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2012/02/09

人類の軌跡その303:新大陸へ⑦

<大航海時代⑦>

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◎クリストバル=コロン以後その②

 マゼラン以前にも、アメリカ大陸を抜ける海峡を探検した船乗りは多く存在しますが、例えば、ラプラタ川の河口は、100km以上の距離が在り、川とは思わず大陸を抜ける海峡と信じて、何日も航海続け、試しに海の水を汲むと塩辛く無い事から、川だと解って引き返す程でした。

 更にマゼラン海峡は潮流が速く、風も強い海峡で、現在でも航路としてはあまり使われていません。
実際、マゼランの海峡通過以前に5隻の船団のうち1隻は難破、1隻は逃亡します。
マゼラン海峡を抜けて、アメリカ大陸の西側に出たマゼランは北上を開始します。
当時、太平洋に関する知識は皆無で、北に進めばインドに着くと思われましたが、何処迄も大海原が続き、進路を西に取ります。
西廻りインド航路開拓が目的ですが、当時未知の太平洋を横断する勇気には驚きます。

 マゼラン一行は太平洋進む事98日間、陸を全く見る事無く航海を続け、当然食糧は尽き、船の中のネズミやアブラムシを捕食し、其れをも食べ尽くすと、今度は船材のおがくず、革、帆等を口に入らざるを得ませんでした。
1521年3月、漸く辿り着いた陸地がグアム島で、偶然に任せて船を進め、良くぞグアム島の様な島に着いたと言わざるを得ません。
西への航海は続き、4月にはフィリピンに到達、マゼランはポルトガル時代にアジアに航海した経験が在る為、フィリピンの言葉を聞いてアジアに着いた事を確信します。
インドは近い!
マゼランは、この地の人々を征服してスペインの領土とする事を考え、セブ島やマクタン島で島民とトラブルを起こして戦闘に成り、マクタン島ではマゼラン自身が戦闘で命を落とします。
この戦闘の勝者は現地部族の指導者、ラプラプ王でした。
マゼランは非業の死と考えられますが、現地人達の立場では、征服者を撃退したラプラプ王は英雄なのです。

 戦闘で船員も更に減り、残された一行108人は2隻のうち1隻をこの地に遺棄して、更に西へ向かいます。
11月にモルッカ諸島に到達、別名香料諸島、香辛料の原産地で、一行は此の地で香料を初めて手に入れましたが、モルッカ諸島は、既にポルトガルの勢力圏で在り、若しポルトガル船に遭遇すれば、間違いなく攻撃を受け撃沈される運命でした。
船は既に戦闘行動は疎か、通常の航海も危険な状態に陥り、ポルトガル船に遭遇せずに無事故国スペインに辿り着く事は極めて困難と思われました。
この様な状況から、モルッカ諸島に残留希望者が多く、スペインに向けて出帆したのは僅か47名、指揮官はセバスティアン=デル=カーノ、指揮する船はヴィクトリア号、マゼラン艦隊最後の一隻でした。
ヴィクトリア号の航路を地図で確認すると、モルッカ諸島から南下、極端に南に進路を取りますが、この航跡はインドネシア、インド、アフリカの沿岸に近づいてポルトガル船に遭遇する事を極端に恐れた事が理解出来ます。

 ヴィクトリア号が香辛料を満載してスペインに漸く帰り着いたのは1522年9月、モルッカ諸島を出帆して更に10カ月後の事で、帰還者は18名に過ぎませんでした。
彼等は命を賭けて、地球が丸い事を実証しましたが、その名前は一般の教科書に記載されていません。
在るのは途中で死んだマゼランだけなのです。

 大航海時代の人物は、ポルトガルのエンリケ航海王子、バルトロメウ=ディアス、ヴァスコ=ダ=ガマ、カブラル、スペインではコロンブス、アメリゴ=ヴェスプッチ、バルボア、マゼラン。
大航海時代に冒険航海を行なった人物は多く、例えばイギリスやフランスは北東廻りでインドに到達可能か否か探索を行いました。
更に北アメリカ沿岸を探検し、ハドソン湾から太平洋に抜ける事は可能か否か等、数多くに失敗の中で、大胆な実行力と勇気、そして幸運に恵まれた一握りの者が歴史に名前を残しました。

 最後にコロンの評価について。
最初にアメリカに到達したコロンは、長い間英雄として扱われてきました。
しかし、一方ネイティブアメリカンからは、その評価に対して多くの疑問の声が挙げられ、コロン以後ヨーロッパ人が続々とアメリカに渡り、その結果、ネイティブアメリカンの暮らしは徹底的に破壊され、現在迄続いているのです。

最後に北アメリカのスー族の言葉を引用して大航海時代を終わります。
「インディアンと云う名前は我々のものではない。道に迷ってインドに上陸したと思いこんだ或る間抜けな白人がくれたものだ。」

大航海時代終わり・・・

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