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2012/02/03

人類の軌跡その298:新大陸へ②

<大航海時代②>

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 ポルトガル、スペインが香辛料貿易を実行に移そうとしたその時期、地中海交易はイタリア商人に独占されており、別のルートでインドに直接到達する方法を模索する事に成ります。
この時期に羅針盤の改良が行われ、地球球体説も学説として登場し、遠洋航海への技術的な裏付けも整備されてきました。
マルコ=ポーロの「世界の記述(東方見聞録)」が発表され、アジアへの関心も高まり、コロンブスの読んだマルコ=ポーロの本が現存しています。
以上の様なアジアへの関心が高まり、インドとの直接貿易の欲望が台頭して大航海時代が訪れるのです。

◎インド航路

 大航海時代の先駆けと成った人物は、エンリケ航海王子(1394~1460)で、ポルトガル王子でした。
ヨーロッパ中から腕利きの船乗りを雇入れ、アフリカ沿岸の探検航海を指揮した人物でした。

 エンリケ航海王子の時代は、現実問題として船で直接インドに到達出来るとは考えられていませんでした。
なぜエンリケは、如何なる理由で探検航海を指揮したのでしょう?
まず、レコンキスタの延長で、アフリカに在るイスラム勢力拠点の攻略が最初の動機であり、更に、アフリカ西海岸の調査が在り、これが後のインド航路開拓への基礎に成ります。

 当時の航法は、近海航法で、常に陸地が見える場所を航海します。
大変合理的に思えるこの航海航法は、現実的には大変危険な航法で、陸地が見えるのは水深が浅く、沿岸には島も暗礁も多く存在し、座礁、沈没の可能性が極めて高いものでした。
後に、遠海航法が確立されて、船乗り達はコンパス等の計測儀を頼りに沖合を航海する様に成りました。

 エンリケ航海王子の死去の後もポルトガルは、アフリカ沿岸探検を継続します。
又、アラビア半島等陸上ルートの探索から、インド洋が閉じた海でなく、大西洋と繋がっている事が朧げながら判明し、インド航路の実現が現実視される様に成りました。

 1488年、バルトロメウ=ディアスが、アフリカ南端に最初に到達しました。
ポルトガルに帰還したディアスは、熱狂的な歓迎を受け、アフリカ南端を確認し、インドへの航路の存在を実証しました。
宮廷で航海の経過報告が行われ、その席には後にアメリカへ到達する事になる、コロンブスも出席していました。
「嵐の岬」は後にポルトガル王により「希望の岬」と改名され、喜望峰の名称が定着して行きます。

 ポルトガルが実際にインドに到達するのは、この10年後の1498年。
ヴァスコ=ダ=ガマが、インド航路を開拓し、西海岸の港町カリカットに到達しました。
この時、ガマは、喜望峰を回り、アフリカ東海岸の港に立ち寄りながらインドに向かいます。
アフリカ東海岸はインド洋を囲む商業圏の一部で在り、イスラム商人やインド商人が既に大規模な取引を展開していました。
彼は現地のイスラム商人をアフリカ東海岸で雇い入れ、水先案内人としてインドに向かったのでした。

 カリカットは、街に香辛料が溢れ、これを仕入れてヨーロッパに帰れば、巨万の富を得る事は間違い在りません。
ガマは早速、カリカットの太守に挨拶に向かいますが、その宮殿で故国ポルトガルとインドの圧倒的な富の差を実感する事と成りました。
貿易取引を太守に許されて、一行は、ポルトガルから運んできたヨーロッパの商品を売り、香辛料を買い付けましたが、ガマ達のヨーロッパ製商品は、インドでの値打ちは無いに等しく、散々に買い叩かれて僅かな香辛料しか買付け出来ませんでした。
取引終了後、ガマはカリカット太守の下に出向きますが、この時に商業税と港の使用料を請求されます。
ところが、彼らの資金は全部香辛料の買い付けに使われており、税金と使用料を払う余裕が無く、税金未納のままに出港を強行します。
ポルトガル国王の使節として、恥ずかしい行為でしたが、ポルトガルに帰国するとカリカットで仕入れた香辛料は、買い付けた60倍の値段で取引されました。
これ以後、ポルトガル政府は次々と貿易船をインドに送り、莫大な利益を得る事になります。

続く・・・

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