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2011/12/21

人類の軌跡その268:伝記の陰の真実その⑥

<ローマ市建設の伝説>

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 ローマに伝わる伝説によると、ローマの建国者はロムルスで、それはBC753年で在ったと伝えられています。

 有名なトロヤ戦争でトロヤが陥落した時、トロヤの英雄アエネアスは父と子を伴って脱出し、ギリシャ各地やカルタゴを通り、イタリア中部のラティウム地方(イタリア中部西海岸にある今日のラッティオの南半分)に辿り着きました。

 アエネアスから16代目の王ヌミトルは、弟のマムリウスに王位を簒奪され、ヌミトルの娘は巫女にされてしまいます。
巫女は終生処女で有る事が定めですが、彼女が水くみに森に出た時、軍神マルスに犯され、ロムルスとレムスの双子の男子を産みました。
双子は籠に入れてティベル川(ローマを流れる川)に流されますが、岸に着いた双子の赤子は、1匹のオオカミに助けられ、その乳を飲んでいる処を、羊飼いに発見されて育てられました。
やがて自分の出自を知った二人は、王位を奪ったマムリウスを殺し、祖父に当たるヌミトルを復位させます。

 その後、ロムルスとレムスは新しい都市(ローマ)の建設に取りかかります。
伝説では、ローマには7つの丘が存在したとされ、ロムルスはパラティヌス丘に都市を建設する事を主張しましたが、レムスはアウェンティヌス丘に建設する事を主張し、之が争いと成りレムスは殺されてしまいます。

 ロムルスは、パラティヌス丘に都市の建設を始め、又カピトリヌス丘を避難所と定めて各地からの逃亡者を受け入れた事から、人口がしだいに増加しました。
しかし、女が居ない事から、北隣に住むサビニ人を祭礼に招き、見物中の娘達を計画的に拉致した事から争いと、成るものの、さらわれた娘達が仲裁に入り、以後サビニ人のタティウスとロムルスがローマを共治する事に成ります。
後にタティウスが死亡すると、ロムルスが一人でローマ市を統治したのでした。

 ロムルスの後に6代の王が続きますが、第5代と第7代の王はエトルリア人の名前でした。
(注:エトルリア人は、イタリア半島の北部、今日のラッティオの北部・ウンブリア・トスカナ地方に住んでいた。ヘロドトスは、エトルリア人は小アジアから移住したという伝説を伝えており、タルクィニアという町で発掘されたエトルリア人の地下墳墓から、ギリシャ文字を使って書かれた文字が発見されたものの、何語であるか解読されておらず、インド・ヨーロッパ語系では無いと推定されている。)

◎考古学

 パラティヌス丘とフォールム(公共広場)及び、その周辺の発掘調査が行われており、調査結果によれば、パラティヌス丘の最古の住居跡はBC750年頃以降のものと推定され、伝説の時期と一致しますが、その住居跡は簡易建築の小屋を集めた村落状の集団で、都市とは規模も、構成も異なると考えられています。

◎ローマのその後

伝説の様なローマ人とサビニ人の両部族が融合した後、北方のエトルリア人が勢力を増して一時期ローマをも支配下に置きました。
 この間に、城壁が巡らされ、石造りの家が茅葺の木造小屋に代わり、沼沢地が大下水渠によって排水されて、其処にフォールム(公共広場)が建設されました。
又、ローマ人の宗教はエトルリア人から多くの影響を受けており、ラテン・アルファベットはエトルリアの文字に由来しています。

 その後、エトルリアが北方のケルト人や南方(イタリア半島南部)のギリシャ人に押されて衰退すると、ローマの貴族の反抗によってエトルリア人の王が追放され、王の代わりに貴族の中から執政官(コンスル。定員2人、任期1年。)を設置する共和制が始まりました(BC509年)。
貴族によって構成される元老院と、市民全体で構成される民会が存在し、元老院が大きな力を行使していきます。

続く・・・

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