人類の軌跡その262:地中海の覇権番外編
<ルビコン川はどの川なのか>

歴史上の著名人は、数多く居ますが、ローマ時代のユリウス・カエサル程、色々な意味で引用される人物も少ないのではないでしょうか。
彼のカエサルと言う姓は、後年役職の名称となり、更には「皇帝」を意味する言葉になりました。
帝政ロシア時代、皇帝を意味する「ツァー」、ドイツ帝国時代の「カイゼル」供にカエサルのロシア語、ドイツ語読みであり、この様な事例は、殆んど無いと思われます。
嘗て「太閤」が豊臣秀吉を指す言葉になった例は、ありますが、ゲーテが素晴らしい詩人でも、他の詩人をゲーテと呼ぶ習慣はありません。
更に、その言葉が、格言化した事例もカエサルが、第一であろうと考えられます。
「さいは投げられた」「ルビコンを渡る」「着たり、見たり、勝ちたり」「ブルータスお前もか」等の諺は、全てカエサルから来ているのです。
尚、「カエサルの物はカエサルに」と云う聖書におけるキリストの言葉は、彼の事を指し示すのではなく、役職としての「カエサル」を示しているのです。
又、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の顔(歴史)は変わっていただろう」と云う有名な言葉は、フランスの哲学者パスカルの言葉で、「カエサル」は表面に出てきませんが、裏の意味として含まれています。
紀元前60年、カエサルは、ポンペイウス、クラッススと結んで「第一次三頭政治」を始め、元老院に対抗し、彼はガリア(イタリア北部から現在のフランスに至る、ケルト人の居住地域)を平定します。
カエサルの名声が、ガリアの地で高まるにつれ、ポンペイウスは彼から離反し、元老院と結託して、紀元前49年、
カエサルは、任地ガリアからローマへの帰還を命じられました。
ローマへの帰還は、軍隊の武装解除を意味しますが、カエサルは、ルビコン川の対岸で、しばし熟慮の後「さいは投げられた」と言い、軍隊の武装解除をせずに「ルビコンを渡り」ローマ帝国の国境を越えました。
この事から、思い切った冒険、判断をする時、「さいは投げられた」なる諺が生まれましたが、この言葉は、本来ギリシアの喜劇作家メナンドロスが、劇中に使用した台詞で、これをカエサルは使用したのでした。
さて、ここで「ルビコン川を渡る」と云う諺も出来ましたが、この時渡った「ルビコン川」は、ガリアとローマ帝国の国境に在る川で、ガリアは、アルプス山脈を挟んで両方に存在し、この場合のガリアを「ガリア・キス・アルピナ(アルプスの此方側にあるガリア)」と呼ばれている地域でした。
「ルビコン川」は、赤い川の意味で、歴史地図を見るとたいてい図示されていますが、実際は、アリミニウムの北に位置する川で、アドリア海に注ぐ川は、大変多く、ルビコン川がその多くの川の一つと云う事以外、実際のルビコン川が、今日のどの川に当たるのか、はっきりと解明されていません。
「ルビコン川」を「フィウミキノ川」「ウソ川」とする説も在りますが、何れにせよ、ガリアとローマ帝国の国境に位置した川で、カエサル由来の名高い川で在りながら、不思議な事に学会の意見は、定まっていません。
ルビコン川を渡った、カエサルは、ポンペイウス、元老院派と戦い、ポンペイウスは、ギリシアのファルサロスで、カエサル軍に撃破され、更にエジプト迄逃れたものの、紀元前84年この地で、果てました。
ポンペイウスを追ってエジプトに来た、カエサルは、時のクレオパトラを見初め、彼女を愛し、その頼みを受け入れて彼女を援助し、エジプトの女王としました。
先に記述した「クレオパトラの鼻・・・」の言葉は、この歴史的背景から出てきたものなのです。
その後もカエサルは、東方遠征を行い、ポントスを平定しましたが、この事を友人である。マティウスに知らせた時の彼の手紙が、「来たり、見たり、勝ちたり」でした。
軍人らしい簡潔な文書の上、韻を踏んだこの言葉は、大変有名になりました。
やがて、カエサルは、ローマに凱旋しますが、皇帝の地位への野心を疑われ、紀元前44年3月15日、元老院で暗殺者の刃に襲われます。
当初、カエサルは、痛手を受けたものの屈せず、勇敢に暗殺者と対峙しましが、その中に息子の様に目を掛けたブルータスが、加わっている事を知り、「ブルータスお前もか」と言って抵抗を止め、殺されたと云います。
彼が最後に息を引取ったのは、ポンペイウスの像の下であると伝えられています。
番外編終了・・・

