したスキピオは、一気にカルタゴ本国を攻め、BC204年に北アフリカへ上陸、BC203年に北アフリカのヌミディア王国と連合してカルタゴ軍を撃破しました。
BC203年、カルタゴ本国政府は急遽ハンニバルの軍隊をイタリアからカルタゴ本国へ呼び戻し、再度ローマとの決戦を挑みますがBC202年にザマの戦いで決定的な敗戦を迎えます。

 BC201年にカルタゴは、ローマの提示した厳しい講和条件を受諾しました。
その内容は、カルタゴは20隻以外の全ての船をローマに引き渡し、50年間に渡って毎年200タラントの賠償金を課すもので、又、ローマの了解無くアフリカ内の近隣国と開戦することも禁じられました。

 ハンニバルは将軍職を辞した後、BC196年に最高行政官である、スーフに選ばれて国制の改革を断行しますが、一部貴族の猛反発とローマの介入にあって翌年失脚、シリアへ亡命、そしてシリアがローマに破れると逃避行を続け、ローマへの反抗を続けますが、BC183年、小アジアのビテュニアに亡命していた時、ローマの身柄の引き渡しを求めに際して、毒を仰いで自ら命を絶つ事と成ります。

続く・・・


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