2012/01/14

人類の軌跡その282:過去の記事から⑩

<サラエヴォの悲劇>

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第一次世界大戦のj発端と成ったサラエボ事件が発生したプリンツィップ橋

 第一次世界大戦は、「サラエヴォの悲劇」から始まりました。
この事件は、時のオーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻暗殺であり、皇太子フランツ・フェルディナンドと大公妃ゾフィアは、ボスニアで行われた陸軍大演習を視察した後、サレエヴォ市の歓迎行事に出席しました。
1914年6月28日、この日は偶然にも夫妻の結婚記念日でもありました。

 良く晴れた日曜日、夫妻は市役所に向かって川沿いのアッペル・ケイ通りを自動車で通過していた時、暗殺団の一人、チャプリノヴィッチが小型の手投げ弾を皇太子の自動車に向かって投げました。
手投げ弾は、皇太子の乗った自動車の幌の部分に当り、道路に落ちそこで爆発し、皇太子は何事もなく、大公妃は少々の掠り傷を負ったものの大事には至りませんでした。
しかし、隊列後部の自動車に乗っていた女官や、沿道に居合わせた市民の中には、重症者も出て辺りは騒然と成りましたが、皇太子は落ち着いて「狂人のやった事だ、さあ行け」と運転手に命じたと伝えられています。

 犯人のチャプリノヴィッチは用意していた毒薬を飲むと川に飛び込みましたが、毒薬は古くて薬効が無く、川には生憎水が少なく、泥の中でもがいている内に警官に取り押さえられます。

 市役所での歓迎行事が終わった後、随員は、今後一切の予定を取り止め、宿舎のイリッジェ城に帰る事を進言しましたが、ボスニア知事は「同じ日に暗殺を企てる者があるはずは無い」と言い張ります。
皇太子は予定の民族博物館行きを中止し、先の爆弾事故で負傷した人々を病院に見舞おうと申し出ます。
その為、予定のフランツ・ヨーゼフ通りを通過せず、もう一度アッペル・ケイ通りを通る事に成りましたが、何故か皇太子乗車の運転手には、行き先の変更が伝わっていませんでした。

 経路の変更を知らされていない運転手は、当初の予定通りアッペル・ケイ通りからフランツ・ヨーゼフ通りに曲がろうとした時、ボスニア知事が「違うぞ!止まれ!」と叫び自動車は速度を緩めました。
当にその時、二発の銃声がおこり、皇太子の首と大公妃の腹部に弾が命中しました。
病院に着くと間もなく、大公妃が死亡し、暫くの時間を空けて、皇太子が死亡しました。

この時の犯人プリンチップもその場で、取り押さえられ、先の犯人チャプリノヴィッチ共々、警察で厳重に調べられた結果、彼らはセルビアの暗殺団員で在る事が判明し、25人もの関係者が逮捕されます。

さて、この事件の発生から終結迄、不可解な事例が多い事に気づきます。

1、暗殺未遂事件が発生したにも関わらず、何故か、それ以降の行事を中止しなかった事。
2、暗殺未遂事件発生以後も、何故か、拳銃を持ったプリンチップが逃げずにその現場近くに居た事。
3、プリンチップは、皇太子の行事予定変更を知らなかった筈なのに、都合の良い場所で狙撃できた事。
4、暗殺未遂事件が発生したにも関わらず、警察は警備をより厳重にしなかった事。
5、皇太子の運転手は、何故か、行き先変更を知らされていない事。
6、最後に、この暗殺を計画した「蜂・ピアス」と呼ばれたデミトリエヴィッチ大佐は、計画中止を決定していたにも関わらず、何故実行されてしまったのか?
単に偶然では済まされない、何かが有るような状況と思います。

 しかし、戦争は“偶然”が重なって勃発する事が良く有るようです。
第一次世界大戦も、第二次世界大戦もその様な傾向を予見させます。

 この事件で、オーストリア政府がセルビアに突きつけた最後通告を、セルビア政府は相当に無理な条項が存在しても、受け入れる事としていました。
しかし、10ヶ条の要求に内、第6条に「暗殺犯人とその一味の裁判の為、調査にオーストリアも協力させよ」という条項が在り、セルビアはこれを「裁判に協力させよ」という意味に解釈し、それは憲法違反になり、受け入れられないと拒絶します。
処が、それは通告文書がフランス語で書かれていた為の解釈間違いで、「裁判の為の調査にセルビアも協力する事」をオーストリア政府が要求したものであって、裁判そのものに干渉する意思は有りませんでした。

続く・・・
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