歴史上の著名人は、数多く居ますが、ローマ時代のユリウス・カエサル程、色々な意味で引用される人物も少ないのではないでしょうか。
彼のカエサルと言う姓は、後年役職の名称となり、更には「皇帝」を意味する言葉になりました。
帝政ロシア時代、皇帝を意味する「ツァー」、ドイツ帝国時代の「カイゼル」供にカエサルのロシア語、ドイツ語読みであり、この様な事例は、殆んど無いと思われます。
嘗て「太閤」が豊臣秀吉を指す言葉になった例は、ありますが、ゲーテが素晴らしい詩人でも、他の詩人をゲーテと呼ぶ習慣はありません。
更に、その言葉が、格言化した事例もカエサルが、第一であろうと考えられます。
「さいは投げられた」「ルビコンを渡る」「着たり、見たり、勝ちたり」「ブルータスお前もか」等の諺は、全てカエサルから来ているのです。
尚、「カエサルの物はカエサルに」と云う聖書におけるキリストの言葉は、彼の事を指し示すのではなく、役職としての「カエサル」を示しているのです。
又、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の顔(歴史)は変わっていただろう」と云う有名な言葉は、フランスの哲学者パスカルの言葉で、「カエサル」は表面に出てきませんが、裏の意味として含まれています。
紀元前60年、カエサルは、ポンペイウス、クラッススと結んで「第一次三頭政治」を始め、元老院に対抗し、彼はガリア(イタリア北部から現在のフランスに至る、ケルト人の居住地域)を平定します。
カエサルの名声が、ガリアの地で高まるにつれ、ポンペイウスは彼から離反し、元老院と結託して、紀元前49年、
カエサルは、任地ガリアからローマへの帰還を命じられました。
ローマへの帰還は、軍隊の武装解除を意味しますが、カエサルは、ルビコン川の対岸で、しばし熟慮の後「さいは投げられた」と言い、軍隊の武装解除をせずに「ルビコンを渡り」ローマ帝国の国境を越えました。
この事から、思い切った冒険、判断をする時、「さいは投げられた」なる諺が生まれましたが、この言葉は、本来ギリシアの喜劇作家メナンドロスが、劇中に使用した台詞で、これをカエサルは使用したのでした。
さて、ここで「ルビコン川を渡る」と云う諺も出来ましたが、この時渡った「ルビコン川」は、ガリアとローマ帝国の国境に在る川で、ガリアは、アルプス山脈を挟んで両方に存在し、この場合のガリアを「ガリア・キス・アルピナ(アルプスの此方側にあるガリア)」と呼ばれている地域でした。
「ルビコン川」は、赤い川の意味で、歴史地図を見るとたいてい図示されていますが、実際は、アリミニウムの北に位置する川で、アドリア海に注ぐ川は、大変多く、ルビコン川がその多くの川の一つと云う事以外、実際のルビコン川が、今日のどの川に当たるのか、はっきりと解明されていません。
「ルビコン川」を「フィウミキノ川」「ウソ川」とする説も在りますが、何れにせよ、ガリアとローマ帝国の国境に位置した川で、カエサル由来の名高い川で在りながら、不思議な事に学会の意見は、定まっていません。
ルビコン川を渡った、カエサルは、ポンペイウス、元老院派と戦い、ポンペイウスは、ギリシアのファルサロスで、カエサル軍に撃破され、更にエジプト迄逃れたものの、紀元前84年この地で、果てました。
ポンペイウスを追ってエジプトに来た、カエサルは、時のクレオパトラを見初め、彼女を愛し、その頼みを受け入れて彼女を援助し、エジプトの女王としました。
先に記述した「クレオパトラの鼻・・・」の言葉は、この歴史的背景から出てきたものなのです。
その後もカエサルは、東方遠征を行い、ポントスを平定しましたが、この事を友人である。マティウスに知らせた時の彼の手紙が、「来たり、見たり、勝ちたり」でした。
軍人らしい簡潔な文書の上、韻を踏んだこの言葉は、大変有名になりました。
やがて、カエサルは、ローマに凱旋しますが、皇帝の地位への野心を疑われ、紀元前44年3月15日、元老院で暗殺者の刃に襲われます。
当初、カエサルは、痛手を受けたものの屈せず、勇敢に暗殺者と対峙しましが、その中に息子の様に目を掛けたブルータスが、加わっている事を知り、「ブルータスお前もか」と言って抵抗を止め、殺されたと云います。
彼が最後に息を引取ったのは、ポンペイウスの像の下であると伝えられています。
番外編終了・・・
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