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2012/02/20

人類の軌跡その311:大航海以後のアメリカ大陸④

<アメリカの征服とヨーロッパの変容その④>

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クスコ 現在

◎インカ帝国の征服

 インカ帝国は1533年、コンキスタドールの一人、フランシスコ・ピサロによって滅亡しました。
ピサロは、ヨーロッパ人として、太平洋に到達したバルボアの副官であり、バルボアは黄金を求めてパナマ地峡を探検していました。
ピサロも同様に、このアメリカ大陸の何処かに黄金郷(エルドラード)が存在するものと信じて、一攫千金を夢見ていたのです。
やがてコルテスが、アステカ帝国を滅ぼし、莫大な財宝を手中に収めた話を耳にし、自分も第二のアステカ帝国を発見する事に力を注ぎます。
南アメリカの太平洋岸を南下している途中、現地人から、ペルーの山(アンデス山脈)の上に大帝国が存在する情報を得るものの、探検を行うには、資金、人間、装備が必要で、更に正確な情報提供者を集め、最初の遠征から約7年間の時間を費やし、ピサロはインカ帝国の政治、軍事、地勢等の情報収集を行いました。

 その頃インカ帝国では、前王ワイナ・カパックの崩御に伴い、腹違いの二人の息子ワスカルとアタワルパの間で王位継承をめぐる内紛が起こり、兄のアタワルパが勝利をおさめ13代インカとして、即位しました。
ほぼ時を同じくして、ピサロの一軍は帝国征服為、アンデス山脈に差し掛かります。
ピサロの兵力はコルテスよりも更に少なく、兵168名、馬27頭、大砲1門、対するインカの人口は一千万とも云えられています。

 インカ帝国は、現在のエクアドルからチリ中部迄、アンデス山脈の太平洋岸に連なる長い国で、首都のクスコを中心に道路網が発達、可也の中央集権的な政治機構を備えていました。
歴史的に見れば、部族連合的国家であるアステカ帝国とは大きく異なる部分で、ピサロはコルテスの様にインカに反抗の狼煙を上げる、他の部族を味方につける事は、容易では在りませんでした。

 一方アタワルパは、ピサロ達白人の一行が武器を携えアンデス山脈を進んでいる情報を独自の通信網であるチャスキ(飛脚)により正確に把握していました。
その勢力が200人にも満たない事を知り、アタワルパは疑い、しかも兄弟を倒した内紛の直後で、彼自身3万の兵士を率いているのでした。
そして、ピサロ一行を白き神「ビラコチャ」の再来とも考えていたのです。

続く・・・


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