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2012/01/16

人類の軌跡その283:シベリア出兵その①

<シベリア出兵その①>

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 1918年8月、日本はシベリアに出兵しました。
直接の目的はチェコ軍の救出でしたが、実際はザバイカル州以東に白色傀儡政権を樹立する事でした。
後に1922年10月、4600人の戦病死者を出し撤兵、・・・最盛時3個師団(7万人)で4年3ヶ月、実戦としては軽微な損害でした。
この4年3ヶ月は第1次大戦と同じ長さに成ります。

◎出兵への評価

 当時の日本の世論も出兵を支持せず、そして現在でも何の益もない出兵であったと評価されています。
しかし出兵に益が伴われなければ成らないか否か、益とは不動産や資金を意味するのか?日本が出兵する時は領土、賠償金、駐兵権が必要なのか?そして同盟に加わるとは何か?昭和陸軍はシベリア出兵を政略出兵が故に失敗したと結論付けています。
政略出兵とは政治上の要請で、日本の防衛範囲(生命線と定義)以外に出兵する事を意味します。
逆は軍略(戦略)出兵で、優れた作戦計画に基づき攻勢に出る事を指します。

 陸軍は、この頃から出兵は、通常文民政府の要請に従って行われるという認識が欠如していました。
それを隠蔽する言葉が無益、政略という言葉なのです。
もちろん文民政府は出兵が可能か否か、軍部のアドバイスを求めるべきですが、最終的な決定と責任は文民政府に存在します。
当時、権力の分散が顕著と成り統制が取れず、第1次大戦の参戦は外相の加藤高明が決定し、シベリア出兵は参謀本部次長の田中義一が決定したものです。
更に、政党政治家にも問題が種々存在し、まず語学で見劣りし、漢文は理解可能でも当面の相手国、英米独露とコミュニケーションが不可能に近いものでした。
従って欧米コンプレックスの為か、大アジア主義者が多く、当時この種類のコンプレックスを持たないのは、留学経験のある薩長藩閥出身者と外交官、エリート軍人だけでした。
相互に対立すると国としての政策が打ち出せず、日本の問題は独裁では無く、常に過度の権力分散で、これは現在でも変わっていません。

続く・・・


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